短編 | ナノ


この世に生きているということはそれだけで劇的であり、夜に煌めく満点の星の光の一つを授かるように数奇であり、全ての命の存在には平等に奇跡を与えられている。この世界に生まれ落ち、成長していく中で、関わった全ての命もまた、奇跡の種を孕んでいる。誰かと出会うこと、友人と言葉を交わすこと、大切な人と触れ合うこと、その一つ一つに奇跡は芽吹き、また新たな種を植え付ける。
生きているということは、この世のどんな宝石よりも、まだ明かされぬ世界の未知の領域よりも、尊く素晴らしい。自分もまた、数多の奇跡を孕む宿り木なのだ。


………………………………とは、言ったものの。


「スケールが違いすぎる……」


呆然と呟いた言葉には、ため息が混じっていた。
佇むは知る人ぞ知る……失礼、誰もが知るであろう氷帝学園門前。眼前に見据えるは掲げられた深紅に金装飾の垂れ幕、記された「跡部景吾様聖誕祝杯」の文字。そう、本日十月四日。それは我らが跡部景吾様々の聖誕の日である。我らが跡部景吾様々がどういった人物かは割愛させていただくことにしよう。まるで皇太子様の祝杯かとでもいうようなざわめき。テレビや記者の姿があっても何らおかしくはない光景である。生徒、教員の誰もが跡部景吾の登校は今か今かと待ち構えている。他者から見れば信じがたい光景だろうが、生憎と自分はこれを目の当たりにするのは二度目なため動揺こそあれ理解しがたいというわけではない。強いて言えば、中等部での聖誕祭はこれが最後ということもあってか、昨年より更に派手に見受けられるということくらい。自分は中等部からの外部受験生なため詳しくは知らないが、どうもこの光景は初等部の頃からの恒例であり、クリスマス、学園祭、更には卒業式にも匹敵する超然級の一大イベントらしい。

かくいう私、氷帝学園中等部二年の女子生徒(匿名希望)も、この行事を非難するわけでもなく、むしろ全面協力勢力と思っていただいて問題ない。但し、私の家庭は特別裕福というわけでもなく、とはいっても一般家庭とも言えまいが。しかしこの学園では最低ランクに位置している生徒なため、表立った協力者というわけではない。ただ、今年も跡部様の心に残るような、素晴らしい聖誕祭になるようにと祈るばかり。謙虚、だと他者は言うだろう。しかしその真相はまるで違う。私なんて、ただ彼の視界に入るだけのきっかけすらも作れない傍観者、いわゆる脇役、もっと言えばモブキャラクターに過ぎないのである。おかしいな、これでもそれなりにお金持ちのつもりだったのにな。ただの成金だったのかな。

こんな、こんなこと迷惑極まりないのだ。自分のような裏方が、スポットライトを浴びるヒーローのような彼に好意を抱くなんて。思い上がりも甚だしい。自分で想像して申し訳なくなるほどだ。見ているだけで良い、と言いながら、常に人に囲まれて姿を見ることさえ難しい彼に少し、あと少しだけ近づきたいと思ってしまう。
だけど、多分それは叶わぬ夢というもの。同じ学園に入学し、一方的にでも巡り合えたことこそが私に与えられた最大の奇跡。
だから、今日も私は彼の影を見つけてはそれに想いを馳せるのだ。


「お誕生日…おめでとうございます。跡部様」
「どこに向かって言っているんだ」


えっ。ついぽろりと出た言葉と共に振り返れば、そこには到底信じがたい光景が広がっていた。最初に見えたのは制服のネクタイ。余談だが私は平均より身長がいくらか低いのである。残念ながらネクタイの結び目で相手を認識する能力のない私は、当然そのまま視線を上へ向ける。眼前に広がるは、綺麗すぎるくらい完璧にセットされた茶とも金とも言えない明るい飴色の髪。そして忘れるはずもない、全てを見据え、射抜くような澄んだ切れ長の瞳。「ひっ」と思わず悲鳴めいた声を上げてしまい、すぐさま両手で己の口を塞いだ。なんだ、なんだこれ、見間違いか?うっかり俯いてしまった私に、もう一度その人を見る勇気なんて微塵もない。両手が小刻みに震える。恐怖にも似た、驚愕と戸惑い。今口を開けばどんなことを口走ってしまうか分からないから、何も言えないし足も動かない。そうしていると、頭上からいかにも不機嫌めいたため息。びくりと肩が大げさに跳ねる。


「俺様からの挨拶に悲鳴を寄越すとはな」
「っ!もっ、ももうっしわけありませんっあとべさまっ!」


がばっ、と顔を上げて再び思い切り下げる。一体何が起こったのか、それは相変わらずさっぱり分からないが、この人が跡部景吾その人であることは確実だ。となれば、自分のしでかした失礼な態度を謝罪しなければならない。それなのに飛び出る声はあまりに情けなくて、羞恥心と焦りがこみ上げた。「話が進まねえ。頭を上げろ」その声におそるおそる従う。いや、本心を言うともう彼が去るまで頭を下げていたかったのだが、まさか逆らうわけにもいかない。視界の真ん中に位置する、初めて近くに見る彼に、ぶわっと鳥肌が立った気がした。毎日遠目から見ても、何度写真で見ていても、あの跡部景吾が自分の前に居て、自分に話しかけている。こんな、跡部様聖誕祭の垂れ幕に祝福の言葉を贈るのが精一杯だった自分なんかに。
しかし、彼は「話」と言った。それは、彼が目的を持って私に話しかけてきたということ。彼のような人間を煩わせるような影響力が、私にあるとはとても思えない。そんな疑問と混乱でいっぱいいっぱいな私の前に、ひらりと薄いベージュが現れる。その瞬間、私はまた驚愕と羞恥心で悲鳴を上げそうになった。彼の長い綺麗な指に掴まれた紙切れを、出来ることなら今すぐ抹消してしまいたい。


