短編 | ナノ


暗がりに支配されたようなその空間は、私を包み込んでくれているようで、とても好きだった。小さな動物のように臆病な私は、暗くて狭いところに隠れることしか脳がないのだ。けれど、闇はいけない。影は私を隠してくれるけれど、闇はきっと私のようなちっぽけな存在を呑み込んでしまうから。滑稽なことに、か弱い私のような存在は、人一倍それを恐れてしまうのだ。


「おかえり」


かつん。ブーツの踵が床を蹴る音。私は突然聞こえたその声に反応するように足を止めた。昼間は照明として役割を果たしている魔導器が止まっていて、暗がりの中でその存在を判断することが出来なかったのだ。彼は、とても闇に違い色をしているから。ぎしり、と安っぽいベッドスプリングの音がしたかと思うと、それは足音も立てず気配だけで近付いてくる。得体の知れない何かというわけでもないのに、私はそれを少し恐ろしいと思った。身体二つ分まで近寄って、漸くその顔がうっすらと見えるようになった。これで月明かりでもあれば表情まで見えるのだろうが、あいにくと部屋のカーテンは締め切られている。それでも、私にはその瞳がぎらぎらと鋭く輝いているような気がしてならなかった。ただ見下ろされている、それだけは分かった。


「どこ行ってたんだ?こんな時間まで」
「ユーリこそ、こんな時間に何?ここ、女子部屋だと思うんだけど」


怖がっているのを見せないように、平静を装って笑ってみせる。私は夜目が利かないから彼の表情は見えないけれど、向こうはそうでないかもしれないから気が抜けない。私の尤もらしい質問に、ユーリは「あれ、言ってなかったっけか」とわざとらしく鼻で笑う。


「虫が出たっつって、男子部屋と代わったんだよ」
「そうなんだ。じゃあ、なんでユーリひとりなの?」
「カロル先生は虫駄目だから向こう置いてきた。おっさんは、どうせふらふら飲み歩いてんだろ」
「ラピードは?」
「散歩だよ」


どこまでが本当なんだか。あっけらかんと言ってのけるユーリにため息の一つでもつきたくなってしまう。


「なら、私も向こうに戻ろうかな」
「カロル先生が居るから、おまえのベッドないぜ?」
「良いわよ、カロルかリタと一緒に寝るから」
「…………待った」


早く部屋を出てしまおう。暗がりではあまりに分が悪い。そう思ってそっと踵を返すが、ユーリは気配だけで悟ったのか私の手首を的確に捉えがっしりと掴んできた。物理的に止められる足。今度こそ堪えきれずため息をこぼし、心底面倒くさそうな顔を作ってユーリを振り返る。そこにあったのは、想像した通りの不機嫌な表情。何故今になって表情が分かるかといえば答えは簡単、ユーリが頭一つのところまで顔を近付けていたからだ。


「なあに」
「まだ質問に答えてもらってねえんだけど」


慰めるようなあからさまな猫なで声に、返ってきたのは真反対に淡白な言葉だった。「どこに行ってた?」と先ほどと同じように尋ねられるが、その雰囲気はより険しい。


「興味あるの?」
「ああ、大アリだよ。帝国は嫌いなんじゃなかったか?」
「……勤務の時間外なら帝国の騎士とは言わないわ。それに、私は一個人の騎士にまで突っかかるほど馬鹿じゃないの」


ぎり、掴まれた手首に熱が籠もる。自分が握り締める手に力を入れた自覚がないのか、ユーリはまっすぐ私だけを見ている。ああ、これはそれなりに怒っていそうだ。案外冷静な頭で、どうやってこの状況を打破するか考える。何せ私は、一度だってこの男に口で勝てた試しがないのだ。不意に、ユーリの空いた手が些か乱雑に私の髪を掴む。ユーリの方に少し引っ張られて、軽い痛みを感じて短い悲鳴を上げた。


「いっ…!ちょ、なに…っ」
「気に食わねえ」
「はっ…?」
「妙に鼻につきやがる、その臭い…ちっ、んなもん引っさげて帰ってくんじゃねえよ」


手と髪を掴まれて動けないのを良いことに、ユーリは不機嫌を隠すことなく辛辣な言葉をいくつも吐き出す。臭い、と言われて私は初めてユーリの感じていたらしい違和感に気付いた。確か、今日会った騎士は香水なんてつけていなかったはずだが、それでも分かるものなのだろうか。ユーリは掴んだままの後ろ髪を強く下に引いて、無理に私の顔を上げさせて視線を交わらせる。


