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「みょうじっち」
「何?」
「あれ、ほんとにオニーサン?」
「あれとか言わないの。そうだよ」
「じゃあなんであんなに怯えてたんスか」
「怒ると怖いから」
「そういう怯え方じゃなかったよね。それに、あの人みょうじっちを殴ろうとした」
「頭撫でようとしただけでしょ」
「……なんで誤魔化すんだよ」


コンビニから百メートルは離れただろうか。私はようやく黄瀬の手を放す。怒ったような黄瀬の声に、息苦しさが増した。

私はそのまま歩き続けようとしたのに、黄瀬はそれを許さなかった。ねえ、と私の前に立ちふさがり、離れたばかりの腕を掴む。


「触らないで!」


さっきまで自分が掴んでいたその手を、今度は咄嗟に振り払ってしまった。黄瀬が何をするつもりなのか、察したからだ。警戒の意味を込めて黄瀬の顔を見上げる。怒りと悲しみの浮かぶその顔に、軽蔑も混ざっているような気がしてならない。


「……なんで九月からカーディガン着てきてたんスか」
「寒かったから、じゃだめなわけ」
「九月っスよ?まだ暑い時期」
「私にとっては寒いの!」
「なんか隠してんじゃねーのって聞いてんだよ!」


黄瀬の言葉を遮って噛み付くように言うと、彼も声を荒げた。露わにされた率直な疑問に、私はぴたりと動きを止める。


「隠してたら、どうなの」
「やっぱりあの人、」
「隠してるのが"そういうこと"だったら、黄瀬、どう思う?」
「は?」
「私がそういうことされてるってわかったら、私のことどんな目で見るの?」


引いちゃう?と続けた声は自分で思っていたよりも弱々しくて、黄瀬をたじろがせるほどの威力を持っていた。言い過ぎた、とすぐに後悔する。さっきまでとは打って変わって勢いを失った黄瀬が、慌てたように早口で言った。


「引くとか、なんでそんな話になるんスか。オレはただみょうじっちを心配して、」
「黄瀬が心配するようなこと、何もないよ。ほら」


私はブレザーとカーディガンの袖を肘の少し上までまくった。厚着なのでそれ以上は上がらないのだ。そして、傷ひとつないごく普通の腕を黄瀬の目に晒す。黄瀬はますます弱った顔をした。もう一押し、と自分に言い聞かせて口を開く。


「ごめんね、心配させて。でもほんと、普通のお兄ちゃんだから。よく頭撫でてくるし、さっきのもそれだよ」
「そう…っスか。ごめん、なんかあの人を悪者みたいに言って」
「いいよ、気にしないで」


袖をしまいながら、私はようやく笑うことができた。しかし精一杯の笑みを見せても、黄瀬はつられてくれない。心配そうなその目が、私の笑みを萎ませた。


「送るっスよ、家まで」
「え、いいよ。いつものところで分かれよ?」
「あそこ、みんなで帰るからこその分かれ目じゃん。今日は二人なんだし、送らせてよ」
「いや、そんなのいいから」


私は首を振りながら歩き出した。黄瀬が隣に並び、二人して黙々と足を動かす。

こんなはずじゃ、なかったなあ。

こんなはずじゃなかったならどんなはずだったのかなんて、考えてはいけないけれど。





「じゃあね」
「……うん、バイバイ」


黄瀬にしては諦めが良い。私は黄瀬に軽く手を振り、黄瀬もそれに応じて手を振り返してくれた。あの手が今日、二度も私の手に触れたなんて。信じられない。一度目も二度目も、黄瀬の手は熱すぎるほどの温度を持っていた。

別に、と私は言い訳を零す。部活内で集めた選手の身体データによると、黄瀬の平熱はかなり高い。対照的に平熱の低い私が黄瀬の手を熱く感じるのは、おかしなことではないはずだ。


「みょうじっち!」


背を向けてしばらく進んだところで、切羽詰まった声の黄瀬に呼び止められた。振り向き、さっき別れた位置から少しも動いていない黄瀬を見つめる。近くに街灯はなく、この距離と雲に阻まれた月明かりの下では黄瀬がどんな表情をしているかさえわからなかった。


「何かあったら、……何か困ったことがあったら、オレに言って」
「ないから、大丈夫だよ」
「だから、あったら言って。なんていうか、その、」


いつもの黄瀬なら、話があるときはためらうことなく近づいてきて、すぐそばで笑顔を見せてくれる。その黄瀬が今は距離を取ったままなのがとても不自然に思えた。黄瀬は今、絶対に笑ってない。笑ってたらあんな声にはならない。何、と言って続きを急かす自分の声が、震えていた。


「オレ、みょうじっちのことが好きだから」


かっと頬が熱くなる。頭が爆発するんじゃないかと思った。待って、ちょっと待って、ついていけない。好きってそれ、どういう意味で?闇に目を凝らして、黄瀬の真意を探ろうとする。ちょうどこの場所に明かりがないことが恨めしい。ねえ、黄瀬は今どんな顔をしてるの。私と同じ顔をしてるの。

