短編 | ナノ


「ユーリ?こんな時間にどうし…、」


ぱたり。そこで、目の前の黒は私の真横を横切って視界から消えた。ぽかん、と事の事態に付いていけずに唖然とした私は、嫌な予感に胸をざわつかせながら錆びた機械のように動きの悪い首を、ぎぎぎと足元に向ける。
一瞬のち、私の言葉にならない絶叫が宿屋に響き渡るのであった。


「…まったく、信じられないわ」


十数分が過ぎて、先程の慌てようとは全く違うローテンションで、額にはまるで青筋が浮かぶような怒りの表情。その手には水で濡らされたタオルが握りしめられていて、ユーリはそれをばしっと乱暴に叩きつけられた。しかし、今の状況が状況なだけあって、ユーリは文句も言えず、投げられたそれを畳み直し、自分の額に乗せた。いつもと違う布団の香り、どうやら彼女は自分が来る前に既にベッドに入っていたらしい。それなら尚更、申し訳ないことをしてしまった。ふと、部屋に置いてきたラピードのことが頭を過ぎったが、さすがに背に腹は代えられない。彼女は机に備え付けられた椅子をベッドの脇まで引っ張ってくると、そこにどさっと腰を下ろして腕と足を組んだ。おい、見えるぞ。そう言おうと思ったが、もしも今殴られるようなことがあれば間違いなく沈む自信があったため大人しくしておくことにした。うん、これは役得だ。そんなユーリの思考には全く気付かず、彼女はまだお怒りの様子。


「あなたねえ、熱があるなら早く言いなさいよ。誰も迷惑なんてしないんだから」
「いや、だから本当に気付かなかったんだよ」
「三十九度の高熱で?馬鹿なの?こんな夜中に叩き起こされたかと思ったらぼうっとしてトイレの帰りに部屋を間違えたとか、ていうか自分の部屋なら鍵かかってるはずないし、誰って聞いて「俺」って返してくるほど頭やられてんのに、それでも気付かなかったわけ?」
「あー…今回ばかりは何も言い返せねえな。悪い、助かった」

珍しく素直に謝罪するユーリの姿を見て、相当参っているのだろうということはわかった。「…とにかく、エステルはもう寝てるだろうし、明日になったら気休めだけど治癒術かけてもらって、出発は一日待ちましょう」そう言って、彼女はふいとそっぽを向いた。普段から気の強い彼女も、さすがにそこまで弱り切った病人に鞭を打つような真似は出来ないようだ。ありがとう、と礼を言えば、彼女は慣れない言葉にまた難しい顔をした。顔と器量は良いのに、なかなか素直になれないのが彼女の損なところだ。棘のある美人とは正にこんな感じなのだろう。ふと、ユーリは彼女の両手が真っ赤になっていることに気付いて、自身の額にあるタオルに触れた。ひんやりとして冷たくて気持ち良い。しかし水道の水でここまで冷えるとは思えない。まさか、氷水を使ったのだろうか。こんな冷える夜中に。ユーリは彼女の密かな優しさに触れて、熱の苦しさがほんの少し和らいだような気がした。


「…大丈夫なの」
「ん?」


不意に、彼女がぶっきらぼうに言葉を零して、意識を別のところに向けていたユーリは素直に聞き返した。大丈夫、とは熱のことだろうか。


「ユーリは、いつも無茶するんだもの」
「俺はおまえの方が無理してる気がする、毎日傷だらけじゃねえか。無理して前衛に居なくても良いのによ」
「違うわ、戦闘のことじゃあ、なくて…」


だんだんと歯切れの悪くなっていく彼女の言葉。ユーリが見上げれば、彼女は先程まで吊り上げていた眉を逆に下げて、戸惑ったような顔をしていた。ユーリはとうとう彼女の考えが読めなくなって、見慣れない不安げな表情に僅かながらに焦りを覚えた。どうした、と尋ねれば、彼女はばつが悪そうに俯いたが、それでもベッドに寝ているユーリからはその表情は見える。すると、今度は両足を持ち上げ、椅子の上で脚を三角に曲げて膝に口元を埋め、小さくうずくまった。いや、だから、見えそうなんだが。とは雰囲気から当然言えず。


「ユーリ…最近変なんだもの…これでも一応…しん、ぱい…してるのに」


予想しなかった言葉に、ユーリの心は突如騒ぎ出した。途切れ途切れにこぼれる言葉は小さく、この部屋が静寂でなければ聞き逃してしまいそうなほど。膝を抱える彼女は普段より一回りも二回りも小さく感じて、急に同年代に見えなくなる。ユーリは額のタオルを退かしてベッドからゆっくり起き上がる。すると、彼女は当然慌てて寝るように言うが、ユーリは構いもしなかった。右手でそっと頭に触れて額を彼女の肩に預けた。途端、彼女の身体は硬直し、言いかけの言葉も空気に溶けて消える。一瞬で訪れた、無音の空間。風がかたかたと、窓を揺らす音が僅かに耳に届く。言葉を失っていた彼女は、状況の理解ができると焦りもせず、ゆっくりと肩を下ろしていった。ため息のような長い吐息が、ユーリの髪を撫でる。そっと、彼女の指先がユーリの漆黒に触れた。


「泣いてるの?」
「泣いてねえよ」
「そう…」


そして再び訪れる沈黙。どちらとも離れないまま、彼女の手はユーリの胸に触れ、抱えていた脚を椅子から下ろした。それをどう捉えたのか、ユーリもベッドから脚を投げ出し、更に力を込めて彼女の身体を抱きしめた。密着する彼女の身体は自分よりずっとつめたくて、あの赤くなった手の冷たさも心地良いくらいだった。ほとんど衝動的に抱き締めたのに、意識がはっきりしてきても離す気にはなれない。彼女の優しくて冷たい手のひらが、ユーリの背中を撫でる。この空気も、感触も、すべてが優しく感じた。


「…泣いてるのか?」
「泣いてないよ」
「じゃあ、これはなんだよ」
「…これは、ユーリの涙だよ」


嘘つけ。だったら、どうして彼女の頬から伝って、自分の肩が濡れているのだ。けれど、ユーリはそれを言うことはできなかった。内心、彼女の言う通りだと思っているのかも知れない。自分の流さない涙が、彼女に蓄積されていたのだろうか。ユーリは細い身体を抱きしめたまま、彼女の艶やかな髪にそっと口付ける。それすらも、気付かれないように。彼女の涙の理由に、胸を占めるこの圧迫感に、愛しさに気付いてしまわないように。きっと彼女の綺麗な棘が、腐ってしまうから。


「ねえ、ユーリ…今度、一緒にハルルの町に行こう。あそこは人を悼むのに、ぴったりな場所だもの」


優しい、優しい、母のような声に、ユーリはそうだな、と小さく呟いた。





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Vが大好きなのに未プレイなままの管理人が紡ぐ。
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テーマ「人外ファンタジー」
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