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みょうじ葵は愛に飢えた少女だった。

愛に飢え、愛を欲して非行に走り、非行に走ったからこそ家族に愛されなかった。愛されないから非行を重ね、両者の溝はますます深まった。馬鹿げたいたちごっこだった。

みょうじ葵は中学卒業と同時に家を出る。家出したとも勘当されたとも言える出発だった。学のない彼女は水商売で生計を立てた。生計を立てたとは名ばかりで、何も考えずに給料を受け取り、その場しのぎの食事をして、あとの金は何処かに消えて行くという有様だった。

みょうじ葵は愛に飢えた女だった。

何人も、何十人もの男と出会っても、彼女は愛を見つけられなかった。彼女はいつからか生きることに意味を見出せなくなった。愛されたい、という思いが薄らいで、代わりに愛されるわけがない、という考えが巣食うようになった。

みょうじ葵が十七歳のとき、一人の男が彼女の前に現れた。店の客の一人だった。同僚に連れてこられたと苦笑いする彼は、化粧の奥にあどけなさの垣間見える彼女に優しく声をかけた。若いのに、大変だね。頑張ってね、と。


その先を母は話そうとしなかった。


母、みょうじ葵がどうして恋に落ちたのか、どうして相手がその男だったのか。母はそれを語らなかったし、母自身もわかっていないようだった。とにかく彼女は恋に落ち、その男と体を重ねた。何のためらいもなく私を作った。二人とも馬鹿だったのだと思う。馬鹿という一言では足りないくらいに、頭がからっぽだったのだ。

その男には、妻と息子がいたのだから。

母は妊娠を男に告げ、結婚しようと言い出した。男ーー父はそれを拒否した。父が、ほんの少しでも母と一緒になる未来を考えたのか、それとも一夜の過ちをただただ後悔するだけだったのか、私は知らない。私のもとに残ったのは、父が母を捨てたという事実だけだ。


その母が死んだのは、私が小学六年生の夏だった。自殺だった。

絶縁していた母の両親は私を引き取ろうとはしなかった。彼らの話は母から聞いていたが、実際に会ってみて、ああ、本当に母は愛されていなかったんだなと悟らざるを得なかった。そんな母を可哀想だとは思わなかった。母を哀れむのは、自分を哀れむのも同然だ。

私が向かった、いや、正規の機関によって向かわされたのは、父のところだった。私はそこではじめて父に会った。自分の面影が全く見つからず、本当にこの人が私の父親だろうかと訝しんだのを覚えている。

そんな私とは対照的に、父は私を見てすぐさま目を輝かせた。第一声は、葵、だった。凍りついた私と目線を合わせるためにしゃがみ込み、父は頬を緩めて笑った。


「ああ、ごめん。あまりにも似ていたものだから」
「……みょうじ、なまえです」
「なまえか、いい名前だ。いいんだよ、敬語なんて使わなくて。私はなまえの父親なんだからね」


父親。十二年もの間名前さえ知らなかったくせに、笑顔で父親を名乗るのか。私の肩に置かれたその手のひらは妙に生温かくて、服越しに伝わってくる体温はおぞましいと思った。

私が口を開くまでもなく、私の行く先は決められた。私は父の家で父の娘として暮らすことになった。父の妻、美紀子がそれに散々反対したことも、父の息子がその言い争いの場にいたことも、私は知っている。父が無神経に、そして兄が嫌味っぽく話してくれた。その夜に何が起きたかを。美紀子ーー今の私の母が、どれほど涙を流し、いかに激しく私を拒否したかを。

結局、私に父の姓を与えないことで議論は終結した。私はみょうじ姓のままこの家族の"一員"として生きることになり、肩身が狭いどころではない生活が幕を開けた。

仲睦まじい夫婦だったはずの"父"と"母"の間には亀裂が入り、夫の過去の浮気を知ってヒステリー気味の母から父の心はどんどん離れていった。そんな両親の傍らで、兄は中学生のうちに煙草に手を出した。父に見せつけるように酒も飲んだ。朝帰りはしょっちゅうだったし、陰険なカツアゲをしている現場を一度見た。

私が中学二年生になる年に兄は高校進学だったのだが、彼はずっと前から志望していた有名私立校に落ちた。受験の年にあれだけ遊んでいたら仕方が無いと思うし、むしろ落ちたくて遊んでいたようにも見えた。その高校は父の出身校で、兄は父のためにそこを志望していたからだ。

合格発表の日の夜、家で平然と煙草を吸い、酒を煽る兄を父はとうとう殴りつけた。いつまでも甘ったれるなと怒鳴る父と、俺に説教できんのかよこの浮気者がと喚く兄と、さめざめと泣く母の声が一晩中響き続けた。私は自室に逃げたかったのに、兄が怒りの矛先を私にも向け、それに対して父が私を庇ったことで喧騒は泥沼化して逃げるどころではなくなった。

次の日、眠い目をこすりながら私は学校に行った。すでに春休みに入っている兄がその日をどう過ごしたのかは知らない。私が帰宅すると、いつも通りの"家族"が私を迎えてくれた。

昨夜あれだけ私を罵った兄と母の態度は元に戻っており、腫れ物に触るような付き合いが再開された。会話はなかったが、その方がお互いのために良いだろうと、私も、そしておそらく兄と母も思っていた。父も私とほどよい距離を保ち、私と彼らの生活は平穏を取り戻したかのようだった。

母の願いに沿って、兄は元の兄に戻った。酒も煙草も、無断外泊もやめた。やめたように、見えていた。



九月。事態は緩やかに、異常へと傾いていく。

私を見る父の目がおかしいことに、気づかざるを得なかった。成長し、大人へと近づいていく私に母を重ねているのだとわかってしまった。私は父をこれまで以上に避け始めたのに、父は私に優しくなった。私だけに挨拶をし、私だけにお小遣いを渡し、私の行動を逐一褒めた。父は私を愛でていた。葵にそっくりな少女を、妻と息子以上に愛でたのだ。


兄はすぐに父の変化に気づいた。初めて父から異常なお小遣いをもらった日、兄は唐突に私の部屋にやってきて、無表情で手を差し出した。そのときのことを、私は鮮明に思い出せる。

寄越せよ、と一言だけ投げかけられて、何のことかわからずうろたえる私の髪の毛を彼は激しく掴んだのだ。上へ上へと引っ張りながら、彼は低い声で囁く。


「金。あいつにもらっただろ」


引きちぎられるような痛みが頭皮を襲い、ぶちぶちとわかりやすい音がして髪が何本も抜けていった。どうして知ってるのと問う余裕は無く、私は汗ばむ手で財布を探り父にもらったお金をそのまま兄に差し出した。しかし兄はそれを受け取らず、紙はひらひらと床に落ちていく。


「お前そんなに良い顔してるか?」
「……え」
「顔さえ良けりゃ中学生にも欲情できるなんて、クソみたいなおっさんだよな」


反論したくて口を開こうとした瞬間、兄の平手打ちが頬を襲った。心身ともに衝撃を受け、よろめきながら熱い頬に手を添える。兄の冷めた目が私を見下ろしていた。


「うぜえ。お前うぜえよ」
「殴ることないじゃん」
「あ?」


兄の拳が私の腹に押し込まれ、私は咳き込みながら床に膝をついた。目の前がちかちかして、吐き気がこみ上げる。はあはあと息を荒くする私の指に、兄はゆっくりと足を下ろした。悲鳴を上げる私の反応をまじまじと見ながら、すり潰すように体重をかけていく。


「お前いっつも澄ましてるよな。ふざけんなよ、他人事みたいな顔しやがって。誰のせいでこうなったと思ってんだ?」
「痛、やめて、」


必死に手を引いて兄の足から逃れた。尻もちをついたまま後ずさり、兄を見上げて震える。すぐに背中は壁に付いて、私は追い詰められた。


「お前さえいなけりゃ、オレは幸せだったんだよ」
「……やめて」
「お前がいるから、オレも母さんも、」


兄の手がベッド脇に置いてあった目覚まし時計に伸びた。私は息を飲む。ちょっと、嘘でしょーー

咄嗟に腕を前に出して頭を庇った。何の遠慮もなく投げつけられた時計はよりによって腕に庇われていない部分に当たり、鋭い痛みがそこに走る。私は横に倒れた。

痛みと恐怖と吐き気、全てが私の中で渦巻いていた。いっそ気絶してしまいたいのに、止むことのない暴力がそれを許さなかった。悲鳴を上げるばかりの口はもはや抵抗の言葉さえ漏らせないようで、悲鳴と悲鳴の間に荒い呼吸を繰り返すだけだ。助けて、助けて、と姿の見えない誰かに向かって求める。助けて、誰か、助けて。

兄は怒りのままに手を上げながら、積もり積もった思いを吐き出していた。「お前がここに来なければ」はいつの間にか「お前が生まれてこなければ」になり、かろうじて刻まれていた私の鼓動を止めた。

私が、生まれて、こなければ。

……私が、好きで、生まれてきたとでも?


母の亡骸を見つけたとき、悲しみよりも先に怒りが湧いた。こんなに酷い話があるかと、ふざけるなと、畳を叩いて涙を流した。

母は家族のいる男に惚れて、簡単にセックスして、当たり前だけど捨てられて、そして最後には私を捨てて死んでいった。母が私を愛した瞬間なんてなかった。だって私は、あの男を母に繋ぎとめられなかったんだから。役立たずだったんだから。役立たずを愛せるほど、母の心は潤っていなかった。

でも、だからって、どうして、私を、置いて行ったの。行く場所がないってわかってたでしょう。行くとしたらここしかないってわかってたでしょう。

もしかしたら、と考えたことは何度もあった。母はこの家族を壊したかったのではないかと。あの男とその妻を引き離し、幸せな家庭をぐちゃぐちゃにしたかったのではないかと。そのために私を残して勝手に死んだのではないかと。


「許さねえよ」
「……ぁ」
「お前が幸せになるなんて、オレは絶対に許さねえからな」


私の胸倉を引き寄せていた兄の手から力が抜けた。私は床に崩れ落ちる。兄はすっきりした顔をして乱れた服を軽く正し、足元の札を拾った。そして何事もなかったかのように部屋から出て行った。酷く冷えた心を抱えた私は、動く気力もなくそこに横たわっていた。

これは兄の憂さ晴らしだ、と机の足を見ながら考えた。私のせいで突然人生が捻じ曲がった兄。幸せを奪われてしまった兄。可哀想に、と、"他人事のように"彼を哀れんだ。

大丈夫だよ。私、幸せになる気、ないから。

そう言ったら何かが変わっただろうか。兄は満足しただろうか、それとも余計に怒り狂っただろうか。後者だな、とすぐに答えが出た。何をしても、何を言っても、私への怒りと嫌悪は消えないだろう。実際に兄の幸せは、私によって奪われてしまったのだから。

でも、奪われる幸せがあったなんて、兄は本当に幸せ者だ。

吐き出した息は嘲笑の響きを持っていた。そのことに気づいてしまうと無性におかしくなってきて、声を漏らして小さく笑った。腹筋が痛んで、さっき腹を殴られたことを思い出した。

私は幸せになりたいとは思わないし、幸せになる気もない。兄の望みを忠実に叶えるつもりだ。だけどそれは、兄のためじゃない。あくまで私のためだ。


母が"不幸"だったのは、あの男に惚れたせいだ。あの男に愛されたせいだ。ほんの一瞬でも、幸せを噛みしめてしまったせいだ。

兄が"不幸"なのは、幸せを知っているからだ。両親に愛され、認められ、期待される幸せを、当たり前のものとして受け取ってきた日々があるからこそだ。


幸せを少しでも感じてしまった瞬間に、自分が不幸せになるのはわかっていた。幸せとはきっと、そういうものだ。だから私は幸せになろうとは思わないし、むしろなりたくなんてない。

私は兄を哀れむ。"不幸な"兄を可哀想だと思う。私は幸せではないけれど、不幸でもないから。自分を不幸だなんて思ったことがないから。愛されないのは、私にとって日常だ。私にとってはこれが普通だ。生まれてから今まで、ずっと、ずっと、私を取り巻く境遇は変わっていない。

私は可哀想じゃない。全然、可哀想なんかじゃない。

目の淵を満たした液体が静かに床へと零れていった。私は深く深く息を吸い、ゆっくりとそれを吐き出す動作を繰り返す。熱い呼吸を続ける唇は目と対照的に乾いていき、しまいにはひび割れて小さな痛みを発した。


14.06.04