短編 | ナノ


冬が好きだとか嫌いだとか、そんなことは考えたこともなかった。

考える暇もなかったと言うのがおそらく正解か。ぼんやりカーテンの隙間から見える雪を視界に入れるものの、それは特に感情に影響を与えることもなく落ちていく。ただ、雪が降っている。その情景があるという事実が頭の中にすとんと落とされたに過ぎない。そもそも、雪だとはしゃぐような歳でもなく、幼い頃もそんな感情を抱いたことすらなかったが。三月にもなって雪がちらつく、それを何となく物珍しげに眺めていた。するりと、肌に触れていたぬくもりが投げ出された腕をくすぐる。


「何、考えてたの?」
「特に、なにも」
「…ああ、雪が降ってきたんだ。珍しいね」
「三月だしね、っ」


不意に吐息が零れる。我ながら色めいた声だったと自嘲。原因は彼にある。彼が、会話の途中に脇腹を撫で回したりするから。生理的な反応と、無感動に彼を見る。視線は上、彼を細い滑らかな髪が重力に従い垂れている。薄暗い部屋、更に彼が上にいることによる影で表情はよく窺えないはずなのに、近すぎる距離がその影を暴く。笑っていた。ああ、これは少なからず苛立っているサインなのだろうか。まあ、関係ないけれど。


「そんなに余裕なんだ。さっきまであんなだったのに」
「私だって、生理現象に逆らえるほど出来た人間じゃないから」
「雰囲気も何もないね」


そんなもの、始めからどこにもなかったじゃないか。
そもそも、私は今どうして自分がこんな状況下に置かれているのかも分からないのだ。いや、理解はしている。けれど、それはやはり感情として現れてはくれない。そういう事実がある、それだけ。
再び手が動き出す。細くしなやかな、けれど男性らしい手が身体を這い回る。ぴくりと肩が反応を示し、肌が粟立つ。男の誘い方なんて知らない、甘い誘惑するような嬌声の上げ方も、喜ばせる反応の仕方も何も知らない。彼もきっとそうだろう。これは勝手な予想だが、中学高校とテニスに私生活に明け暮れていた彼にそんな暇はなかったはずだ。彼のことをそんなに知っているわけではないが、事実私がそうだったのだ。


「ねえ」
「ん…?」
「私、可哀想だって思う?」
「そりゃあね、思うよ」
「そう」
「戻るつもり、ないんだろう?」
「うん」


部屋の隅に放り投げられたまま、もう二週間は視界にすら入らなかったラケット。グリップを仕立て直したばかりのそれは、私の手に馴染むことはなかった。


「もともと、テニス、嫌いだったし」


よくある話だ。母親が有名なテニスプレイヤーで、それこそ世界なんかで活躍してしまうような、二十年以上前のスター。輝かしい実績、しかし彼女は自らの夢を叶えることなく、その舞台から降りることを余儀なくされてしまった。後悔を残した彼女は、やがて授かった一人娘に才能を見いだし、ふたたび舞台に登ったのだ。今度は、舞台裏から夢を見始めた。物心ついた頃から、私にはテニスしかなかった。テニス以外の選択肢は用意されていなかったのだ。それでも幼い子供は疑問にも思わなかった。当然だろう、そもそも選ぶ権利というもの自体知らなかったのだ。私はテニスに特別思い入れがあったわけではなかった。ただ言われるがままにラケットを振り、母親に言われた通りに彼女が望んだ栄光を勝ち取ってきた。自分がテニスに何の感情も抱いていないことなど、不思議でもなんでもなかった。


「私ね、小学生の時ピアノがしたかったの。バレエもやりたかった。なんか綺麗じゃない。まあ、最近気付いたんだけど」
「へえ」
「中学の時なんかさ、体育でテニスがあると誰も私と組みたがらなくて。プロと組んだら自分の評価が下がっちゃうから、とかなんとか言って、テニス部員すら近寄ってこなかった」
「あれ、君ってプロだったっけ?」
「そう見えたんでしょ、多分。だから、高校があんたと一緒で少し安心した」