「あの騎士様と、どこで何したか…言ってみろよ」
「っ、…なんで、ユーリがそんなこと…」


気にするの。とまでは言わせてもらえなかった。
痛みに浮かぶ涙で視界がぼやけ始めた時、ユーリは私の言葉を呑み込んでしまった。がちり、と勢い良く歯がぶつかって新たな痛みに表情を歪める。まるで捕食するみたいに荒々しく唇を重ねられて、私は無意識に肩を跳ねさせた。まさかキスされるなんて思いもしなくて、思わず身体を硬直させてしまったのを良いことに、ユーリの行為は更に進行する。乱暴に口内に舌を差し込まれて、そこで漸く我に返って抵抗しようとすれば、素早い動きで髪を掴んでいた手が後頭部を抱え込み、もう片方が手首を離れ腰へと回される。端からすれば抱擁しているように見えるだろうが、実際は私が逃げ出せないように腕ごと抱えて羽交い締めにしているだけだ。大きな抵抗も出来ず、不本意にされるがままになっている私を、ユーリは労る素振りもなく弄ぶ。一瞬その無遠慮な舌を噛んでやろうかと思ったけれど、何故か私の方が後ろめたい気持ちになって実行に移せなかった。
あとはもう、ただユーリに翻弄されるがまま。女というのは厄介なもので、深く触れ合ってしまえばその心地良さに身を委ねるしかできなくなってしまう。好き勝手に人の唇を満足するまで堪能したかと思えば、ユーリは離れるなりすぐにまた私に身を寄せて頬と頬を触れ合わせる。


「…やっぱ、いい。言うな」
「……」
「つーか無理。想像しただけで耐えらんねえよ」


はぁあ〜…と、深いため息をついて、ユーリは私の肩口にぐいぐいと額を埋めた。
信じられない。あの、ユーリが、こんなに弱って、甘えている。私に、だ。
それを自覚した途端、カッと顔に熱が集まるのが分かった。まさか、あのユーリが他人にここまで弱みを見せるなんて思わなかったのだ。勝手に口づけられたことへの怒りも忘れて、私はユーリに抱きしめられたままあたふたと戸惑うばかり。すると、ユーリが肩口に顔を埋めたまま小さく呟いた。


「もう、やめろよ……夜に宿を出て行くおまえを見つける度に、俺はどうにかなっちまいそうだ」
「ユー、」
「こうやって知らない匂いをつけて帰ってくるおまえに笑ってやるのも……限界だ」


ぎゅうぎゅうと抱き締める力が強くなって、私はただ黙ってそれを受け入れるしかなかった。
ユーリは、ずっと前から気付いていたのだろうか。新しい町に着く度に、安心感を求めてさ迷う私に。いつも皆が寝静まったのを確認して宿を出て行っていたのに、ユーリはまるで前々から知っていたみたいに話す。もしかしたら、本当はずっと、知らない誰かに抱かれて帰ってくる私を疎ましく思っていたのかもしれない。名前も素性も知らない人に、まるで身売りのように身体を重ねる行為を汚らわしいと思っていたのかもしれない。それなのに、こうやって私を大きな手で抱き締めてくれる。今まで感じたこともないような罪悪感が、不意に生まれては恐ろしい勢いで育っていく。


「ユーリ…ごめんなさい。不愉快だったよね…」
「…正直、許したくねえ部分もあるんだけど」
「っ、」
「良いよ。ここで怒って嫌われたんじゃ、元も子もないからな」


ぽん、と頭に手を置かれ、ゆっくりと撫でられる。今までの乱暴さが嘘のようだ。気持ちの良い手付きに、酔いしれるように頭を寄せた。小さく、ユーリが息を呑む声。それと遅れて出た深いため息が聞こえた。


