短編 | ナノ


たすけて。

多分、それは神様がその瞬間だけ私に与えてくれた奇跡だった。
深い闇の中。声を、届けてくれた。


「お。目が覚めたみたいだな。どこか痛いところはないかい、レディー?一応、うちの船医に診せて目立つ外傷はなかったみたいだが。ああ、ここは俺たちの船だ。海は初めてかい?始めは居心地が悪いだろうがすぐ慣れるさ。ん、ああ、そうそう。一応海賊船だが、君には危害は加えない。そこは安心してくれ」


えっと、誰だろう。この人。
起きたら目の前はいつもより明るい景色で、もっと言うと暖かい室内で、少し揺れていた。ここがどこなのか、という疑問に関しては、何も聞いていないのにまるで台本を読んでいるみたいに説明をしてくれた目の前の彼のおかげで混乱はしなかったが、肝心の彼についての記憶がおぼろげだ。カチッと着こなしているようでところどころ使い古したように見えるスーツに、綺麗にセットされた金髪のいわゆる色男さん。あのペロペロキャンディみたいにぐるぐると巻いてある眉はお洒落なのだろうか。どこかお金持ちというか、貴族みたいな雰囲気に困惑する。いや、でも、確かいま海賊って…。海賊の貴族?そんな人もいるのだろうか。
…あれ。そういえば今さっき、船が少し揺れて、って。
………………………………………………え?


「…あァ。ごめんよ、プリンセス。俺たちァすぐ船を出さなきゃいけなかったから、仕方なくね」
「…!?」
「だが、あんなことがあったんじゃ、あの島に居る方が危ないだろうな」


あんな、こと?
つい首を傾げて、ふと瞼の裏に情景が蘇った。
あ、そうだ、私この人に。
たすけてって、言ったんだ。


「思い出したみたいだね」


貴族の海賊さんの言葉に、ゆっくり頷いた。なら話が早い、と、言うなり彼は立ちっぱなしだったその場から離れ、私が寝かされていたベッドのそばにあった木の椅子に腰を降ろした。目覚めたときの明るい雰囲気とは明らかに違う、真剣な眼差しに後退りたい気分になった。


「見たところ、きみは踊り子みたいだね。まだ若いと思うが、踊り子の仕事が何かは、分かっているのかい?」
「……」
「身売りで金を稼ぐ女性は少なくない。生きるためなら仕方ないと言われりゃ納得するしかない。だが、自分を捨てるような真似は、レディーにはあまりに酷だと俺は思う」
「…………」
「…きみ、声が出ないんだろう?」


ああ、やっぱり。気付かれているのではと、思ってはいた。
私は生まれつき声が出せない子供だった。喋り方を知らないどころか、吐息や呻きだって喉を空気が通過していくばかりで。私の声を私は知らないまま、十五年生きてきたのだ。声の出ない子供の私を貧乏ながら一生懸命育ててくれた母は少し前にこの世からいなくなってしまった。障害持ちだと誰からも疎まれるばかりだった私が生きていくすべとして選んだのが、踊り子だった。身体を売れば、少なくとも生きてはいける。そう、思っていた。
その考えは甘かったのだと、すぐに思い知った。初めての客は、いかにも柄の悪そうな身体に刀か何かの傷跡を残した男。一晩一緒に過ごす相手として恐ろしくないわけがなかったが、それ以外に方法はない。けれど、男は私が言葉を発せないことに気付くなり厭らしい笑みを浮かべて、それまでとは違う道に身体を引きずり込んできたのだ。助けを呼ぶことも出来なければ、まだ子供に近い女の力で抵抗できる相手でもない。人気のない路地に連れられて、何をされるかなんて想像もできなかったけれど、良いことでないのだけは確かだった。なけなしの力を振り絞って暴れても、男はびくともせず簡単に私の腕を掴んで痛いくらいに握りしめてきた。恐怖心で浮かぶ涙。その霞んだ視界に、黒以外のものが写ったのだ。まるで眩い月のような、金。音もなく佇むその影に、自分が喋れないことも忘れて呼びかけた。たすけて、と。


「たまたま買い出しの帰りに見かけたから良かったが、あのまま攫われていたらどうなっていたか分からない。自分の身を守るすべを持たない君みたいな小さなレディーに、あんな仕事は危険すぎる」
「……」
「ん?あァ、俺ばかりが喋っても仕方ないな。これを使ってくれ」


そう言って、彼は部屋に備え付けられた机に置いてあった紙とペンを取りに行って、すぐに戻ってきて私にそれを差し出してきた。用意周到なこと。きっと私が目を覚ますまでもなく言葉のことは感づいていたのかも知れない。男性らしい大きな両手で丁寧に差し出されたそれを、ぎこちない手付きで受け取る。文字を書くのも、久し振りだ。私はベッドの頭の小さな机に紙を置いて、片手でそれを押さえてからぎこちなくペンを滑らせた。今はどこに向かっているのか、私はどうなるのか、あなたたちは何者なのか、故郷には帰れないのか。頭を過ぎった疑問は数え切れないほどあったけれど、まるで別の生き物のように動く手が綴った文字は、そのどれとも違う内容だった。


"どうして助けたの?"


そんな、短く淡白な一文。書いて彼に見せてから、あまりに失礼な聞き方だったと不安が生じた。しかし、彼は私の書いた文字を目で追うと、まるで意味が分からないといったふうに目をまあるく見開いた。そして、何気なく開かれた口から飛び出した一言。


「君が俺に言ったんだろ?"たすけて"って」


自分の耳を疑った。そう、確かに私はそう言って助けを求めた。けれど、それは唇が言葉の形をなぞっただけで、音にはならない。暗い夜道で、分かるはずがない。それなのに、彼はさも当然のことかのようにそう言ったのだ。
瞬間、私は野生の本能のように悟った。私はこの人が欲しい。この人が一緒にいなければならない。名前も素性も知らない男に、私は理性がちょっと待ったと制止の声を上げる余地もなく惹かれてしまったのだ。危機に瀕した動物のように、そうだ。私はこの人がいなければ死んでしまうとさえ思った。


「…君の名前かな?」


指先が走り出すように綴った文字を、彼は上からそっとなぞった。乾ききっていないインクが少し滲んで、名前の頭の文字が不格好になった。「あぁ、ごめんよ」申し訳なさそうに呟く彼の声。けれど私はそんな些細なことより、彼の手と、自然に身体を寄せた肩が近くなったことに戸惑った。ペン先が頼りなく震えている。微かに鼻先をくすぐる苦い癖のある匂い。煙草だろうか。そっと、言わば好奇心で顔を持ち上げれば、綺麗に整った大人の顔がすぐ近くにあった。ゆっくり、彼の唇がインクの軌跡を辿る様子に、私は自分も知らないうちに釘付けになっていた。


「なまえちゃん」


声が出なくて、良かったと珍しく思った。もし私が普通だったら、今頃はしたなく悲鳴を上げていたかもしれない。私を怖がらせないためか、もともとの性格からかとても優しい笑い方をする彼は、近い距離で私の目を覗き込んだ。太陽の恩恵を受けた海によく似た、澄み切ったブルーの瞳だ。


「俺はサンジ。よろしくな、なまえちゃん」


子供をあやすみたいな声色に、身体の真ん中が疼くような気がした。
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