私と同じ、顔。自分の表情を察した瞬間に、ぱちんと興奮が弾けた。


「頼って欲しいと思うんスよ。他の奴じゃなくて、オレを頼って欲しい」
「……ありがとう」


消えいるような声でそう言うのが、精一杯だった。さっきの熱はどこへやら、ゆっくりと頭が冷えて代わりに涙腺が緩んでいく。黄瀬の言葉に、黄瀬の表情に集中したいのに、脳裏に浮かぶ母の疲れた笑みが邪魔をするのだ。自虐的に口角を上げて、まるで言い訳をするように、母はあの呪いを口にした。母の言葉を思い出しながら、私は汗の滲む拳を握りしめる。


「ありがとう、黄瀬。あの、……ありがとう」


同じ言葉を何度も繰り返すしか、今の私にできることはなかった。嬉しい、の一言さえも言えない。もしもそれを伝えられたら、黄瀬はどう動くのだろう。私はどう答えるのだろう。

もしも、黄瀬がこの暗闇に踏み込んで、私の前に立ってくれたら。いつものような明るい笑みを、私に向かって浮かべてくれたら。そのときは、そのとき私は。


「……うん。じゃあね、みょうじっち」
「ばいばい、黄瀬。また明日ね」


影はあっさりと手を振った。私もそれに応じて手を上げる。いつの間にか握られていた拳を開いて、左右に揺らすまでに随分時間がかかってしまった。影の表情は読めない。こんなに遠くからそれを読もうとしている自分が、惨めだった。



△▽



家に帰って靴を脱ぎ、慎重に廊下を歩く。なるべく足音を立てたくなかった。しかし自室のドアを開いて、その努力が無駄であったことを悟る。


「朝帰りでいいって言ったじゃん」


私のベッドに寝そべって漫画を開いていた兄が、にこりと微笑みながら迎えてくれた。私は無言で首を横に振る。兄は漫画をベッド脇の棚に乗せて、ちょいちょいと私を手招きした。私は機械のように足を動かし、兄に近づく。


「さっきの、彼氏?」
「違う」
「そうだよなあ、すげえイケメンだったしなあ」
「うん」
「でもなまえなら落とせると思うぜ?母親に似て、こんなに可愛いんだから」


兄はわざとらしく私の名前を口にした。ねっとりとまとわりつくような視線と声に、目と耳を塞ぎたくなる。兄は私の表情を見て愉快そうに笑い、次の瞬間ガッと私の頭を掴んだ。

平均的な身長に似合わないその大きな手のひらで、兄はよく私の頭を"潰す"。ギリギリと力を込めて痛みを与え、同時に自分の顔を近づけた。


「あいつといて幸せか?」
「そんなことない」
「嘘つけ。俺がいつからお前を見てたと思う?あいつに色目使ってたじゃねーか」
「違う」
「へえ、じゃあ本能的に誘っちまうんだ。さすが、あの母にしてこの娘ありだな」
「違う!」
「違わねえだろ!」


兄が頭を押した勢いで、私は後ろにあった机に腰をぶつけた。座り込み、痛む腰と頭を押さえたがそんなことをしている暇はなかった。兄の手がすかさず私の顎に伸び、遠慮なしにぐっと持ち上げてくる。首の骨が嫌な音を立て、後頭部は思い切り机にぶつかってじんじんと痛み始めた。

嫌で嫌でしょうがないのに、兄と目を合わせざるを得ないこの体勢。電気がついて明るいはずの部屋が、兄の影にいる私には随分暗いように思えた。いつも通りの距離、いつも通りの痛みだった。


「楽しそうに笑ってんじゃねえよ」
「……ごめんなさい」
「お前だけが幸せになるなんて、俺は絶対に許さねえからな」
「わかってる」


兄は顎から手を離し、私の腕を掴んで乱暴に机に叩きつけた。流されるままの私は重力に従って床に落ち、へたり込んで嵐が過ぎるのを待つ。抵抗しない私を二、三度蹴りつけ、兄は部屋を出て行った。

だから嫌だったんだ。私は静かに目を閉じて、黄瀬と二人で帰ることを承諾した数時間前の自分を恨んだ。男と二人でいるところを見られれば、兄がああなるのは目に見えていた。黄瀬ならいっか、なんて馬鹿だった。きっと、黄瀬だからこそ駄目だったのだ。私の目が、私でさえ認めたくない"それ"を語るから。

数分間そこに横たわって、呼吸が落ち着くのを待った。それからようやく起き上がり、ブレザーを脱いでハンガーにかける。続いてスカートを脱ぎ、簡単な部屋着に履き替えた。ブラウスと靴下も脱いで、脱衣所まで持って行く。ぺたぺたと床を踏む足に、今日は痣が増えてなければいいけど。

脱衣所にはちょうど母がいて、私の持ったブラウスと靴下を見ると無言で手を差し出してきた。私が二つを渡すと、ブラウスを洗濯機、靴下をその隣のカゴに入れ、スイッチを押す。洗剤をとってちょうだいと言われたので、棚からそれを取り出して渡した。そのとき母の目が一瞬、私の二の腕にできた痣に引き込まれた。しまった、とキャミソール姿で出てきてしまったこと後悔する。

母の目がすっと細くなった。いい気味だ、と言いたげに弧を描いたその唇から逃げるように、私は脱衣所を出てその扉を激しく閉じた。


14.05.19