彼は有名人だったから。テニスでも、身体的部位の話にしても。中学の頃まで自分に集中していた視線の半分以上が彼に向いてくれて、一気に呼吸が楽になったのだ。
話しているうちに、彼の手は私の腹の横につく形で止まっていた。私の話に興味でも持ったのだろうか。


「まあ、母はそれが気にいらなかったみたいだったけど。いい気味よね。娘には散々栄光がどうの語ってたくせに、自分は別に男作ってたのがバレて家を追い出されて」


そして、その直後に私は枷が外れたように引退表明をした。たかだか高校生ごときの引退にテレビ報道が入ったのにも驚いたが、これであの惨めな女にも伝わったことだろう。


「面白かったよ。学校でみんな腫れ物を扱うみたいに優しくしてくれて」
「…母親を、テニスで見返してやりたいとか思わなかったんだ」
「思わないね。私、ずっとテニス嫌いだったし。でも、いざテニス辞めたら、馬鹿みたいに解放感あって、なのに今度はやることなくなっちゃって」


今までテニスに費やしていた時間があまりに多すぎたのだ。むしろテニス以外に自ら時間を使ったことなんてなかったかも知れない。そんな私が、今こんなにも時間を持て余すのは別におかしくはないだろう。


「それで、僕を呼んだの?」
「うん、不二だったら、時間潰しくらいしてくれそうかなって」
「僕に、君の寂しさを埋めることなんてできないよ」
「いいよ、そんなもの始めから感じてない」
「そう、」


ぞわり、鳥肌がたつ。彼の指先が、厭らしく脇腹をなぞった。どうやら私の神経はかなり敏感らしい。誰か比較する対象がいるわけではないのだが、あまりに馬鹿正直なこの身体はそうとしか思えなかった。くすりと笑い声が聞こえる。いつの間にか私の首筋に顔を寄せていた彼が、そっと耳に吐息をあてる。それだけで震えてしまう私が、彼に、その行為に溺れてしまうなんて至極当たり前のことだった。生暖かい手が太ももに触れて、力無く閉じていた脚をこじ開ける。間髪入れずに襲ってきたのは先程も散々かき乱された快感で、とうとう私は甲高く声を上げるしかなくなってしまった。自分の中で、彼の指が好き勝手に暴れ出す。こんなこと、興奮しない女はまずいない。


「っ、は…、ぁ…!…ふ、っじ…ぃ」
「なに?」
「あっ、わ…たし、…っ、わたしっ…ん…!」
「うん、どうしたの」
「ぁ…ん、わたし…なの…っ」


ふ、と。彼の勢いが弱くなった。行為より私の話に興味を持ったのか。しかし、それでも挿入した二本の指はゆるゆると出し入れを繰り返し、弱々しいけれど心地良い快感が消えることはなかった。不二が優しい、さっきまでとは大違いだ。処女の言う制止なんて聞いていたら夜が明けてしまうとでも思われたのか知らないが、先程は散々な鬼畜ぶりを見せられたものだ。泣いて頼んでも一切手を緩めない、恐ろしささえ感じる愛撫に一瞬で理性も何もかも吹き飛ばしたことは記憶にしっかり残っていた。それに比べて今はどうだ。やんわりとした、穏やかな波のような刺激は酷く心地よく、暖かくも身体を支配されていくような感覚。口から零れるのは耳障りな嬌声ではなく、ほとんどが快感を逃がすために吐息に変わっていた。優しく諭すような問いかけも上乗せされて、私は無意識に彼に触れたいと思ってしまった。ぽつり、ぽつり、吐息混じりに紡いだ言葉は、震えていた。


「わたし、が…母さんを追い出したの…っん、母さんが不倫、してるって…わかって、っは、ぁ……もっ、テニス、やで……父さ、に…」
「…そっか」
「っふ…だか…ら……わたしが、ぁ」


