短編 | ナノ


彼は甘やかすことが、なりふり構わず甘えたいという幼稚な感情を引き出すことにこの上なく長けていると思う。それは今までの自分の経験からも、小説を読む第三者のように傍観していた時にも感じたことだ。かわいそうな女の子たち。本心でありながらとても軽くて甘い綿菓子のような言葉に踊らされて、束の間のお姫様を体感してキラキラと笑顔を輝かせる。違う、そんな、口に含んだらじわりと溶けてしまうような、詰まらないしあわせなんて要らない。私には必要ない。私はあの子たちとは違う。そう自分に言い聞かせて、要は強がっていたのだ。私は誰より彼を知っているつもりになって、満たされていた。彼は誰にだって(多少のえり好みは最早当たり前のことだが)綿菓子みたいな言葉をかけるし、それを見ながら軽いな詰まらないな、なんて思う私は、ギトギトした気持ちをなんとか着飾って見せようとする不恰好な飴細工のようなものだ。

「おはよ」

彼がその何でもない挨拶の直ぐ後に、当たり前に私のファーストネームをくっ付けるようになったのは一ヶ月ほど前のことだ。とてつもなくオンナノコを甘やかすのが上手い彼は、実は優しさだけでなくオンナノコが萎縮してしまう手法だって備わっていたわけで、普段教室の真ん中で笑っているような彼は、放課後の橙が差し込む教室の、日直の仕事を忘れて遅くまで残っていた私の目の前に、まるで計ったかのように現れた。それから軽い挨拶よろしく言ってのけたのだ。

おまえ俺に言うことねぇの?

彼の言葉はその単調さと裏腹に、私にはとても熱く感じた。歪なままガチガチに固まった飴細工の私を簡単に溶かしてしまえるほどに。己の意思とは真逆に、彼の言葉のままに想いを告げていた私は、その日から晴れて丸井ブン太の恋人となった。バスケ部の女子マネと別れたという話を聞いたのは、その三日前のことだったと思う。

「なぁ、」

どきりとした。一瞬怒られているような錯覚。それは私が、ブン太を目の前にしながら呑気に過去のことに馳せていたからだろうか。少なくとも、今ここにいる彼は相変わらず柔らかくて優しい。なぁに。負けじと自分も猫撫で声の虚勢を張った。私の目の前の席の男の子がいつも本鈴ギリギリに来ることをすっかり覚えてしまったブン太は、椅子の背もたれに跨るようにそこに腰を下ろした。すっかり彼氏彼女の雰囲気。付き合い始めた次の日からこんな感じなのだから、さすが手慣れたものだ。こてん、と背もたれに組んだ腕に頭を預けて、ブン太はどこか甘えるみたいな上目遣いを私に寄越した。

「まつり」
「え?」
「行かねぇの?去年、着てたじゃん、かわいー浴衣」

ブン太が言っているのが、毎年秋頃に開催される神社の祭典だということを悟った。確かに去年は女友達と三人で行って、新品の浴衣を着た記憶もある。けれどその時にブン太とは鉢合わせなかったし、少なくとも彼は私に気付いてなんかいないと思っていた。だって私は彼みたいに目立つ髪色をしているわけでもないし、その時彼は可愛い一つ後輩の彼女を連れていたはずだった。
そんな遠い記憶を思い出してじくじくと胸を痛めながらも、ブン太の言った可愛いの一言に簡単に浮かれそうになる自分に心底呆れる他なかった。

「わかんない。誘われたら行くかもしんないし」
「いや、だから」
「ん?」

誘ってんだけど。俺が。そうブン太が不満そうに言うものだから、私はきっと随分な阿呆面で彼を見つめてしまったことだろう。

「んだよ。彼女をデートに誘っちゃいけねーのかよぃ」

そうじゃない。そうじゃないけど、まさかブン太が私を誘うなんて微塵も思わなかったのだ。ああ、でもそうか。"今は"私が彼の彼女なのか。
でも、練習は?とか。友達は?たくさんいる兄弟たちは?とか。そんな上辺だけの気遣いの言葉ばかり浮かんでくる。なんだ、この後に及んで私は、ブン太に良く見られたいと思っているのか。こんな、女の子をアクセサリー程度にしか思っていないような男に。

