短編 | ナノ


「ねえ、ちょっと」


とん、と耳元で鳴る音。景色に入り込む肌色と軽い振動。それが彼の腕だということは、気付くまでもなく知っていた。そっと視線を持ち上げれば、微かに揺れる青みがかった黒髪と、どこか不機嫌そうな影のかかった表情。今日も綺麗ですね。そう口走ろうとして、やっぱりやめた。きっとまた額を小突かれて怒られてしまう。…触れられるなら、構わないけれど。幸村先生になら。


「また居眠り?」
「起きてますよ」
「机に伏せってたら一緒でしょ。別に君がどうしようと構わないけど、終わらなくても知らないよ。それ」


彼が指差したそれとは、私の机の横に無造作に立てかけられたクロッキー帳のことだろう。そういえば、今日は静物デッサンだったか。軽い欠伸を見せつけるかのごとくしてみせれば、幸村先生の眉がぴくりと震えた。


「完成しなかったら、また放課後補習だよ」
「最終的に終われば大丈夫」
「授業時間内に終わらせてくれれば、俺は早く帰れるんだけどね」
「勝手にやるから帰っていいですよ?」
「…ここの鍵、俺が管理してるんだけど?」


呆れたように言う幸村先生を横目で眺める。うん、悩ましげな表情も非常に様になる。こんな先生を見ていると、我が儘な子供らしい意地悪がしたくなってしまう。教員を困らせたいなんて、とんだ不良生徒だ。


「そんなに急いで、家で彼女でも待ってるんですか?」
「またその話?いないよ、彼女なんて」
「とかいってー、先生かっこいいのに何もないわけないじゃん」
「ふふ、褒め言葉として受け取っておくよ。でも、人を嘘つきみたいに言うのはいただけないな」
「嘘つきなんて言ってないですー」
「こら、この減らず口」


こちん。結局おでこを小突かれる羽目になった。幸村先生は、女子には絶対痛くはしないけれど。
私と幸村先生のこんな会話も、クラスでは当たり前になってきているため咎められることはない。「あいつまたやってるよ」「ほんと幸村先生好きだねー」なんて小声で聞こえてきては、胸の中で好奇心に似た感情が疼く。それが分かってしまったのか、先生は困ったように眉を下げて、動く気のない私の代わりにクロッキー帳を拾おうと膝を折った。


「…わざと言ってるくせに」


まるで悪戯を仕返すみたいな声色で発せられた言葉に、私は思わず目を細めた。机に組んだままの腕に再び頭を預ければ、間髪入れずぼすん、と衝撃。クロッキー帳で叩かれたのだと分かって、嫌々な雰囲気を醸し出しながら顔を上げれば、まるで絵画のように綺麗な幸村先生の笑顔。してやったりな顔。ずるいな大人は。絶対に適わないのだ。


「今日なら美術室開けておいてあげるから、今だけちゃんとやりな。別に下手じゃないんだからさ」
「…はあい」


間延びしたやる気のない返答。そんなものでも満足したのか、幸村先生は「よし」と笑って私にクロッキー帳を手渡した。…ずるいのは私だよなあ。悪い子のふりをして構ってもらおうとして、だけど構われすぎは気持ちが落ち着かなくて嫌だなんて。けれど、そんな生徒の気持ちを知ってて願った通りの行動をする先生も大概だ。彼に憧れを抱いている女子全員にそんな振る舞いをしていたら、不純異性交遊だかなんだがでクビになるぞ。なんて、実際そんなことはしていないのだが。
「だって、教師と生徒じゃん」そんな言葉を何度も聞いた。それは私に向けられたものでもあるし、廊下ですれ違った知らない誰かさんたちの会話から聞こえた時もある。幸村先生はその綺麗なお顔から、学生時代スポーツで鍛えた逞しい身体から、優しい声色で発する甘い言葉から、当然のごとく女子生徒から絶大なる人気を誇っている。ただ、それはあくまで憧れに近いものであって、アイドルを崇めるファンのようなものでもあって、実際に恋愛感情のようなものを抱いている者はそういないのではないだろうか。だって、所詮は教師と生徒だから。同じ場所に居ながらその立場は何もかもが違う。歳も大まかに言えば一回りくらい違うわけで、彼からの恋愛の対象になることはもちろん、生徒からのそれになることも、実はあまりないのだ。高嶺の花、と言ってしまえばそれもあるだろうが。
だから、私が幸村先生に構って病を発病するのも、クラスメートたちはそれと同じだと思っている。時たま冗談混じりに「先生に色目使っちゃ駄目っしょー」と言われた時も、曖昧に笑い返すしかなかった。そして私はそんな下手な笑顔を貼り付けて言うのだ。まぁ相手は先生だしね。
ばか。ばかじゃないのあんたたちみんな。色目なんて、使うに決まってるじゃない。私みたいな子供に果たしてそんなものあるのかさえ分からないけれど、使えるものは全部使ってみせる。生徒という立場だって全部。
だって、そうでもしないとあの人は私を見てもくれない。たくさんいる生徒の一人に埋もれて、卒業してしまえば思い出されなくなる、そんな小さな存在になるなんて嫌だ。だから私は我が儘を言う。誰より可愛く笑える練習をして、毎日幸村先生に構ってもらう方法を考える。彼の中の確立した何かになりたくて、そのためなら私を戒める生徒という立場だって利用してやる。