わたしがうちをこわしたの。
テニスから逃げたいがために家庭を捨てた。思った通り、私に昔の自分を重ねるだけだった母親はいなくなった。父親も唯一の拠り所となった私に、これ以上無理にテニスを続けることはないと言ってくれた。テレビの報道は少し目障りだったけれど、ほとぼりが冷めれば私は普通の女子高生になれる。嫌な思いをすることもない。自由な誰かを羨ましがることもなくなる。だから私の生まれて初めての選択は間違っていなかった。自分が幸せになる道を選んだのだから。


「な、のに、っ…ふ、っあ!」


言葉を続けようとした矢先、その快感は再び襲ってきた。ぐるりと円を描くように膣内を抉ってきた指に、喉を反らして叫んだ。今までの甘い刺激とは違う、最初の時のように理性の全てを剥ぎ取っていくような激しくて執拗な愛撫。私はそれ以上言葉を紡ぐことを許されず、ひたすら涙を流しながら喘ぎ懇願するしかできなかった。
どうして、言わせてくれないの。一番、言いたかった、核心だけを。
頬を何かがくすぐった。不二の髪の毛だ。少し長い髪の先が顔に触れるくらい、彼はすぐ近くまで迫ってきていて、薄く開いた瞳と視線がかち合った。ただただ彼の指に翻弄されるばかりだった私はろくな反応もできず、不二はそんな私の嬌声を飲み込むように深く唇を被せてきた。ああ、そういえばキスは初めてだったような気がする。唇が触れる直前、彼が囁くように「ごめん」と言った気がしたが、この時の私は相当行為に溺れていたらしく、それを気にとめる余裕もなかった。

私は、不二周助という人間を勘違いしていた。今までテニス一直線で生きてきた私らしい失敗談である。
実のところ、私は不二周助に憧れていた。溢れ出るカリスマ性というか、練習風景を眺める度に劣等感にもよく似た感情を植え付けられていた。女は男には適わない。どのスポーツにおいても、女子と男子では全く違う醍醐味があるのが当然だ。速いだけが全てではない、力だけで勝ち残れる世界ではない。それは私も十分に理解していた。ただ、不二周助を見ている時に度々感じていたことがあった。スポーツをやっているようには見えない細い身体のラインから、艶のある綺麗な髪から、優しさと厳しさを兼ね備えたような声から。私はテニスプレイヤーとしてだけではなく、不二周助個人に強く惹かれるものを感じていた。幼い頃からひたすらテニスに明け暮れていた私。同じくテニス界を生きる彼は、どうしてこんなにも輝いているのか、私には分からなかった。テニス以外のことを理解できるはずもなかった。私はこの時、彼に恋をしたのだと、そのことにすら私自身まるで気付かなかったのだ。

私の欲を言おう。
私は不二周助に助けてもらいたかった。
自分でも気づかぬ内に助けを求めていた。逃げられない世界から、選択することを与えられなかった現実から、飛び出すという発想すらなかった私自身から。不二周助は私を救ってくれるのではないかと、勝手に思っていたのだ。
実は私と彼はそれなりに仲が良かったと思っている。テニスに限らず話すこともわりと多く、豊富な話題を持たない私を上手くリードしてくれていた。私は、彼を王子様か何かと勘違いしていたのだろう。いつか、いつか私でさえ気付かなかった私の鎖を、バラバラに砕いてくれるのだろうと。
「頑張らなくていい」「無理しなくていい」「守ってあげる」そんな夢みたいな言葉を期待して、期待して期待して期待して。叶わなかったから、私は自分で壊した。
少なくとも私の世界を広げてくれたのは彼だ、そのことに関しては感謝している。しかし、広がった世界で私が見つけた選択は、どう見ても失敗でしかなかった。

「助けてあげられなくてごめん」と、そう聞こえたのはつまり、私の勝手な妄想で都合の良い自己解釈にすぎないということだ。


「っは、あ!や…まっ、て…ん!」
「嫌、だよ」
「ひ、う…あぁっ…ん、ーーーーっ!!」


何度目かの絶頂。必死に声をかみ殺した結果、一気に酸素を吸い込むことになりけほけほと咽せだした私の背中を、不二が優しく撫でる。さっきみたいな、肌が粟立つ感覚はなかった。


