クリアな詭弁の世界に淘汰 | ナノ


ゆらゆらと、身体が上下に揺れる。浮上していく意識でそれを感じ取ると、だんだんと霧が晴れていくにつれて視界が移り変わっていく。それをはっきりと闇だと自覚した時には、頬に感じる肌寒さも確かなものになっていた。す、と自然に瞼が上がると、その闇が綺麗に晴れていく。同時に、頬を撫でる黒髪と揺さぶられる感触で、自分が誰かに担がれているのだとぼんやりと感じとった。寝起きの癖で小さく身じろぐと、その黒髪が揺れる。


「あ、起きた?」
「……ジュード?」


うん、と頷くのと同じタイミングで靡く毛先が頬に当たってこそばゆい。そっと顔を離して周りを見れば、ジュード以外の皆も前を歩いていて、コトが目覚めたことに気付くと真っ先にレイアが駆け寄ってきた。ジュードはコトの気持ちを悟ったのか、言うまでもなく背から降ろす。ふと思い出して目をやれば、右肩の怪我はまるでなかったかのように綺麗に治っていた。


「コト、良かったー!」
「ごめん、心配かけて。…エリーゼ、ティポは無事?」
「…コト、それがね」


質問からやや間を空けて、答えたのは尋ねられたエリーゼではなく不安げな顔をしたレイアだった。エリーゼだけがこちらを向かない時点で何かあったのは明白だったが、ティポはさらわれる前と変わらずエリーゼの隣に浮いている。コトは大人しくレイアの説明を受けることにした。
ジュードたちがこちらに追いついた時、コトは既に気を失っていた。しかし、意識が途切れる寸前にジュードたちに発見されたアルヴィンは、ティポに何があったのかすべて見ていたらしい。ティポをさらった男の一人が、ティポの中から何かを抜いていた。それはコトも見ていたことでぼんやりと覚えているが、それが何なのかまでは全く見当もつかなかったのだ。ティポから抜き出されたもの、それは増霊極だった。増霊極というものの存在自体は、ジャオに同行していた時に聞いたことがある。幼くして親を失ったエリーゼはこの研究所に連れて来られ、ア・ジュール国による実験の被験体にされていた。そして、拠り所のないエリーゼを研究所に売ったのが、シャン・ドゥで出会ったイスラだったという真実を聞いた。エリーゼは、一つの増霊極の適合者であったがために、ティポという彼女の心の言葉を話すぬいぐるみと行動を共にするよう仕組まれていたのだという。その増霊極を抜かれたことで、ティポは以前とは変わってしまった。変わったというより、初期化された、という方が適当か。


「…この話、ジャオさんに聞いたんだ」
「ジャオ…?会ったの?」
「うん。コトのこと、心配してるみたいだった…ていうか、やっぱり家出って言ってたよ。それで…その、」


少し言いにくそうに言葉を濁すジュード。あまり良い反応ではないことから、まさか戦ったのかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。というか、今のジュードたちが束になってかかっても、ジャオを相手に全員が元気というのがまず異常なことだ。たとえ治癒術があったとしても。それだけ、ジャオには普通とは桁違いの力があるということなのだ。何となく言うか迷っているようなジュードに代わるように、今度はミラがコトの名を呼んだ。


「今はやることがあって長居はできないと言うから言伝を預かった。一度、帰ってきてちゃんと話をするように、とのことだ」


なるほど、ジャオの言いそうなことだ。ジュードが言いにくそうにしていたのは、おそらくコトが一人でパーティを離れることを心配したためだろう。しかし、本人に言われたのでは仕方あるまい。すぐにとはいかないが、一度ジャオと会う必要がありそうだ。
ふと、それまで一度もこちらを向かないエリーゼに視線を向ける。皆も気にかけてはいるようだが、当の本人は誰も寄せつけないという雰囲気を纏っている。ティポや両親のことで、よほど混乱しているのだろう。コトはレイアとジュードの隣を離れ、エリーゼの少し後ろについた。


