短編 | ナノ


「れーんーじー」


唐突に名前を呼ばれ振り返れば、教室のドアの前に立つ男は「あっそびっましょー」とリズム良く間延びした声を上げた。何が楽しいのか満面の笑みで藍色の髪を揺らして首を傾げるその男を、柳は良く知っていた。「精市」短く名前を呼び返せば、まだ許可をしたわけでもないのに堂々と教室内に踏み入る彼はそう、我らがテニス部の部長である。惜しみなく笑顔を振りまきながら柳の机の前に立った彼の両手には、三段重ねのやけに大きな弁当箱を包んでいるであろう青いふろしき。余談ではあるが幸村はかなりの大食漢である。


「精市が昼休みにこのクラスに来るのは、今月で四度目だな」
「いいじゃないか、昼食くらい。あ、川上さん…だよね、今日も机借りていいかな?」


元より柳の話を聞くつもりはないらしい。幸村は自分から話しかけた女子生徒が盛大に頬を染めながら頷いているのに軽い礼だけを述べて、彼女の机を柳とくっつけた。隣の女子が昼休みは別のクラスに行くことはもう頭にインプットされているようだ。遠くから彼女たちが幸村の話で盛り上がっている声が聞こえるものの、興味がないのかそれにも反応はない。自分に関わりのないことには恐ろしく淡白な男なのだ。
ちなみに、柳のデータを見ると幸村が昼休みに押しかけてきたのは、先月で計八回。週に二回のペースである。しかしながら、今月はまた中旬に差し掛かった頃だというのにもう四回。今月は記録更新になりそうだ、と柳はノートに新たな文字を書き込んだ。
テニス部ではなく、二人で話したり食事をする時。幸村は必ず何かしらの理由があって柳の元に訪れる。基本的に口に出して言うタイプではないが、ここ最近はその理由がどれも同じ内容ばかりで、正直予測するまでもない。柳の前で黙々と食事をすること十五分。普通の倍はあるであろう三段弁当を軽く平らげた幸村は、少し早く弁当箱を片していた柳に目線を遣わす。それが、本題の合図だ。


「今日の確率は?」
「…そうだな。97%といったところだろう」
「高いね。理由は?」
「四限の家庭科で調理実習をしていた」
「なるほど」


周りからすれば、何の話かさっぱり分からないだろう。おそらく、部内でも柳と幸村にだけ伝わる内容だ。それにしても、心から楽しむようにその質問を飛ばされると、自分の弾き出した確率にため息をつきそうになる。幸村はきっと、本当に心の底から楽しんでいるのだろう。


「精市。少しの間、席を外す」
「うん。誰かに聞かれたら腹下してトイレって言っておくよ」
「…………そうか」


ひらひらと手を振る幸村に訂正を願い入れるか僅かに悩んだ末、そのままにしておくことにした。もしこのままあと三分以上教室に居れば、先ほどの"97%"と遭遇する確率が45%から81%まで上がってしまうためだ。柳は幸村に軽く手を振り返し、早々に"97%"が現れるであろうドアと反対側から教室を出て行った。教室に居座った幸村は、自分のものではない机に頬杖をついてご満悦。そこに、ばたばたと耳障りな雑音が紛れ込む。幸村は小さく微笑んで、今に開くであろう柳が出ていったのとは逆のドアの前へと足を進めた。


「柳さっ」
「やあ、いらっしゃい」
「えっ」


ずさあっ。まるでブレーキでもかけたかのような止まり方に、ドアの前で両手を広げていた幸村は思わず拍手。「抱き留める気満々だったのに」と拗ねたような口調で言ってのける幸村の目の前に立つ女子生徒は、口元をひきつらせながら乾いた笑いを零した。彼女はつま先を伸ばして幸村の肩口から教室の中を見て、すぐに「あれ」と呟いた。