「咳き込む方が辛いでしょ、我慢しなくて良いのに」
「、や…だ」
「そう。可愛いね」


何気なく吐かれた言葉に、顔から火が吹き出すかと思った。なんだ、今の。可愛いって。そんなこと、今まで一度も言われなかったのに。突然わけの分からないことを言い出す不二を思わず凝視してしまうが、真っ赤な顔を真正面から見られる恥ずかしさですぐに我に返った。しかし、この体制から顔が見えないようにするなんて到底できっこなくて、私はささやかな抵抗と言わんばかりに彼から顔を逸らした。だいたい、最初は獣みたいに人の身体を弄っていたくせに、時折こうして優しさを見せる意味が分からない。恥ずかしくて、期待しそうになる。私を助けてくれなかった、王子様でもなんでもない彼に。
そのやりとりから稍あって、不二は漸く重たそうな腰を引いた。ずるりと身体の中の質量が抜けていく感覚に小さく息を呑む。と同時に、あれ、と疑問が浮かんだ。ベッドから起き上がり背を向けた彼の背中には、うす暗い中でも無数の引っかき傷が窺える。爪を立てた覚えなんてないが、あれだけ激しい痛みと快感の波の中では私の記憶なんてさほど宛にはならない。ずっと近くにあった彼の表情に痛がる様子などなかった。本当に、よく隠したものだ。裸のまま立ち上がろうとする彼の手を、私は気怠い腕を伸ばして掴んだ。ほんの少し、驚いた表情で振り返る彼。私も、もう身体を隠す元気もない。どしらにせよ、何時間もかけて私は彼に全てをさらけ出してしまったのだから。
何?と尋ねてくる彼に向かって、私の口は勝手に喋り出す。


「ふじ…も、う一回」


これにはさすがの不二も反応できなかったようで、一瞬部屋が凍りついた。何拍か間を置いて、彼は不意に笑った。切なげに眉を寄せて、見ている私の方が寂しくなるような笑顔を見せたのだ。なによ、その笑い方。


「なに、それ」
「?」
「可愛い」
「っ…!」
「でも、もう駄目」
「…なんで…?」
「ゴム使い果たしちゃったし」
「……嘘」


ゆっくり身体を起こす。まるで石になっていたみたいに身体中が怠いし、足腰から腕からずきずきする。まあ、確かに、高校生が生まれて初めてするセックスの限度なんてとっくに越えてしまっている。けれど、私は不二の手を離さなかった。彼は離してほしそうな顔をしていたが、私は生憎とそんな素直な良い子ではない。だって、今ので不二、全然満足してなさそうだったし。そもそも絶頂を迎えたのも私だけだった。そこはもう、女の意地というか、なんというか。


「……困ったな」


本当に困った顔をしていた。けれどお構いなしだ。
その顔のまま、彼は再びベッドに上がってくる。座った状態の私の目の前に同じように座って、鼻と鼻がくっつきそうなくらいに距離を詰める。切れ長の瞳に間近で見られて、不覚にも身体が疼いた。呼吸が、心臓の音が全部聞こえてきそうなこの距離で、何故か私は怖じ気づかなかった。


「そんなになってまで、まだ欲しいの?」
「…………」
「ねえ」
「…………」
「僕のことが、好き?」
「、ぁ」


ぴり、小さな電流が走る。それは、彼の指先がそっと胸の突起を撫でたからか。それとも、その問いかけのせいなのか。私の、女の意地だなんていうつまらない虚勢がばりばりと剥がれ落ちた。