「エリーゼ、ティポを守れなくてごめんなさい」
「……」
「ショックで悩んでいるかも知れないけど、一人で抱え込まないで。話を聞くくらいしかできないけど…」
「コトも、…同じです」
「え?」


唐突に喋り出したエリーゼ、しかし言葉の意味が分からず首を傾げる。けれど、彼女はそれ以上何かを言うつもりはないらしくそっぽを向いたまま、代わりにティポがコトの目の前に浮かび上がってきた。


「コトは記憶がなくたって待ってる人がいるんだよー。エリーゼは一人なんだから、コトにエリーゼの気持ちが分かるはずないんだー」


それだけ言うと、ティポはコトから離れいつもの位置に戻る。コトはと言うと、まさか言われると思ってもいなかった言葉に返すこともできず、先に歩き出した小さな背中をただ見つめていた。まさか、エリーゼがそんなことを言うとは思わなかったのだ。否、しかしティポがエリーゼの気持ちを喋るように作られたものだと言うのなら、あれが大人しい彼女の心の内なのだろう。悪い言葉を使うのは子供だけの責任ではなく、それに気づけなかった大人が原因でもあるのだ。コトは、気づくことができなかったのだ。気にするな、というようにジュードに肩を叩かれ、コトも苦笑を返して再び足を進めることにした。
シャン・ドゥへの帰り道、意図的なのかずっと気になっていることがあった。エリーゼとティポがずっと黙ったままだったせいか目立たなかったが、もう一人おとなしいのが居たのだ。


「アルヴィン」
「ん?どうしたよ、コト嬢」
「ううん。起きてから話してないと思って。おはよう、アルヴィン」


はよ、と同じように挨拶を返してくるアルヴィン。いつもと何ら変わりないようには見えるが、やはりどこかに違和感。隠すのが上手いのか、自分の洞察力が乏しいのか、彼が何を考えているかまでは分からない。しかし、コトは分からないことを悩むような性格ではなく、行き着く先は「訊く」もしくは「そっとしておく」の二択になる。差し違えないようなら基本的には訊くことの方が多く、今回も例外なくそちら側の答えにたどり着いた。「どうかしたの」と率直に、かつ当たり障りないよう尋ねれば、アルヴィンは僅かに睫を震わせコトを見下ろした。


「…悪かったな」


稍あってから、アルヴィンが述べたのは謝罪の言葉。それは他でもないコトに向けられたものだというのは明白だったが、それが何に対する謝罪なのかコトには分からなかった。分からなかったから黙っていたのだが、その沈黙がアルヴィンの居心地を悪くしたらしく、彼は頭をかき混ぜながら続きの言葉を濁した。


「あー…だからさ、さっきの」
「さっき?」
「奴らにやられた時のだよ。攻撃を外したつもりだったんだが、結構な怪我してただろ」


そう言われ、先ほどの戦闘を思い返した。確かにあの黒匣の攻撃はかなり効いたが、それでもまだ良い方だったと思う。アルヴィンが軌道を逸らしてくれなければ命中とまではならないまでも、大怪我になっていただろうし。感謝こそあれどそれを責めるなんてするはずもない、むしろ。


「私こそ、油断したせいでアルヴィンに無理させちゃったし。ごめんなさい」
「お、おう…いや、それは良いけど…よかったな、傷残らなくて」
「ふふ、ありがとう」


その時、アルヴィンは普段とは少し違う笑顔だった気がした。ただの勘違いかも知れないが、いつもより自然と零れた笑み。そんな雰囲気を感じさせたのだ。

シャン・ドゥに戻ると、いち早く気付いたイスラが真っ先に一同に駆け寄ってきた。ずっと待っていたのだろうか。そうだとしたら、ずいぶんと心配をかけてしまっただろう。イスラはジュードたちが全員無事なことを確認するなり、深く息を吐いて肩の力を抜いた。こうして見ると、子供を金で売るような人間にはとても見えない。