「まあ、俺の気持ちが分かったんなら良いさ。とりあえずは」
「うん。これからはみんなに分からないように遊ぶね」
「は?」
「ん?」


ぴたり、と心地よかったユーリの手の感触が消える。素っ頓狂な声を上げた彼に釣られて顔を上げれば、目も口も見事にまあるくしたユーリがこちらを見下ろしていた。


「…ちょっと待て、おまえどういう解釈した」
「え?だ、だから、私が大っぴらに遊び歩いてたら、みんなの志気にも関わるから、控えるとかそういう…………違うの…?」
「……………………悪夢だろこれ」


ぐしゃりと、ユーリは手のひらで前髪を崩すようにして顔を覆った。ユーリの質問に返していくうちに、だんだん彼の表情が強張っていくのはなんとか分かったが、まさかこんなになってしまうなんて思うはずもない。少なくとも、私が彼の考えを汲み取れなかったのだけは確かだ。どうにかしなければと未だに近い距離でうろたえるが、何を間違えたのかも分からないでどうにもなるはずがない。そうしている間に、ユーリはまた深く息をつくと、ゆっくりと手を下ろした。
今までと違う、獲物を捉える狼のような眼光。ゾクリと背筋が凍った。


「っきゃ!」


短い悲鳴。急に腕を力付くで引かれたかと思えば、足を掬われ勢いをつけて放り投げられる。どさり、と背中から転げるようにベッドに下ろされて、わけも分からないままユーリの四肢によって組み敷かれる。ユーリ、と掠れる声で名を呼んでも、彼は何の反応も示さず、頭の整理のつかない私に構うことなく服に手をかけた。ユーリの突然の変貌ぶりに戸惑う頭でも、その意味が理解できないはずがない。やめてと意思を込めて抵抗を試みるが、そんなものはまるで障害にもならないと言うようにあっさりと胸元が開かれる。ユーリはそこで一度手を止めて、そして指先で私の鎖骨あたりに触れてきた。そこには、先ほど仮初めの愛を交わした人の痕跡が、くっきりと残っている場所。


「…一晩限りの相手にしちゃ、随分と求めてきたみたいだな」
「ユ、ユーリ…お願いだからやめて…っ」


自分がつけたものでもないのに、指先だけは優しくそれを撫でる。それは一つや二つではなく、首筋から胸元にかけて点々と浮き出ていた。それをユーリに見られているというのが、恥ずかしくて仕方ない。何とか隠そうと開いた服を掴み寄せれば、ユーリは短く舌を打って魔導器を嵌めた大きな手で私を制する。両腕は瞬く間にまとめ上げられ、遂に微弱な抵抗のすべさえも奪われてしまった。


「待って、やだ、やめてユーリ、ねえっ」
「なんでだよ、知らない誰かさんが良いなら、俺なんて何の問題もないだろ?」


互いの呼吸を肌で感じれるほどの距離で、ユーリのニヒルな笑みが見える。ぞくぞくと背筋に走る悪寒。両手を拘束されているだけなのに、がちがちに固まった身体が一切動いてくれない。先ほど、部屋に入った時とは比べものにならないほどの恐怖が心と身体を支配する。私が何も抵抗しなくなったのを良しと取ったのか、ユーリはふっと頭を落とし首筋に顔を埋めてくる。歯の先端が肌に触れたかと思うと、遠慮なしに強く吸い付く唇。びくりと肩を震わせるが、構う様子もなくそれは繰り返される。身体が、一切動かない。ユーリの行動の意味は分かる。けれど、その理由は私には分からなかった。ユーリの瞳は、今まで会ってきたどの男とも違う感情を孕んでいるように見えて。その目を見てしまったら、頭が真っ白になって。けれど、私が動けないでいる間に進行するユーリの動きに、はっと我に返った。服に忍ばせた手が、熱の籠もった触れ方で翻弄してくる。明らかにそういった意味を持った触れ方に、私は必死に身体をくねらせ身じろぐ。やだ、やめて、と口にするほどに拘束された手首の痛みが増していく。到底離してくれるようには思えない。このまま、私はわけも分からないままユーリに抱かれてしまうのか。知らない誰かではない、ユーリに。…そんなの。


「や、だ…やだぁ…!ユーリ…ユーリだけは、嫌…っ」
「っ!」


がばり。まるで弾かれるように起き上がったユーリに、今までと違う意味で言葉を失う。未だ両手はシーツに縫い付けられたままだが、彼が身体を起こしたことで感じていた圧迫感は大分薄れた。同時に、目尻から零れる水滴が、頬から落ちて首筋を伝う感覚に、自分が泣いていたと悟る。