不二を家に誘ったのは、言うなれば賭だった。別に何かを景品として賭けたわけではないが、私にとってそれは大きなものだった。
たった三日、学校を無断欠席してみた。父親は出張で一週間戻ってこない。家の電話には学校からの着信が何度も来たが、私は応答しなかった。その代わりに彼、不二周助に伝言のメールを送った。誰にも会いたくないから、話したくないから、担任にそう言ってくれと。母親の不倫から両親は離婚、そしてテニス界から身を引いたということは学校の誰もが知ること。学校は簡単に私を信用した。当然彼からは確認と、少し気遣うような内容の返信が来るが、それは無視した。
そして四日目、いつもと同じ欠席を伝えるメールの下に、いつもと違う文を添えた。会いたい、不二に話したいと。
その日の放課後、彼は四日分のプリントを抱えて私を訪ねてきた。部活はたまたまなかったと言っているが、実のところかなり怪しいものだ。
適当な部屋着に着替えて、とくにおめかしするわけでもなく珍しくスッピンの私は、何食わぬ顔で彼を迎え入れた。誰もいない家で案内したのが自室だったことを、さぞ不審に思っただろう。
できることなら、彼の全てを暴いてしまいたかった。彼は私を助けてくれない。ヒーローでも王子様でもない。他の女の子だって話すし、彼にとって私はテニスという共通点で繋がれただけの存在。テニスより上にはなれない。だから彼は私が助けを求めていたことなんて知らない。他人だから。ほんの少しの偶然で巡り会っただけの、他人だから。
しかし、少し鎌をかけただけであっさりと剥がれてしまった「私の想像の中の彼」には、少し戸惑った。ほんの少しだけそういう素振りを見せただけで、彼には私の意図が伝わってしまったらしい。彼が鞄から買ったばかりらしいコンドームを取り出した時には、なんだ向こうもそのつもりだったのかと落胆した。彼に私はどう映っただろうか。不幸から自暴自棄になった可哀想な子?寂しさから誰かを求めずにはいられなくなった子供?兎にも角にも、私の作戦は、結果から言えば成功だった。
私は不二周助に失望したかったのだ。


「…………すき」


不二が好き。言葉にしてしまえば呆気なく、けれど今この場においてそれ以上に威力のある言葉はないだろう。それを聞くや否や、不二は覆い被さるように唇を重ねてきた。ベッドに座っている私と、膝立ちをしている彼。ほぼ真上から、啄むような口づけを落とされる。だんだんと深く交わるそれに抵抗する気さえ起きず、私の頬を撫でるように包む彼の手にそっと触れた。


「っ、は」
「…ふ、じ」
「だ、ったら…!」


唇を離したかと思うと、急に声を荒げる不二。彼の、こんな声を聞いたのは初めてかもしれない。


「ずっと、居ればいいじゃないか。僕のそばに」
「……ごめんね、出来ない。テニス、辞めちゃったから」


私は不二周助に失望したかった。そしたら、未練なく別れられると思ったからだ。
私の転校が決まったのは、事実上は一週間ほど前。けれど、それはテニスを引退したその瞬間から分かっていたことだ。昔からテニスに明け暮れていた私には勉強の才はなく、今の高校にはスポーツ推薦という名の、いわゆるコネというやつで入学した。条件であるテニスを辞めたとなれば、学校に残ることは出来ない。ちょうどもうすぐ春休みだ。新年度を期に、転校を決めた。だから、きっと彼に会うこともなくなる。


「また、テニスを取り戻せばいい。一人で乗り越えられないなら、僕が一緒にいる。君を、助けられなかった僕だから、今度は」


やっぱり気付いていたようだ。私が彼に、勝手な妄想を押し付けていたことに。本当に、助けてほしいだなんて、今思えば滑稽としか言いようがない。私は静かに、首を左右に振った。


「私はテニスが嫌い。それは変えようのない事実で、私が認めちゃったから。もう、戻りたくない。たとえ、不二がいても」
「……」
「良い意味でも悪い意味でも、私にはテニスしかなかったの」


私は、テニスとあなたを天秤にかけるような、酷い女だから。


「でも、許してね。私、不二に嫌われたら死んじゃうもの。今日、不二を呼んで、あんたの最低なとこを見たかった。私の妄想なんかとはかけ離れた奴だって、実感したら踏ん切りつくかなって」
「…それで、踏ん切りはついたんだ」


なんとなく、彼の表情から諦めに近いものを感じ取った。結局、彼は優しい人だから。行為の最中も、どれだけ酷いことをしたって表情からは優しさが窺えて、私はそんな彼が見たかったわけではないのに。
だから、結果だけ言えば成功。成果にはならなかったけれど。