「こいつを書いたのは、てめぇだな?」
「…え、っと」
「…、もしもこの手紙があなたの目に留まったのなら、私の奇跡の種があなたに一秒でも幸せを与えてくれますよう、心からねが」
「申し訳ありませんでした私が書いた手紙ですっ!」


つらつらと彼の綺麗な口から放たれる言葉、それには嫌というほど覚えがあった。彼の視線が文字を追い、唇が読み上げる。結局耐えきれずに、止めてくれと叫ぶ代わりに白状するしかなかった。すると彼は手紙を読み上げるのを止め、ふっと恐ろしく絵になるほど美しい笑みを浮かべたのだ。どうしよう帰りたい。跡部様が近くにいるなんて夢のようで、どうか夢であってほしいと願うばかり。
ほんの出来心だった。そう言えば聞こえは悪いが、決して悪いことをしたわけでは、ない…はず。直接祝福の言葉を捧げるできない私に出来ることなんて本当にごく僅かで、今年を逃せば彼は高等部に進学してしまって一年間はその僅かすらも出来なくなってしまう。だから、ほんの少ししか持ち合わせていない勇気を振り絞って、人生最高に緊張する手紙を贈ったのだ。当日はきっと人で溢れかえっているだろうから、昨日の朝に、生徒会の連絡ポストに投函して。それでも、たとえ前日といえど跡部様のことだ。既にそこには何通もの手紙があったし、まさか全てに目を通しているわけがないと思ったから。それでもこの手紙のために字の練習をしたり、何日も内容に悩んだりとしたものだが、それは私の自己満足に過ぎなくて、決して彼の目に留まってほしいなんておこがましいことを考えていたわけでは、ない。
なのに、どうしてこの人はあのたくさんの手紙の中からそれを見つけ、更に匿名で出したにもかかわらず私だと、分かってしまったのか。


「…あの、どうして私…」
「アーン?そんなもん、筆跡鑑定にかければすぐだろうが」


発想も理解力も段違いすぎてもはや平伏すしかなかった。
いや、しかしながら、重要なのは果たしてそんなことだっただろうか。否。たとえ筆跡鑑定が容易いものだったとしても、何故彼は私なんかの手紙に僅かでも興味を抱いたのか。興味、だなんて恐れ多いと自分を戒めたいところではあるが、そう思う以外にどう解釈できようか。けれど、その真意を聞くだけの勇気も、私にはない。


「奇跡の種」
「は、はい…」
「おまえにとっての奇跡ってのは、どんなもんなんだ」


はい?なんじゃらほい?私の心の声は、間違いなくそんな言葉だった。私にとっての奇跡の種。一瞬、何の話かとも思ったが、おそらくそれは私の手紙の内容から抜粋したものだろうと、この頭が冷静だったのならすぐに予想がついたのだろう。自分が相当混乱しているのは明白である。どう返答するのが正解か、再び視線を足元に落としながら口ごもっていると、「何でも良いから言ってみろ」と柔らかい声。あ、跡部様のこんなに優しい声は初めて聴いた。その声に促されるように、ゆっくり頭の中に思い浮かべる、言葉。私にとっての、奇跡。生まれてきたこと、両親に愛されていること、優しい友人に恵まれたこと、氷帝学園に巡り会ったこと、テニス部を見る機会があったこと、胸が焦がれるような気持ちを知れたこと、それから…。
一つずつ、確かめるように口にしながら、そっと視線を上げる。真剣な表情で私を見つめる彼の瞳に、息が詰まるかと思った。


「…今、跡部様の前に立っていること、です」
「……ふっ。悪くねえ答えだ」


満足そうに笑った彼の表情に、ふわりと肩の力が抜ける。どうやら彼のお気に召した回答ができたようだ。それなら十分良く出来たと思っていいはずだ。しかし、彼は続けざまに「半分はな」と言って寄越したのだ。……半分?それはつまり、あとの半分は間違いだ、ということだろうか。一体何がいけなかったのか、ぼうっと笑顔の彼を眺めていると、不意に私の書いた手紙が彼の口元に上げられる。まるで手紙にキスをするような仕草に、嫌でも心臓が高鳴る。い、色っぽい…。「こうは思わねえか?」尋ねられた言葉を意識できず、素直に首を傾げる。


「おまえの奇跡の種を俺様に植え付けることが出来るなら、同等のものをおまえにも与えられる、と」
「…え、はい、あの……?」
「種は芽吹き、いずれ花を咲かす。氷帝に輝きのない生徒はいない、おまえは奇跡の種そのものだ」


「そんな布切れなんざに捧げた手向けの言葉を、直接俺様に言わせてやる」そう続けられた言葉に、本当に私は何も言えなくなってしまった。
これは、十四年間謙虚に生きてきた私へのご褒美なのか、はたまた私に潜む種が全ていっぺんに芽吹いてしまったのか。
それでも、必死に絞り出した声がかたどった言葉は、私の人生で何より一番に輝いていたようだった。
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