「見たいんだけど、おまえの浴衣」

ここが朝の教室だということをお忘れか。それぞれが賑やかに朝の会話を楽しんでいるとはいえ、誰に聞かれるかわからないのに。ブン太は、平気なのかな。付き合うかと言われた日、きっとブン太は私のことを隠すと思った。その方がいずれ訪れる別れの時に、後腐れなく次のオンナノコを選べるはずだから。なのに彼は、こんな噂好きなお年頃のクラスメイトが溢れかえる教室で、まるで見せつけるようにこんな話を持ちかけてくる。正直私にはキャパシティオーバーというやつだ。要は、恥ずかしいのだ。自分がブン太の恋人だと自覚する瞬間が。そして同時に、嬉しい心情を嘲笑うかのように、惨めだと胸を痛める。女の子って、面倒くさい。

「…あの」

面白くない、と言うような不満げな表情のブン太に何か返さないと。そう思っていたら、元々のその席の持ち主がバタバタと慌ただしく教室に飛び込んできた。続いて響き渡る機械音の鐘。少し遅れて、担任の男性教師がぜえはあと呼吸を荒くしながらヨロヨロと現れた。あの子、また先生と追いかけっこしたのか。いつ誰が設けたルールかは知らないが、このクラスでは担任より後に教室に来た者が遅刻扱いになる。
ブン太は相変わらず詰まらなそうな表情のまま「じゃ、あとでな」とどっしりと落ち着けていた腰を上げた。私の返事を聞くまでもなく自席に戻ってしまう背中と、ゆらゆら揺れる赤い毛先を見守ることしか出来なかった。


____


私が彼の部活動が終わるのを待つ事はそうそうない。私が所属する声楽部は、全国的に有名なテニス部と違ってお遊びの延長のようなもので、年に一度学校全体で行われる合宿コンクールの時期以外は殆どの場合夕方と呼ばれる時間のうちに活動が終わるのだ。私はいつかの後輩彼女のようにテニス部が終わるまで待つなんて甲斐甲斐しいことはしないし、それをやってしまったら如何に自分に余裕がなく、彼に惚れ込んでしまっているかを彼自身に見せびらかすようで耐えられないのだ。こんな意地っ張りな可愛くない彼女、きっと直ぐに飽きられる。だって今までの女の子たちはお昼には手作り弁当を渡す為に教室に出向いたり、調理実習ではわざわざブン太が好きなスイーツを課題にするよう教師に頼み込んだり、部活の休憩でスポーツドリンクとタオルを手渡すためだけにテニスコートのフェンスに張り付くような、素直で可愛らしい子ばかりだった。そんな子たちでさえ、手を繋いで、デートをして、大人の目を盗んでイケナイ事をしたら、次の週には赤の他人になっていたことも珍しくない。それなら、可愛げもなく献身的でもない私なんて、直ぐに彼女に選んだことを過ちだと思うに違いない。もしかしたら今既にそう思われているかもしれないのだ。そんなのは嫌だけど、どうせ捨てられるなら後腐れのないよう、傷付かないよう努めるしか、ないのだ。
だから私は期待しないし、ブン太の為に浴衣を新調するなんて事もしない。今だって、ブン太から直々に今日の部活は少し早く終わるから待ってて、とメールがあったから、珍しく彼を教室で待っているだけで。

