短編 | ナノ


朝。六時二十三分。幸村が通学に使うバスの時間だ。中学一年生の頃から、変わらずそのバスを使い続けた。電車と比べれば大したことはないかもしれないが、意外と朝のバスというのも混雑しているもので、座る座席がないのは当たり前だった。通勤中のサラリーマンだったり、自分と歳の近い学生だったり。平日の同じ時間帯のバスというのは利用者が大方決まっていて、自分が使う内に覚えてしまう顔もある。
その女の子も、そんな覚えてしまった顔の一つだった。
毎日同じ時間に、自分と同じバス停に来て、一つ前の停留所で降りる近くの女子中学に通う女の子。長い黒髪を低く結って、いつも違った色の髪飾りをしているその子を初めて見たのは、中学に入学してからすぐのことだった。混雑したバスの中で、ぼんやりと窓から景色を眺めている姿が印象的だった。試験前には英語の単語帳を眺めていたり、珍しく座席に座れた日には決まって五分程度で眠りこけてしまって、たまに降りるのを忘れてしまいそうになって慌てたり。そういえば、一度だけ本当に起きなかった彼女の代わりにこっそり停留ボタンを押したことがあった。その時は、バスが止まってから意識を取り戻した彼女が、大慌てで降りていく姿に少し笑ってしまった。
その子が楽器をやっていることは、いつも抱えている黒いケースのおかげですぐに分かった。大きさから見るに、フルートあたりだろうか。あまり楽器には詳しくないため、ただの予想ではあるが。

誰に言われるでもなく、知っていた。自分がその女の子に恋をしていると。所謂初恋というもので、どうしたものかと悩みつつも行動を起こすきっかけもないまま、気付けば二年生になっていて。彼女に初めて合ったのは一年生の始めだから、彼女は同い年か一つ年上ということが、その年も変わらず同じバスを使っていることが分かった。
毎日顔を見て、同じ空間に居るのに自分たちは互いのことを何も知らない。彼女に至っては俺のことなんて覚えてすらいないかも知れない。それでも、毎日顔を見れることが俺にとってはとても重要なことだった。

だから、それが叶わなくなった二年生の冬、俺は毎朝目を覚ます度どこか違和感を覚えずにはいられなかった。
彼女は俺があのバスに居ないことなんて気にもとめない。それどころか、始めから居たことさえ知らない可能性の方が高いのだ。話したことはない。それとなく声を聞いたことはあっても、彼女がどんなふうに喋るのか、笑うのか、俺は知らない。知らないまま終わっていく。これはそういう恋なのだと、頭のどこかで思っていたのだろう。毎日が物足りない、けれどなくてはならないものでも、ない。問われれば迷わず答えるだろう。あの毎朝のバスの時間よりも、俺にとってはテニス部の仲間の方が何倍も大きい存在だと。いつか消える想い。思い出すことさえなくなるのだろう。

そんなふうに思いながら、再びあの時間にバス停を訪れたのは実に九か月振りのことだった。大きな病気を克服して、中学最後の公式試合を終えて、夏休みが明けた。テニス部の練習でリハビリから復帰してからも毎日登校していたが、校舎に入るのは本当に久しぶりのことで、俺はどこか胸を踊らせるような気分でいた。夏休み明け初日から変わりなく行われる朝練に向かうべく、俺は六時二十分ちょうどに停留所の手前の曲がり角を曲がった。
あ。勝手に飛び出てきそうになった声を、慌てて奥へ押し込んだ。そこに、居た。あの頃より短く切りそろえられた黒髪の、あの女の子。何もおかしいことはないのに、俺は大袈裟なくらいそのことに驚いていた。まさか居ないと思っていたわけでもない。期待する気持ちも、何となくあった。けれど、実際に見た彼女に、俺はどうしようもなく動揺していた。できるだけ自然に、彼女を見ないように俺はその停留所に並んだ。けれど、すぐ隣にいる彼女は、すっと違和感のない動作で顔を上げて、間違いなく俺を見てきたのだ。予想しないことに目を瞬かせると、彼女はどこか気まずそうな表情で睫毛を震わせる。あの、と呟いた、初めてちゃんと聞いた彼女の声に戸惑いが隠せない。


「…………おかえりなさい」


けれど、小さく呟かれた言葉は俺の胸にすとん、と。まるでそれが自然なことのように落ちてきた。

後から聞いた話だ。彼女も俺と同じように、俺の存在に気づいていたこと。二年の秋から姿を見せなくなった俺の心配をしていたこと。学校の帰りのバスの中、たまたま俺と同じジャージを着ていた学生が俺の病気について話していたのを耳にして、彼女は俺が入院していたことを知っていたのだという。
面白いくらいの偶然が、彼女のその一言を生み出したのだと思うと、言葉にし難い気持ちになった。関わることも、互いを意識しあうこともないと思っていたのに。


「…ただいま」


俺と彼女は、こうして出会うことができた。
だからきっと、明日も、明後日も。同じこの場所で、夜が明ける度に。
君に会える。
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -