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兄の手が私の両肩を捕らえた瞬間、びくりと体を縮めてしまった。兄は口角を上げ、向かい合っていた私の体をくるりと回す。突然体の向きを変えられて固まったままの私に背後から腕を回し、肩を抱いてゆっくりと歩き出した。


「殴りゃしねえよ」


一歩、一歩と進んで行く兄に合わせて足を引きずる。電気の付いていない廊下は真っ暗で何も見えなかったが、距離感からして部屋に向かう階段は通り過ぎてしまったとわかった。このまま真っ直ぐ行けば、玄関に突き当たる。まさか。……まさか?


「リョウタってこの前の奴だろ?」
「…………そう」
「"お前なら落とせる"どころか、とっくに落ちてたんだな。お前が惚れられてる側かよ」
「違う」
「なあ、なんでお前今でも男を信用できんの?」


廊下の端まで来ても、兄は止まらなかった。肩を抱かれて逃げられない私は、兄に押されるままに玄関の一段下がったところに足を下ろす。自分の靴は帰宅時にしまってしまったので、どこを踏んだらいいかわからず結局誰かの靴を下敷きにしてしまった。兄はそこで立ち止まり、目の前にあるのであろうドアを見つめて淡々と口を開く。


「お前の父親あんなだぞ。二股かけて、どっちも捨てて、今では中学生に惚れ込んでるようなクソ野郎だぞ。他にも女や隠し子がいるかもしれない」
「……うん、わかってる」
「わかってんならなんでのん気に恋なんてしてられんだよ」


兄の手がドアノブにかけられたのが、音でわかった。兄は左腕で私を捕らえたまま、右手でドアを押し開ける。なあ、愛って儚いよなあ。そう吐き出す兄の声は熱かった。一言一言が熱く、攻撃的で、鋭く私の胸を刺した。


「親子の愛でさえ簡単に消えるんだぜ?恋人同士ならどうなるよ。子供まで作っときながら壊れる奴らを、オレらは二組も見てるじゃねえか」
「……うん」
「うんじゃねえよ」


兄は冷え冷えした外に私をぐいと押し出した。私はよろめきながら裸足で玄関の外側のタイルを踏み、慌てて振り返ってドアを掴む。それを閉めようとする兄と、開けようとする私の間でドアはふらふらとさまよっていた。当然、兄の方が優勢だ。


「あいつらに気づかれるとわりぃから殴りはしねーけど、お前、今夜外出てろ」
「出てろって、何、」
「どっか行ってろ。オレの前から消えろ」
「じゃあ部屋に、」
「この家から出てけっつってんだよ!」


兄が唐突にドアを押し開いたので、不意を突かれた私は勢いで後方に吹っ飛んだ。足が玄関のタイルを踏み外し、芝生へと上半身から叩きつけられる。おかしな捻り方をしてしまった足首が痛み始めるのと、草の匂いが鼻をつくのが同時だった。

外に出て後ろ手にドアを閉めた兄の足が腹に突き込まれ、ごろりと地面を転がった。転がったといっても体の向きが変わっただけで、私は兄に背中を見せながらごほごほと咳き込む。


「お前、馬鹿じゃねえの。リョウタクンと恋愛ごっこして幸せ幸せってか。いいなァ、脳内お花畑は」
「……そんなんじゃ、ない」
「どこを否定してんの?恋愛ごっこ?」
「そもそも…恋愛なんてしてな…いッ」


ガッと背中を踏まれて息が止まった。私は草に顔を擦り付けて身を縮こめる。しばらくして漏れた息の弱々しさに自分でも驚いた。


「そうだな恋愛してねえよな。恋愛ごっこだもんな!その男だって本気でお前に惚れてるわけねえよ。お前の体が目当てなんだよ!お前、見た目以外にいいところないもんな。自分でもわかってんだろ?」
「……き、せは、」
「お前なんかに本気で惚れるやつはいねえよ」


兄の足が背中から離れた。私は目を閉じていた。視界も頭の中も、全てが暗く淀んでいる。兄にはたくさんのことを言われてきた。その一つ一つに棘があって、私をちくちくと傷つけて、私はとっくにその痛みに慣れていたはずだった。痛くない、痛くないと誤魔化せるようになったと思っていた。それなのに。それなのに今、疼き始めた心臓は。涙の滲み始めた目は。


「わかってるよ、わかってるよ」


私は地面に手をついて起き上がった。やっぱり足首が痛い。体重をかけられなくてよろけてしまった。咄嗟に手を伸ばして家の門に縋る。荒い呼吸を繰り返す私を、兄は冷めた目で見ていた。


「庭にいるなよ?中の奴らに見つかるかもしれねーし、近所の奴らに見つかったらどうなるかわかってるよな」
「この家に、迷惑が、かかる」
「そうだよ。あと警察にも行くな。まー行ってもいいけど、そしたらオレの人生今度こそ終わるわな。多分親父はオレを捨てて母さんと離婚するだろうし。あ、お前親父と二人暮らしできるんじゃね?そうしたいならどうぞ」


兄は最後にせせら笑って、中に入りドアを閉めた。鍵をかける音、それからロックをかける音。私は立ちすくんだまま、ドアに走り寄ることもせず、抗議の声を上げることもせず、視線を地面からドア、ドアから空へと移していった。


どこに行けばいいのか、いつ帰ればいいのか。

携帯と財布と、とりあえず靴が欲しい。


私は静かに門を開けて外に出た。芝生からコンクリートへ足を移すと、コンクリートの冷たさが身に染みた。くたびれたスウェットで、この季節に夜道を歩くなんて。布に覆われていない手足から、徐々に徐々に寒さが侵食してくるのがわかった。深呼吸して初めの一歩を踏み出すと、あとは案外楽に足を動かすことができた。ぺた、ぺた、と音を立てながら、私は一歩一歩どこかへ進んだ。


眩しすぎるライトに顔を照らされて目を瞑る。気づけば大通りに出てしまっていた。スウェットで歩いている人は私以外にもいるし、そもそも暗くて格好なんてよく見えないので、特別注目を浴びるということはない。裸足に気づいて驚いている人も何人かいたが、顔を合わせないようにして歩き続けた。

ここまでくれば、もう"近所"とは言えないだろう。顔を合わせたって、私を私として認識する人はいない。警察にでも捕まらない限り、あの家に迷惑がかかることもないはずだ。自分がどれくらいの時間歩いていたのかはわからないが、行き先が決まるくらいには長い時間が経ったのだと思う。今は、練習試合の帰りに寄ったことのある公園を目指していた。

まさかこの歳でホームレスのようなことをすることになるとは思わなかったが、他に夜の明かし方も思いつかない。こんな姿では友達の家にも行けないし、そもそも連絡も取らずにいきなり泊めてと押しかける勇気はない。お金がないからどこかに泊まることもできない。一晩人気のない公園で過ごすことしか、私には思いつかなかった。

あ、明日、学校。
ていうか、今日、木曜日。

それを思い出した途端に、私はまた憂鬱になった。母が帰ってくるのは月曜日だ。ということは、週末の間あの家は兄のものなわけで。明日になれば帰れるんじゃ、と淡い期待を抱いていたが、そんなに甘くはいかないと気づいてしまった。おそらく兄は、明日も、明後日も、私を家に入れようとしないだろう。もしかしたら、明々後日も。


公園に着き、慎重に辺りを見回した。先着のホームレスもいないし、夜のデートを楽しむカップルもいない。時間を潰す人も、散歩する人も、誰も、誰もいない。私はベンチへと足を引きずり、辿り着いたそこにようやく腰を下ろした。砂まみれになった足の裏が気持ち悪い。精神的にも身体的にも疲れすぎて、寝転びたくてしょうがなかった。

どうせ誰も見てないし。

思いきってベンチに身を横たえた。固い木で作られたそれは冷たくて、いっそう体が冷えるような気がした。都市が明るいせいで星の瞬かない夜空を見上げ、静かに深呼吸する。こんなに寒くて、指先も足先も冷たいのに、頭だけがいつまでも熱いままでそのことに苛立っていた。

一日くらい学校に行かなくても勉強に遅れることはないだろう。欠席連絡は…、きっと学校から家に電話が行って、兄が適当に答えるだろうから大丈夫だ。問題はただひとつ。部活だ。明日の放課後には通常通り部活があるし、明後日はよりによって練習試合だ。どちらもすっぽかすわけにはいかない。無断欠席なんて論外だ。普段練習に来ない青峰や紫原でさえ練習試合には参加するというのに、一マネージャーでしかない私が休むことなんて許されない。

……なんてのはきっと、建前で。本音は、違う。許されないんじゃなくて、許されてしまうのが怖い。

私は目を閉じた。頭と同じように熱くなってきた目を、そのままにしておくわけにはいかなかったからだ。

私がいない練習試合で、何の問題もなく彼らが勝利を掴んでしまうのが怖い。私が彼らに必要のない存在だと、証明されてしまうのが怖い。休めない。絶対に休めない。絶対に、行かなければならない。

どうやって。

瞼は機能しなかった。じわりと染み出した涙は睫毛を濡らし、目尻に溜まってぬるくなった。誰か、助けて、と私はいつもの決まり文句を繰り返す。私は情けない人間で、こういうとき、決まって誰かに助けを求めてしまう。一人では起き上がれないのだ。でも、私は"情けない"だけだ。決して弱くはない。起き上がれなくても生きていられるし、自分で息をすることもできる。

誰か、に当てはまる存在がいないから、私は助けを求めることができるのだ。それは信じてもいない神にすがる感覚に似ている。死にたくもないのに死にたいと言ってしまう感覚に似ている。誰か助けて、は私の口癖だ。つい口をついて出てしまう言葉。口にすることによって満たされる言葉。何の意味も、持たない言葉。

誰か、を私が見つけることはきっとない。見つけてしまったら私は助けを求められなくなるし、そんな日々はきっと苦しい。

私は助けて助けてと胸の中で繰り返して、冷たいのに汗の滲むおかしな手で涙を拭った。

誰か、私を助けて。






「みょうじっち?」


私は動きを止めた。耳に届いたその声が信じられず、目を開けることをためらってしまう。ゆっくりと体を起こしながら瞼を開き、近づいてくる足音の方に顔を向けた。ぼやけて見えるその人は、私まであと一歩というところで立ち止まる。街灯に照らされて輝く金髪が、開いたばかりの目を刺激した。


「なんで、ここに…?」
「そんなのこっちのセリフっスよ」
「私は、」


言葉が続かない。私はぱかっと口を開けたまま彼を見上げ、ただただ瞬きを繰り返した。涙で曇った視界の先で、彼は、黄瀬涼太は、羽織っていたジャケットを勢いよく脱ぐ。呆然と固まる私の肩にそれをかけながら、黄瀬は振り搾ったような声で言った。


「震えてるじゃないっスか」


しゃがみ込んだ黄瀬と私の視線が重なる。眉を下げ、唇を震わせる黄瀬に、そっくりそのまま言い返してやりたかった。震えてるのは黄瀬でしょ、ちゃんと上着着てなよ、と。


「……………う」


言葉の代わりに嗚咽が漏れて、私は慌てて口を閉じた。一生懸命に歯を食いしばり、込み上げてくる熱を堪える。それなのに鼻の奥がつんとして、気づいたときには涙が溢れていた。ぽろりと落ちたそれは黄瀬のジャケットに滲み、私と黄瀬の目を引き付ける。ごめんね、と言いたいのに、口を開くことができなかった。

ぴくりと黄瀬の手が動き、私の手に向かってそろそろと伸びた。私は咄嗟に手を引いた。捕まったらどうなってしまうのか、その答えを知りたくなかった。

力なく落ちた黄瀬の手が、きゅっと握られた。


14.06.18