「随分…嫌われたもんだな」


自嘲気味に笑う声と、その指先が涙を掬う感触。慈しむように優しいそれは、それまでの荒々しい感情任せの行為とはとても似つかない。嫌だ、そう思っていたはずなのに、そんな寂しそうに呟かれて、情がわかないはずがない。
それに今、彼は嫌われたと言った。違う。私が抵抗したのは、そんな理由ではない。


「ユーリ…ユーリは、駄目…怖い…」
「…はは、なにそれ。悪人面って意味?」
「ち、ちがうっ…ユーリに触られたら、苦しくて…切ないよ…」
「…は」
「私が、ユーリを諦めたくなくなっちゃうの…」


ぐずぐずと泣きながら、舌足らずに喋れば、それまでとは逆にユーリの身体が固く強張る。ああ、だから嫌だったのに。私の気持ちはユーリを困らせる。ユーリには成さなければならないことも、守りたいものもたくさんあるのに。私なんかに足を奪わて良い人ではないのに。私はとことん馬鹿だ。知らず知らずのうちにユーリを怒らせて、挙げ句生半可な覚悟で立てた嘘の壁も自分から崩してしまった。泣きはらした醜いこの顔も、言葉も隠したいのに、ユーリに掴まれた手首が熱い。


「…おまえ……じゃ、いっつも遊び歩いてたのって…俺のことを、」
「…っ」
「……っの、ばか」


胸が詰まるような呟きと、離れる熱。手首の拘束を解かれたと思えば、その手はすぐに私の頭を掬って身体を起き上がらせた。ぎゅう、ときつく抱き締められて、私の涙が彼の肩を濡らす。苦しいくらいの抱擁に、ユーリの名前を呼んでも彼は離そうとはしない。おかしいな。違う誰かに抱かれても、何とも思わないのに。その相手がユーリになると、触れ合っているだけで身体中の熱が上がっていくようだ。私の肩口に頭を寄せて、ユーリはゆっくり口を開いた。


「馬鹿だよ、おまえ」
「っ、」
「俺だけは嫌?違うだろ、そういう時は、俺しか駄目って言うんだ」


言葉の最後に、吸い付くように耳に唇を落とされた。びくりと肩を震わせれば、それを怯えていると思ったのかユーリの大きな手が私の髪を梳くように頭を撫でつける。


「もう、勝手にどっか行くのやめろ」
「え…な、なん、」
「好きだよ」


馬鹿みたいに直接的な告白。まさか、ユーリからそんな言葉を聞けるなんて思ってもみなかった私は「一体誰を?」なんて尋ねてしまいそうになったが、先にその愚かさに気付いて言葉を飲み込んだ。代わりに、その意味を噛み締めるほどに涙がとめどなく溢れてくる。


「なんで…」
「なんでって…人を好きになるのに理由が必要なのかよ」
「違う…だって、ユーリには守りたいもの、いっぱいあるのに…私……」
「ああ、そうだよ」


迷いのない、真っ直ぐな答えゆ次の言葉を詰まらせる。けれど、言葉の強さのわりには、抱き締める力もその雰囲気もひたすらに優しいのだ。


「俺は旅を始めて、守りたいもんってやつが増えた。けど、そこにおまえが入ってないなんて、俺は一度だって思ったことはねえ」
「え…」
「むしろ、好きな女なら何としても守ってやりたいってのが普通だろ?」


少しだけ距離を置いて、至近距離で瞳を見つめるようにしてユーリは驚くほど甘いセリフを吐いた。ああ、似合わないな。そう冷静に考える傍ら、私は未だかつてないほどに動揺していたのかもしれない。


「だから、もうどっか行ったりすんな。我慢もやめろ。俺以外、見るなよ」


こつん、と額を合わせるようにして、私は彼の深い色の瞳に意識も言葉も吸い込まれてしまった。
ああ、やっぱり暗闇は怖いな。私の不安なんて簡単に飲み込んで、何も考えられなくしてしまう。こんなに怖いのに、愛しくて仕方なくなってしまうの。
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