好きなんだ。幸村先生が。


「やあ、いらっしゃい」


放課後、掃除当番を終わらせてすぐさま美術室へ走った。だらしのない足音が聞こえていたのか、教室の目の前にたどり着くと同時にドアが開いて、すぐそこに幸村先生の眩い笑顔があって目眩がした。失礼します、というよそよそしい一言に先生は小さく吹き出すように笑った。一歩、美術室に入って気付いた。暗い。教室の前の方は電気はついているけれど、授業中は開いていたカーテンが閉まっているからだろう。何となく居心地の悪さを感じるのは、私が意識しているせいだ。
後ろでドアが閉まる。それまでは良かった。そのすぐ後に、かちゃん、と錠の落ちる音がして初めて「あれ?」と思った。
けれど、振り返ったときにはもう、私の視界は深い青で埋め尽くされてしまっていた。ばさり、クロッキー帳が手から滑り落ちる。


「…ゆ、ゆき、…む…」
「なあに?」
「え、や、あ…あの……」
「…ふふ、困ったなあ」
「え…」


困惑200パーセントでろくに喋れていない私がおかしかったのか、幸村先生はくつくつと笑いながら肩を揺らす。その振動が、全部触れた部分から伝わってきて…なんで私、抱きしめられているんだろう。


「好かれてるなあって思って見てたらさ…ふふ、どうしようね?好きになっちゃった」


いや、どうしようねってあなた。と的確なツッコミを入れる余裕は、もちろんない。あれ、恋愛感情ってそんな単純なものだったかな、とぼんやりする頭で考える。この現状が夢なのか現実なのかさえ分からなくなりそうだ。いや、実際に分かっていないのだが。私は、働かない頭で覚束ない言葉を喋る。


「だって、先生、か、かの」
「だから、いないって彼女なんて。…ああ、いや、いることになるのかな」


そっと、くっついていた身体が離れる。けれど少し安心したのも束の間、両手で頬を持ち上げられて、びっくりしてまた身体がかちんこちんに固まる。相変わらず綺麗な顔の幸村先生は、私にお小言を言う時より何倍も真剣な目をしていて。


「…君が、俺を受け入れてくれるなら」


受け入れてってなんだそれ。そんなの、そんなの誰がどう考えても私の台詞でしょう。
まさかそんなふうに思われてるなんて知らなかった。からかわれてるだけで、それでも良いと思っていたのに。いつか好きになってもらえたら、なんて妄想もしたけど、まさか現実になるなんて誰が思うだろうか。だって、だって教師と生徒で。それが分かっていても自制できないくらい私は、幸村先生が。


「せんせ、あの、す」


きです。言い切れなかった言葉は、不意に重なった熱に溶かされてしまった。ちょっと、教室で生徒に手を出すなんて聖職者としてどうなの。そんな台詞を思いついても、実際口に出すことなんて出来ない。だって、それを一番望んでいたのは私だ。そっと離れた幸村先生、だけどその顔はまだ近くにあって、吐息が当たるくらいの距離で、先生はふわりと、花が綻ぶように笑う。


「かわいい」


今なら絵の具の海に飛び込める。
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