「柳さんいないの?」
「うん、腹下してトイレ行ってる」
「えっ大丈夫なの!?」
「…………」
「…?お兄ちゃん?」


お兄ちゃん、と呼ばれた幸村は至極つまらなそうに表情を歪めながら、一言「少しは引くとかしろよ」と呟いた。
幸村兄妹、といえば校内でもトップを誇る有名人である。兄の精市は運動、成績、容姿どれを取っても申し分なしと言われるほどの人材であり、その妹もまるで兄をそのまま女性にしたようだと大変人気がある。ただし、兄と違って頭が弱いことが難点ではあるが。そんな、幸村妹が兄に構わず探していた相手こそ、先ほど出て行った柳蓮ニなのである。
彼女が柳に想いを寄せていることは、兄である幸村は当然知っている。信頼している仲間と大事な妹の仲を、それなりに応援してやりたいとも思っているのだ。しかし、いかんせん押しの強い妹に意外にも柳の方が音を上げてしまい、なにかと理由を付けては柳の教室に出向くようになった彼女を柳が避け始めて、もう二カ月。柳の寸分の狂いもないデータの前では、虚しくも失敗を繰り返すばかりの逢瀬に、兄である幸村にもそろそろ同情の念が沸いてきそうになる。


「調理実習でクッキー作ったから食べてもらいたかったんだけどなぁ…」
「兄ちゃんが食べてあげよっか?」
「お兄ちゃんにはこないだケーキ焼いてあげたじゃん」
「ふふ、おまえのものなら何でも食べたいよ。俺は」


手のひらを妹の頭に置いて微笑む兄。その光景はさぞ周りの注目を集めたことだろう。幸村がそれに僅かな優越感を抱いていることを、頭の悪い妹は知らない。


「精市、幸村も。そこに立ち止まっては通行の妨げになるだろう」
「あっ柳さん!」
「あれ。早いね蓮ニ」


ぱっ、と笑顔になる妹。同時に頭に乗せた手を軽く払われて兄の方は少し唇を尖らせている。柳にに促されるまま三人で教室に入って、先ほどの位置まで戻る。幸村は椅子に座って自分の膝をぽんぽん、と叩いて見せたが、妹に「ばか」と怒られていた。柳は横目でその様子を見ながら、ゆっくりと自席に腰掛けた。幸村兄のシスコン振りは妹が入学してきたときからではあるものの、最近はこういった目に余る行動も増えてきている。データの更新が必要か、とぼんやり考えていると、妹の方が「あの」と声を上げた。


「柳さんっ柳さんっ」
「ああ」
「さっき調理実習でクッキー焼いたんです!柳さんに食べてほしいな、って…あ、でもお腹痛いんですよね…?」
「……精市」
「許可は取っただろ?」


だからといって本当に言うやつがあるか。そう浮かんだ小言は飲み込むしかなかった。何しろ相手が悪すぎるのだ。見るからに自分を慕っているであろう後輩の兄にあたる幸村が、妹が自分のところに足を運ぶのを良しとしているのか、柳ははかりかねているのだ。この兄の妹に対する溺愛振りは見るより明らかで、それに対して文句を垂れるような度胸のある人間は幸村の周りにはいない。そのため妹のそばには兄が位置していることが多い。
ふと、蚊帳の外になっていた妹の方が、両手に収まるほどの小袋を手にそわそわと落ち着きのなさを見せていることに気付いた。彼女の兄は溺愛をするわりに、そういった妹の心情には疎いことが分かっている。疎いのか確信犯なのか、確かなことはいえないが。


「幸村」
「ごめんなさい、お腹痛いなら大丈夫です、あとでお兄ちゃんに食べてもらっ」
「いや、いただこう」
「あれ、意外だな」


声をかければ慌てたように手を引っ込めようとした彼女から、素早く小袋をつまみ上げた。ふわりと、菓子独特の柔らかい甘い匂いが舞った気がした。柳の行動に、言葉通り意外そうな顔をした幸村兄、そして妹。そんな二人に、柳はくすりと笑ってみせた。


