クリアな詭弁の世界に淘汰 | ナノ


ガンッ、壁に叩きつけられる衝撃にアルヴィンは顔をしかめた。掴まれた胸ぐら、捕らえているのは仲間であるはずの精霊の主だった。


「…何すんだよ」


これくらいのことで腹を立てたのか、普段よりも一層低い声でそう問いかけた。しかし、普通の女なら脅えでもしそうな声にもミラは怯まない。逆に鋭い視線でアルヴィンを睨みつけてくる。この状況に身長は何の意味も成さないか。彼女は相手の見てくれで恐怖を感じるような器ではない。それこそ、世界を見つめるものらしく、アルヴィンのことなど本当は見てもいないのかも知れない。


「アルクノアのこと、どこまで知っている」
「アルクノア…?なんだよ、食いもんか?」


無駄だと分かっていながら尚も誤魔化そうとする、そういう人間だ。しかし、それも無駄に終わる。ル・ロンドでの夜、ジュードの父親とアルクノアの話をしているのを聞かれていた。どう見てもミラは眠っているように思えたのだが、油断の隙もないとはこのことか。アルヴィンは困ったように両腕を上げる仕草を見せた。


「おまえもアルクノアか」
「勘弁してくれよ。俺だってアルクノアの連中に仕事を強要されて困ってるんだ。抜けたいが、そうもいかないんだよ」
「…まさか母親を?」


不意にミラは掴んでいた胸ぐらから手を離した。そう、彼女はこういうところがある。目的のためと豪語し、ある時にはエリーゼの命を厭わないと言いながら、自分の手が届く範囲、すなわち世界中の個々の命にひどく過敏だ。それが精霊の主たるものの姿なのかは知らないが、アルヴィンからしてみれば非現実的な綺麗事でしかない。言ってしまえば、精霊の主がこうして人間の姿をして自分と対峙していることが既に非現実的なのだが。アルヴィンは結び目の乱れたスカーフを適当に直しながら、ため息をつきたい気持ちを必死にこらえた。


「信じてもらえるのか?」
「お前はウソツキだったな」
「そうそう。だから、何を聞いても無駄だぜ。俺ってそういう人間なのよ」」


それらしい理由なんていくらでも口から勝手に出てくれる。普段のように軽い調子で笑えば、ミラはもう問い詰めるのを諦めたのかアルヴィンに背を向けた。無防備だ。しかし、ここでアルヴィンが銃口を向けたところで無償には済まないのだろう。先日のコトの時と同じように。


「どこ行くんだよ」
「アルクノアの連中を探す」
「俺も行くよ、仲間だろ?」
「そうか。それなら、そこにいる奴にもちゃんと説明してやってから勝手に着いてくれば良い」


は?と口から出掛かって、止めた。ミラがこちらを振り向いたからだ。しかし、彼女が見つめるのはアルヴィンではなくその向こう。不意にじゃら…という鉄を擦り合わせるような音。弾かれたように後ろを振り返れば、次の瞬間に塀に白い手がかかる。ふわり、まるで空中を飛んでいたかのような軽やかさで、塀に飛び上がるコトの姿に、アルヴィンは僅かに息を呑んだ。昼間とは違う、朝焼けの色が溶け込んだ瞳が別の人間のようにも思わせた。


「私は先に行く」
「あ、おい…っ」


アルヴィンが呼び止める暇もなく、ミラは早足で行ってしまった。取り残されたアルヴィンは、顔を合わせ辛いのかコトを見ようとはしない。昼間とは随分な違いだ。


「私がアルヴィンを気にしてるのに気付いてたんだ。さすがミラね」
「…コト嬢、ずっと塀にぶら下がってたのかよ」
「まあね」


何食わぬ顔で肯定をしてくるが、隠れていたということは聞き耳を立てているという自覚もあったということ。見れば、塀の歪な突起にしっかりと巻きついた、彼女の武器でもある鎖。油断の隙もないのが、もう一人居たとは思わなかった。