「王の狩り場へ行ったと聞いて心配していたのよ。偶然とはいえ、あなたたちを巻き込んでしまってごめんなさい」


申し訳なさそうに眉を下げるイスラ。いつもなら、気にしないでと率先してお人好しを発揮するのがジュードだ。しかし、今回は違った。ジュードは少し前に踏み出すと、その金の眼でイスラを見つめる。


「イスラさん…それ、嘘ですよね」
「な、なに…?私が心配したら変かしら」


普段のジュードからは考え難い言葉。だが、途端にイスラは目を泳がせ明らかな動揺の様子を見せる。まるで図星をつかれたかのような態度に、周りの目も訝しむものに変わる。ジュードは、イスラは意図して自分たちに近付いたのだと気付いていた。偶然を装いこちらに接触し、確実に目的を遂行するために。そして、彼女を差し向けたものが背後にいる。それが、アルクノアだ。事実を突き付けられた途端、イスラの態度は明らかに変わった。酷くショックを受けたらしく、その表情には怒りと悲しみが混在している。イスラが昔にしていた仕事、それをユルゲンスに知られたくなかったのだという。彼女もまた、アルクノアに弱みを握られ良いように使われた一人だということか。しかし、それで彼女の犯したことがなくなるかといえば、答えは否。


「ユルゲンスは知らないのか」
「言えるわけないじゃない!ユルゲンスはとても純粋な人なのよ」
「なぜ話さないんだ?すでに過ぎたことだろう」
「あなたも女なら分かるでしょう。こんな醜い女を彼が愛してくれるはずがない…。あのことを知られたら、私は…捨てられるっ…私は幸せになりたいだけなの!お願い、彼には言わないで…ください」


だんだんと声が小さくなり、言葉も舌足らずになっていく。イスラはそのまま地面に泣き崩れ、ジュードたちにひたすら哀願した。幸せになりたいだけ、その言葉に偽りはないのだろう。しかし彼女は、幸せになることと、幸せだと無理やりに塗り固めたそれを独占することを履き違えてしまったのかも知れない。彼女の言うものが、コトにはどうしても幸せだとは思えなかったのだ。可哀想な人だと、素直に思った。
しかし、ミラは彼女の心情が理解できないのか悩む仕草を見せたあとに、諦めたのかエリーゼを振り返った。


「ふむ、人間の愛というものは難解だな。私には理解できそうもない。どうするかはエリーゼ、おまえが決めるといい」
「…どうして、わたしなんですか」
「私よりその権利はあるだろう」
「…どうでも、いいです」
「どうせエリーゼが一人ぼっちなのは変わらないんだからー」


エリーゼは地面に伏したイスラを一瞥したが、すぐに視線を逸らした。その口から吐かれたのは投げやりな言葉だけで、続くように喋るティポの言葉がより一層切なさを感じさせる。乞うた許しを与えられることもなく、イスラは力無く立ち上がると覚束無い足取りで町の方へと戻って行った。しばしの沈黙と、やりきれない胸のざわめき。おそらく誰もがそれを感じている中で、レイアが気を取り直すように明るい声を上げる。


「それじゃ、ユルゲンスさん探そっか」


今の話のあとにユルゲンスに会うというのも妙な心境だが、ワイバーンを借りるためにここまで来たのだから会わないわけにもいくまい。歩き出した一同は、とりあえずと町の中心の方に向かっていく。しかしその途中、アルヴィンだけが足を止めた。列の真ん中にいた彼が止まれば誰もが気付くのは当然で、アルヴィンの視線が道の先にある階段へと向けられていることで全員がつられるようにそちらを向いた。しかし、これといって変わったことがあるわけでもなく、探しているユルゲンスを見つけたわけでもない。ただ、その視線の先に何があるのか、知っているのはコトとミラだけだった。


「…ちょっと寄りたいとこあるんだけど、良いか?」
「う、うん。大丈夫だけど」


戸惑いがちに返事をするジュード。アルヴィンはそれを気にする素振りもなく、返答を聞くなり歩む行き先を変えた。皆を案内するように歩いていくアルヴィンの背中に、コトは心をつつかれるような、急かされるような気分になり小走りでアルヴィンの隣に並んだ。