「幸村がクッキーに細工をした確率は、68%だからな」
「細工?」
「ああ、精市も休日にでも作ってもらうと良い」


何がおかしいのか、些か機嫌の良さそうな柳の言葉に幸村は首を傾げて妹を窺う。「仕方ないなあ、お兄ちゃんにも今度してあげるね」そう言って照れくさそうに笑った妹に、途端に幸村の表情は柔らかくなる。この雰囲気の甘さに、一部の生徒が幸村兄妹はまるで恋人同士のようだと噂していることを、少なくとも妹の方は知らない。兄に似て顔立ちの整った彼女に、異性に関する浮いた話が一切纏わりつかないのは十中八九、兄の存在が原因だろう。


「楽しみにしてるよ。それじゃあ、俺は先に帰ろうかな」


引き際を悟ったのか、幸村はご機嫌な様子であの大きな弁当箱を抱えた。頭上に花でも浮かべていそうな兄の様子に苦笑しながらも手を振る妹。「蓮ニ、また部活で」という幸村に軽く挨拶を返し、教室を出て行く彼を二人で見送った。


「…何でわかったんですか?」
「クッキーのことか?日頃の幸村の行動から、そう推測されてもおかしくはないと思うがな」


長い指で袋にかかるリボンを解きながら、柳は困ったように笑った。そのクッキーの贈り主がじっと視線を遣わしているのには気付かないふりをして、柳は袋の中からクッキーを一枚摘み、すぐに口には運ばず顔の前に翳した。料理上手な彼女らしい綺麗なハート型に「蓮」の文字。どうやら一枚に一文字ずつメッセージがデコレーションしてあるようだ。ふと横目に見ると、それを作った張本人は何やら期待しているのか食い入るように柳の手元を凝視している。まるで犬でも連想させるかのような彼女の態度に柳は含み笑いをこぼし、その手にあるクッキーを。

食べた。


「ああああ柳さん!」
「…………どうした」
「なんで食べちゃうんですかあ!あと飲み込む時の喉仏が色っぽいです!」
「食べるために作ったのではないのか?」
「あ、スルーですか。いや、そうですけど、でも食べる前にやることがあるじゃないですか!一枚ずつ並べて出来上がったメッセージを写メったりとか!」
「必要性を見いだせないな」
「…柳さんのけちー」
「…………ふ、そうむくれるな」


子供らしく頬を膨らます様子は、機嫌を損ねた兄の精市の顔と良く似ていた。つくづく良く似た兄妹だと、微笑ましくも思う。期待に背いてクッキーをかじったことも、彼女の言葉に過度な反応を示さないのも故意的なものだと、彼女は気付きもしないのだろう。こうして教室まで尋ねてきて、面白いくらい直接的な好意を向けてくるのに、柳の思惑なんて微塵も悟っていない。兄も、妹も。それを煩わしく、時にもどかしく感じていることなど、きっと言わない限り分からないままなのだろう。


「…甘いな」
「あ…甘すぎました?お兄ちゃんにいつも作ってるくらいを目安にしたんですけど…」
「ふ…幸村の基準はいつも精市だな」
「え?」
「いや、だが…不快な甘さではない」


もう一口、先ほどの残りを口に放った。口内に広がる砂糖の甘みとバターの風味。バランス良く調整されたその味を本来の味覚以上に甘いと感じてしまうのは、デコレーションに使われたチョコレートのせいではないだろう。不快な甘さではない、決して。柳の発言と行動を、不思議そうに眺める彼女も。甘すぎるほどなのに、胸焼けする兆しもない。


「おまえからも、同じ匂いがするな」


それを彼女がどう捉えるか、それは彼女次第だ。
けれど、たっぷりの余裕を持って、紅を落としたように色みを深めた彼女の頬を見てしまっては、どうにも込み上げる笑みは抑えられそうにない。
ああ、なんて甘そうなのだろう。





―――
クッキーのメッセージは「蓮ニさん大好き」とかだと思います。多分。
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