「で?俺のこと気にしてるって、もしかして本当に口説いてるのか?」
「ないわね」
「ひでーの。俺、コト嬢に聞かれたら何でも答えちまうかも知れないぜ?」
「どうして?」
「俺の好みド真ん中だから」
「そう、それはありがとう」


まるで興味のなさそうな返事。照れのひとつも見せないコトにアルヴィンはつまらなそうな顔をするが、彼女に「誰かにそう言われたのは初めてじゃあないから」と言われ妙に納得してしまった。つまり、自分のように態度の軽い男に絡まれた経験があると。そして自分はそんな誰かも知らないようなどうでも良い人間と同じような認識だと。それは何とも虚しいものを感じさせる。


「…気にしてたのは、アルヴィンじゃなくて、あなたに言われたこと」
「ん?」
「私は普通じゃない。普通じゃないことを気にしたこともなかった。でも、それでアルヴィンは少なからず嫌な思いをしたでしょう?」
「何それ、それで俺に悪いことしたって気にしてたわけ?」
「違う、周りをまるで見てなかった自分に自己嫌悪してただけ」


つらつらと話していくコト。その言葉はアルヴィンの予想を覆すものばかりで、まるで図っているかのようだ。それとも、もしかしたらアルヴィンのようにそれらしいことを述べているだけなのか。とても、そういうふうには見えないけれど。ぽつりと、心の一番端に小さな暖かみが灯ったような感覚に、アルヴィンは気付かない振りをした。


「…そういうことサラッと言っちゃうあたり、かっこいいよな。マジで惚れそーかも」
「はいはい」


じゃあ行こう、と歩を進めだしたコトの腕を、アルヴィンは思わず掴んだ。エリーゼなんかよりずっとしっかりした感触、旅のうちについた筋肉だろうか。当然だ、精霊術も扱えず、その身一つで旅をしてきたのだから。当たり前のように強いわけではない。きっと何度も危険な目に遭って、もう癒えたであろう傷もたくさんつくっている。一人はそういうものだと、アルヴィンは知っていた。急に引き止められたことで、コトはアルヴィンを訝しげに見つめる。その視線が何となく痛くて、アルヴィンはそっと腕を解放した。


「…ちょっと寄っていかね?」


アルヴィンが後ろ手に差したのは、先ほどまで自分が居た場所。それが誰の家かを知っているコトは、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。


「アルヴィンのお母様が居るんでしょう?いきなり訪ねたり出来ないわよ」
「ミラ様に説明しろって言われてんのに、あんまり早く行ったら変だろ?それに、寄ってほしい用があるんだよ」


また、それらしい理由。普段のように笑いながら言えば、しばし悩んだのちに肯定の言葉が返ってくる。それを聞くなり、アルヴィンは再びコトの腕を掴んで引きずるように家の中へと入っていった。あまり乗り気ではなかったようだが、アルヴィンは気にも留めなかった。否、乗り気だろうがそうでなかろうが、アルヴィンには関係ないのだ。
ただいま、と小声で二度目の挨拶。部屋の中に明かりは灯っておらず、少し薄暗い。


「お袋、今は眠ってるけど、あんま気にしなくて良いから」
「う、うん…」


困ったようなコトの表情、これは初めて見るかも知れない。アルヴィンはそのまままっすぐ部屋の奥へと進み、備え付けのテーブルの前まで行くと振り向いてコトに手招きをする。他人の家で勝手はできないと、コトは素直に従う。二人で並ぶように立つと、アルヴィンは無言でテーブルの上を指差した。それを見て、コトは首を傾げる。


「…なに、これ」
「ピーチパイ。手紙で一度帰るかもっつったから、作ったんだと」
「好きなの?」
「そりゃもう」
「ふうん…」
「どうした、オムライス好きのコト嬢?」


にたにたと笑うアルヴィンに、稍あってから顔を背ける。イメージに合わない、と言えばお互い様だと返ってくるのが目に見えていたからだ。もう一度テーブルに置かれたピーチパイを見れば、アルヴィンが食べたのかそれは綺麗に三分の一ほど欠けていた。