「アルヴィン、いいの?」
「ワイバーンを借りたら、しばらくは戻ってこれないだろ?」


もっともらしい理由に、コトがそれ以上口出しをする権利はなくなった。アルヴィンがそうしたいというのなら着いていくしかない。自分と彼は他人同士で、決めるのは他でもない彼なのだから。
訪れるのは二度目になるアルヴィンの母、レティシャの家は、やはり以前と変わらず薄暗かった。前の印象と変わらずベッドで寝ている人影を見て、また寝ているのかと思った。しかし、アルヴィンが近付けばレティシャはゆっくりと目を開き、ぼんやりしながら瞬きを繰り返した。やがてその瞳はアルヴィンと、たまたま隣に居たジュードに向けられる。


「あら、あなたは…」
「ど、どうも…」
「バランじゃない。また家を抜け出して遊びに来たのね…せっかくバランが来てくれたのに、アルフレドったらどこへ行ったのかしら?」


戸惑いがちに挨拶をしようと試みたが、返ってきたのはやけに陽気な声。顔見知りのようにジュードに話しかけるが、レティシャが呼ぶ名は彼ではなく、別の誰かの名前。知らない名前がふたつ。バランと、アルフレド。その可笑しな状況に、ティポが何を言っているのかと尋ねるが、誰も答えることが出来ず、話しかけられたジュードは何も反応できずに居た。しかし、一人落ち着いた様子のアルヴィンは、ベッドに寝たままの母の傍らに膝を落とし、普段より幾分も優しげな声で話しかける。


「レティシャさん…アルフレドは幼年学校の寄宿舎じゃないですか」
「ああ、そうだったわね…。あの子、きっと泣いてるわ。気が弱くて寂しがり屋だから…」
「大丈夫、元気だって手紙が届いてます」
「ええ、休暇には帰ってくるんですって…大きな船で旅をする約束をしたのよ」
「アルフレドも楽しみにしてましたよ」
「ふふっ。あの子、手紙でね、私が泣いていないか心配しているのよ…おかしいでしょう?でも、とっても優しい子なの」


当たり前のように会話を繋ぐ二人。しかし、その姿は親子というにはあまりによそよそしく、あまり会えない互いのことではなく、そのアルフレドという人物について話している。むしろ、アルフレドのことを語るレティシャの姿の方が…。
そこまで思考を巡らせて、コトはそれを打ち消した。考える必要がなくなったからだ。そっと隣のローエンを窺えば、彼も気まずそうな顔をしている。きっと、皆気付いてしまった。レティシャの中に存在する息子の姿は、今自分たちと共に居る彼ではないということに。忘れること。それが彼女の病なのかは分からないが、ジュードは見ていられないというように視線を足元に落とした。今まで聞いたどんな声より優しい、アルヴィンの言葉。そこからは愛情が滲み出ているのに、肝心の相手はそれが自分の息子とも気付かない。いたたまれない、と。他人だからこそ思う感情さえ醜く思えてくるほどだ。
しばらくして、話し疲れたのかレティシャは再び眠りについた。


「、…」


なにかを口に出そうとして、結局思い付かずに止める。アルヴィンの慣れた様子、きっと何年も昔からこうだったのだろう。慰めの言葉も、同情も今更なにを生み出しもしない。母親を守るため、そのために仕事をこなし、アルクノアにも従ったとアルヴィンは言う。そう言われれば、もう誰も彼を責めることなど出来ないのであろう。以前、彼に連れられてここに来た時には、何もわからなかったけれど。けれどレティシャの言う通りなら、彼はとても優しくて、本当は。本当はとても、弱い人、なのかも知れない。
家を出た後も、彼の背中が普段よりずっと小さく見えて。胸に僅かに感じるざわめきをどうしようも出来なくて、陽の元から隠れるように伸びる影を爪先で捕まえた。

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