短編 | ナノ


「駄目だった」


イル・ファンの涼しげな風を身体いっぱいに受けて、彼女はもう一度呟いた。駄目だったよ。その姿があまりに小さく、今にも崩れ落ちてしまいそうで。それでも、こちらに背を向けた彼女のガラス玉のような澄んだ瞳には何も映らず、表情ひとつも変えていないだろうと容易に想像できて、ジュードはもう長いこと力を振るうことがないままになった己の拳を握り締めた。グローブをしていなかったら、きっと爪が食い込んでしまうほどに。
ミラ=マクスウェルがこの世界から消えてから、彼女はずっとそうだった。いつも希望に輝いていた大きな瞳は、ただ光を映すだけのものになって。小柄な身体は時間が経過するほどに更にやせ細っていった。本物の、真のマクスウェルとなるためにミラが精霊界に発ったのはついこの間だというのに、もう随時昔のことのようにも感じる。
思えば、目の前の彼女がこうなってしまうことは、始めから分かっていた。一人駆けていってしまったミラが二度と歩けなくなるほどの重傷を負ってしまったとき。戦いの中、身を呈して立ち向かった彼女が爆風と瓦礫に埋もれてしまったとき。そのとき、ジュード自身も酷く傷付いたが、思えばそれは自分のことに必死になるあまり見えていなかっただけで、彼女はそれ以上に苦しんでいたような気がする。
幼い頃から、イバルと共にミラの巫子として生きてきた彼女は、出会った当時からミラのために全てを捧げていた。イバルを押しのけてまで共に旅をするようになってからは、仲間たちと徐々に打ち解け、自分の世界を広げているように思えた。けれど違った。彼女は昔も、ジュードたちと出会ってからも、今だってそうだ。彼女の世界はミラそのものだ。ミラの触れた世界は彼女の世界になり得る。この少女には、ミラしかない。
ミラがいなくなってから、まるで抜け殻のようになった彼女は、ジュードに会いに来るまでの今まで一体どう過ごしてきたのだろう。故郷にはイバルもいるおかげで何とか生活できているようだが、もし一人だったら、こうして普通に会話することも、もうなかったかもしれない。

それでも、そんな中でも彼女が自らジュードに会いにイル・ファンを訪れたことを思うと、ジュードは胸の奥がちりちりと焼かれるような思いだった。どんなに忙しくても、勇気を出して自分から会いにいけば良かった。アルヴィンでもエリーゼでもレイアでもローエンでもなく、自分に会いに来てくれたことが嬉しかった。確かな後悔、焦燥感、その中に存在する優越感。

いつだって一人で先を行ってしまうミラの背中に、置いていかれまいと必死に着いていった。隣には、同じようにミラを追う彼女が居た。同じだと思った。同じ気持ちを抱えて笑った。争って、互いを憎みそうになったこともあった。けれど、いつからだったか。必ず隣に居てくれる。そんな彼女に、いつの間にか。

だから、彼女に再会して、思った。守ってあげたい。今までミラに捧げてきたために己を見失っているのなら、自分が拠り所になってあげたい。唯一無二の存在でありたい。一緒に、いたいんだ。

そう告げようとしたジュードより早く、彼女は感情のない声で呟いた。


「わすれたい」


その一言に、ジュードは足元がぐらりとふらつく感覚に陥った。
彼女は言った。忘れたい。何もかも。これまでの戦いも。共に感じた苦悩も喜びも。葬ってきた多くの命のことも。旅の中で得てきた感情も。アルヴィンのことも。エリーゼとティポのことも。レイアのことも。ローエンのことも。ドロッセルも、クレインも、ガイアスもミュゼもマクスウェルもプレザもアグリアもウィンガルもジャオもナハティガルもジランドもバランも。

ミラ=マクスウェルと、ジュード・マティスのこと、も。


「わすれさせて。わたしの中から消して。わたしはわたしをわすれたい」


彼女に救いなんてなかった。彼女にはミラしかいなかった。ジュードは聞いていたのだ、ミラ本人から。別れのとき、手を取り合って、同じ景色を眺めて、小さく言葉を交わす最中。


(あいつのことだけが、私は心配だよ)


寂しそうに笑っていた、ミラの言葉に隠された真意に、ジュードは気付いていた。それなのに、何もできなかった。恐れてしまった。

彼女は「さよなら」と、その一言だけ残して、名残惜しむこともなくイル・ファンを離れた。追いかけることはできなかった。残された使命、後を絶たない研究の資料、必要とされる知識、この世界のこれから。ジュードにはやるべきことが、この町に多く残されていた。
選択したのだ。彼女より、理想を。未来のために彼女を切り捨てた。ミラと出会ったときのように、なりふり構わず追いかけられるような子供ではいられなかった。ミラたちと過ごした旅路で、ジュードはそれまで自分が思っていた以上に、ずっと早く大人になってしまったのかもしれない。

これから彼女はどこへ行くのだろう。同じように、かつての仲間たちのところを巡って、忘れるための旅をするのか。思い出のあるリーゼ・マクシアを離れるのか。それとも、誰にも会わないところに隠れるのか。
手を伸ばすことは適わない。自分は一度、彼女を諦めてしまったから。たくさんの大切なものより、彼女を取る。そんなこと、できなかった。自分たちが望んだ世界は、ミラの希望でもあるから。
きっと、彼女の心にジュード・マティスはもういない。あの言葉を最後に、彼女はジュードを忘れることに成功したのだろう。大切な人の中から自分が消えてしまうのは、とても悲しい。旅の中で多くの悲しみを知ってきたつもりだったのに、それでもまだ、人間は悲しむことをやめない。ミラは人間の感情を、よく興味深いと言っていた。なら、今のあの少女は?

もう忘れられてしまっても、彼女から感情が消えてしまっても。きっともっと悲しむことになるのが分かっていても、思ってしまう。
いつか、またこの拳を振るうことがあるのなら。誰かのために生きることがあるのなら。

また、会いたいと願ってしまうのだ。





(再会は一年後)
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