「で、作ってくれたは良いんだけど一人じゃ食べきれなくてさ。コト嬢が手伝ってくれると助かるんだけどなー」
「…用事ってこれ?」
「おう」


悪気もなければ良心もなし。コトは思わず苦笑を零した。人工的に欠けたピーチパイを、アルヴィンはコトの返事も聞かずに二つに切り分けた。それを手頃な紙に包んで、そのままコトに差し出す。


「歩き食い?行儀悪いわね」
「仕方ねーだろ?もし食べてる間に起きたら色々聞かれそうだし」
「そ。まあ良いけど」


コトはアルヴィンからピーチパイを受け取り、両手で大事そうに包む。そのまま家主に挨拶することもなく家を出たものだから、何だか泥棒にでもなった気分だ。外に出てすぐ、アルヴィンは包みを剥がしピーチパイにかじりついた。それを見て、コトも苦笑いを浮かべたまま同じように食べ始める。


「おいしい」


簡単な一言だったが、アルヴィンは満足そうに笑う。自分の好きなものを共有できるのは誰にとっても嬉しいものだ。「今度はコト嬢のオムライスが食べたい」と冗談混じりに言えば、仕方ないというように頷く。そのうちね、といつになるかも分からない返事に、何となくお預けを食らう犬のような気分になった。


「あ、いたいた!コトー、アルヴィンくーん!」


はた、と歩んでいた足が止まる。予想しなかった呼びかけに顔を上げれば、少しした先に大きく手を振るレイアの姿。良く見ればコトとアルヴィン以外の全員が集まっていた。どうやら出遅れてしまったようで、コトは早足で、未だにのんびりとしているアルヴィンの腕を引っ付かんでレイアたちに合流した。


「ごめん、遅れちゃって」
「まだ大丈夫だよー。って、あれ?二人とも何食べてるの?」


さすがレイア、目ざとい。すぐさま二人の手にある物に目を向け、興味を示す。コトはそんなレイアに笑顔を向け、ピーチパイを持っていない方の手で隣のアルヴィンを指差した。


「心配かけたお詫びにって、アルヴィンに奢ってもらったの」
「ええ〜、コトばっかりズルい!」
「僕たちも心配したもんね〜、エリー!」
「は、はい…心配、しました」
「大丈夫、今度みんなにも奢るって言ってたから」
「…勝手なこと言ってくれんのな。傭兵だってジリ貧だってのに」


心なしか、アルヴィンの表情が引きつっているようだ。しかし、彼にはこれくらいが良い薬だろう。勝手に飛び出して皆に心配をかけたことは事実なのだから。コトにだけ聞こえるように文句を言っても、彼女は聞こえない振りをして笑うばかり。どうやら、今後の出費はそれなりに覚悟しなくてはいけないようだ。


「アルヴィン」
「あ?」
「美味しかった、また食べたいな」
「…お、おう」


いつの間にかピーチパイを食べ終わっていたコトが何食わぬ顔でそう言うものだから、アルヴィンはたどたどしく返事をするしか出来なかった。肯定の言葉に満足したのか、コトはアルヴィンの隣を離れレイアたちの輪に混ざっていった。


「…参ったねえ…」


アルヴィンは持ち上げた腕で頭を掻きながら、そう零す。不思議に思ったのかジュードに名を呼ばれたが、返事をする気にはなれなかった。演技なのか本心なのか、他人の意識にさり気なく、けれど確実に入り込んでいく言動には感心するしかない。どこかの誰かも知らないが、ジュードたちに出会う前に男に言い寄られた経験があるようなことを言っていたのにも頷ける。気を抜けば無意識のうちに心を掴まれてしまいそうで、逃げ道を探すのに苦労しそうだとアルヴィンは浅いため息をついた。
何かに固執しそうになるなら、その芽から潰さなければならない。

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