「ううん。むしろもっと離れがたくなっちゃった」
「、本末転倒だね」
「ごもっとも。だから…これは私の思い出。つまらない駆け引きとか忘れて、そういうことにしておいて」


愛しさがこみ上げる。どうしようもないのに。転校ももう決まっていて、勝手な賭けで彼にこんなことさせて、自分が招いたことなのに、納得しなきゃいけないのに。理不尽だと、思いたくなってしまう。思えば彼は、テニスと家族以外で初めて私の中に入ってきた人なんだ。
けれど、彼は優しいから、もうテニスに触れたくないという私をこれ以上引き止めたりしない。分かってる。


「…思い出、まだ終わってないよ」
「え?」
「もう一回、って言ったよね」
「あ…」


彼の言葉に、ほんの少し前の自分の発言を思い出す。途端に、顔に血が昇った。あれ、あれ、今すごく、真剣な話をしていたはずなの、に。


「ふ、雰囲気とか、そういうのないわけ」
「ないよ。君が誘ったんだ」


それは確かにそうだが。あの時は、なんというべきか。熱に浮かされてた、わけではないし。欲が出た、のも近いようで違う。ただ、ただ本能的に、離れていく背中を追ってしまった。今日が終われば、全部終わってしまうから。だから。だから。


「おいで」
「っ!」
「今までで一番、優しくしてあげる。幸せに、してあげる」


もしかしたら、彼は王子様なんかではなく、魔法使いだったのかもしれません。今日このいっときだけの魔法を、私に与えてくれるための。
その日、私は今までにないくらいたくさんの愛情をもらった。


「あ、」
「ん?」


玄関で靴を履く不二の背中に声をかければ、素直に振り向く彼。
あれから、完全に駄目になってしまったシーツを洗濯機に放り込んで二人でシャワーを浴びて、だいたい二時間。もう外は夜の空気になっていた。夕飯に誘ったものの、家族が待っているからとやんわり断りを入れられた。というか、ずっと家に篭もりっぱなしだったから冷蔵庫にはろくなものがなかったような気がする。不二の気遣いに感謝。


「明日からは学校行くね」
「明日は土曜日だよ」
「え」


墓穴を掘った。そういえば四日も休んだせいで感覚が鈍ってしまっているらしい。そうか、明日は土曜日で、学校はないのか。春休み、もとい転校まであと両手の指で間に合うくらいにしか登校日がないということに、今更ながら寂しさを感じた。いかんいかん、すぐに欲が沸くのは人間の悪い癖だ。


「明日、まだお父さん帰ってこないの?」
「あ、うん…多分月曜か火曜くらいになるって」
「そう」
「…?」
「明日、来てあげようか」
「は、」


その発言は私の思考をいとも容易く止めてみせた。明日、来て、あげようか。私は今以上に頭が悪くなってしまったのかもしれない。彼の言葉が理解しきれなかった。


「無茶、言わないでよ。ほんと、月曜からは行くから」
「そう、分かった」


鼓動が早まる。それらしい言い訳を述べるので精一杯だった。不二が何を考えているのかさっぱり分からなかった。彼はこんな無意味なことを言う人ではない。この扉を出たら、もう思い出の人なのだから。静まれ、心臓。
じゃあ、と鞄を提げてドアノブに手をかけた彼は、しかしまた何かを思い出したようにこちらを振り向いた。なんだそのとぼけた顔。


「どうかした?」
「新しい学校って、ここから通うの?」
「え、まあ、うん。今ほどじゃないけど、わりと近いから」
「どこ?」
「え、なんで?」


ますます彼の思考が理解できなくなってきた。まさか、私みたいに名残惜しさを感じているとか、そういうことなのだろうか。結局、恋人なんて程遠いまま思い出になってしまう私たち。それは、普通ならば恋しく思うのもおかしくはないが。けれど、不二からはそんな切ないような雰囲気は感じ取れない。もう、吹っ切れているんじゃ。