「よう」

待たせていたことに、お待たせもごめんもない。悪びれなくブン太が教室に戻ってきたのは、もう日が沈み切る頃だった。この一ヶ月で、随分暗くなるのが早くなったような気がする。ブン太の明るい髪の輪郭が夕陽に溶けるようだと感じたのは、付き合い始めて直ぐの頃。それが最後だった。おつかれさま。そう言うなり、私は席を立った。何だか、ブン太が来るのを心待ちにしてたみたいで、少しだけ後悔。帰ろーぜ、と自然を手を取られ、私は相変わらず繋がれた手に違和感を覚えながらブン太の後をついて行く。
ブン太と家が逆方向なら良かったのに。そしたら、私たちの関係に何があったとして、いつもの道を通る度に思い出に浸るようなことも、ないのかもしれない。ブン太は優しい。皆に優しいけれど、無愛想な私を奥手とでも思っているのか、手を繋ぐばかりでそれ以上に及んだことは一度もない。バスケ部のあの子なんて、体育館倉庫で、なんて噂が出回ってたくらいなのに。
ブン太は優しい。人に合わせた優しさを演じる事ができる。だから私はブン太が本当は酷い奴だと知っていても離れることが出来ないのだ。

「なぁ、祭り」

朝の話を引きずり出してくるブン太は、実は相当私の反応が気に食わなかったらしい。これは意地でも連れて行かれる、と思いながら、それを私が嫌がってないことを彼は知っている。

「うん、良いよ」
「何その返事。かわいくねーのー」

うん、知ってる。私はブン太の前で、可愛く有りたいなんて思ってない。うそ。本当は思ってる。でも私程度がいくら可愛くなったところで、元の素材が素材だし、どうせいつかは、なんて思っている。

「うそ。かわいーよ」

ふわりと彼の大きい手が私の頭を撫ぜて、頭上からくすっという笑い声が聞こえる。へえ、ブン太もそんな品のある笑い方出来るんだ。

「今のブン太、幸村君みたいね」
「何だよ、彼氏を他の男と比べんのかよぃ?」

残念ながら比べてます。だけど幸村君はとっても綺麗だとは思うけれど、如何せんタイプとは程遠い人である。だってあんなに綺麗で上品な振る舞いが出来る人は、近くに居たら気疲れしてしまいそう。ブン太の隣で、しょっぱい恋をしている方がずっと気楽だ。

「浴衣、着てこいよ」
「えー、面倒くさい」
「俺が着付けてやってもいいからさ」
「やだ、変態」
「誰が変態だ。俺がおまえ大切にしなかったことあんのかー?」
「だって、」

あの子たちにはそうだったでしょう。そう言ってしまいかけて、慌てて口を閉じた。言ってしまえたら良かったのかもしれない。素っ気ない態度を取るのは簡単なのに、どうしてか素直な気持ちは吐き出せない。嫌われてしまうのが怖くて、それを先延ばしにしているだけだと、分かっているはずなのに。
ブン太は不自然に口を閉ざした私を咎める事もなく、きゅっと絡んだ指を繋ぎ直した。掠れて聞き逃してしまいそうな声量で私を呼んで、ブン太を見ればそっと私の視界に影が落ちた。あ、と声を上げる間も無く、私とブン太は手のひら以外の場所で熱を共有していた。

きっとこれを、普通の女の子は幸せと感じるのだろう。でも、ブン太、わたし知ってるの。付き合い出して半月くらいに、珍しく一緒に帰りたくなってブン太を迎えに行った日、君がなんて言っていたのかを。

うん。なんか、良く話すし、向こうもその気っぽかったから、手ぇ付けとこうと思って。

確かにブン太の声で、そう言っているのを私は偶然聞いてしまった。ああやっぱりなあ、と素直に納得した心とは別に、ピシャリと冷水を被ったようなあの感覚は、それから時折私を襲うようになった。

「ぶん、た」
「…ふは、テンパってんのレアだな」

一瞬だけ私を包んだ温もりはすぐに遠ざかって、代わりに彼の、照れたような笑顔が目の前にあった。ぽんぽん、と私の頭を撫でた手は直ぐまた手のひら同士で重なって、まるでそれが有るべき形だというように収まった。

「なあ、祭りでさ、何食いたい?」

私を自由に振り回す彼は、たった今のキスのことなんてまるでなかったかのように再び歩き出した。それに引っ張られるばかりの私の頭は、ふわふわと雲の中にいるような気分で、そんな馬鹿正直な自分を、心の何処かで私自身が呆れて見ているのだ。ああ、変わらないなぁ、私も。あの可哀想なオンナノコたちと。

「そうだなぁ、わたあめ、食べたいなぁ」
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