「学校知ってたら、迎えに行ける日があるかもしれないでしょ」
「はあ…………え、は?」


とうとう私は理解しようと試みることを放棄しました。こいつ私の話なにも聞いてなかった。


「悪いとは思ったけど、僕は最初から思い出とかにするつもりはなかったんだ」
「そこからか。私の一世一代の告白を返せ!」
「くすっ……一世一代の、か」
「…っ!」


顔が熱い。これ以上この男の相手をしていたら死んでしまう。そう思って、私は徐にサンダルを履いて彼の代わりに玄関のドアを開け放った。さあ帰れ、私は名残なんてもうないからな!だいたい永遠の別れでも喧嘩別れでもなし、まだ少しだけど学校でも会えるのだから!テニスをやることなんてもうないだろうしあのラケットだって明日神社で供養して燃やしてもらうつもりだから会う機会は限りなく減るだろうけれどな!私には今日この日という思い出そして宝物があるのだからもう怖くなんてない!父と二人強く生きてみせるし遅れた分の勉強も頑張る!だから気がかりなんて何もない、私は大丈夫だ、大丈夫、だから。


「…そう泣かれると、ほんとに帰りづらいんだけど」
「っ…だれの、せいだと」
「僕だよね」


よく分かっているじゃないか。あんたが変なことばかり言うから。本当は一人になってから泣くつもりだったのに、あんたが、まだ、私に夢を与えようとするから。欲深い私が出てくる。被害妄想な顔が見えてくる。


「君は、今日の思い出の中で僕が言った言葉は、嘘だと思う?」


私はしばし考えて、首を左右に動かす。思うもなにも、それ以前にあれが本当だと思いたかった。


「僕は、諦めが悪いところがあるらしいんだ」
「……」
「近いならまた一緒にいられるし、テニスにもまた関わりやすくなる」
「、不二」
「もちろん強要はしない。ただ、嫌いなものが些細なきっかけで好きになったりもすると思う、それに」


顔が上げられない。泣き顔なんて見られたくない。もう散々泣いてるところなんて見られたけれど、今はわけが違う。もともと出来てもいなかった覚悟が、崩れそうになる。だって、私はまだ。


「僕が、まだ君のそばにいたい」


なんで優しい言葉なんてかけるのかなあ。私は自業自得なのに。自分で招いたことだから、自分で進まなきゃいけないのに。優しいなんて、ずるい。


「僕は優しくなんてないから」
「え、?」


一瞬、考えていることを読まれたのかと思った。けれど、それは私の思い違いらしい。不二は、あの切なそうな寂しくなる笑顔で、私だけを見ていた。


「本当はずっと、考えてた。君はどうしたら僕を見てくれるか。僕以外を見れなくするにはどうしたらいいのか。そんなことばかり。結局は、テニスに取られたわけだけど」
「あ、わたし…」
「本当は、思い出作りに来たのは僕の方なんだ。もう君が本当に僕の近くからいなくなるなら、って。なのに君は、何されても怒らないし、自分から近寄ってきて、挙げ句には好きだなんて、言うから」
「…っ」
「離せなくなっても、おかしくない」


手がドアノブから離れる。ドアが閉まる音と同時に引き寄せられて、ぬくもりに包まれた。さっきまで、ずっとそばにあった温かさ。どうしよう、また欲ばっかり溢れてる。この人が愛しい、私にくれる言葉すべてが胸に染みて、どうしようもなくなってしまう。


「好きだよ」
「、ん…」
「多分、君が思ってるより前からずっと」
「ん…」
「離れたくないと思ってるのは、僕だけじゃないよね?」
「ん…」
「明日、来てもいい?」
「ん…来て、ください」


さっきの話って、なんだっけ。もう他人ごとみたいに思いながら彼にすがりつく私は本当に幼稚で我が儘で、情けない。
明日には、もっと可愛い服を着て、お化粧もちゃんときめて、部屋ももっとしっかり綺麗にして、それで、床に放り出された私のかつてのパートナーを、ちゃんとしまってあげよう。だって、自分から捨てたら、もう二度と笑って再会なんて出来なくなってしまうから。




とある天才同士のはなし。
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