32 扉の向こうで足音がしたかと思うと、勢いよく黄瀬が飛び込んできた。後ろ手にかちりと鍵をかけ、すぐさまロッカーに向かい着替え始める。おい、どうなった?と森山が尋ねた。 「警備員サンが追い払いました。んでまた雨が降り始めちゃったんでみんな体育館に戻ってきてるんス。女の子が、あ、うちの学校の子っスけど、わらわら押しかけて笠松センパイが軽くパニック中っス。申し訳ないけどヘルプに行ってもらえないスか」 「よし、行こう。女の子相手にオレほど適当な男がバスケ部にいるものか」 「よろしくっス」 「で、お前は?何着替えてんの」 「事務所に呼ばれたんで、帰るんス。すいません」 森山が顔をしかめたのがわかった。当たり前だ、インターハイ予選が近いのだから。黄瀬もそれはわかっているだろう。最近の撮影は週末の夜に何度か出かけたくらいで、部活はほとんど休んでいない。事務所に顔を出すのも久々なはずだ。森山が出ていってから、私は目を伏せたまま口を開いた。 「ごめんね」 「何がっスか」 「朝、私メアド変えたでしょう。ネットで私の情報が晒されたみたいだから変えたの。多分そこで海常のこととかまで書かれちゃったんだと思う。ごめんね迷惑かけて。仕事に差し障ったりする?」 「みょうじっち」 急いでいるはずなのに、黄瀬はわざわざベンチに座る私の前にしゃがみこんだ。視線を合わせて悲し気に笑う。 「それを言うなら悪いのはオレっスよ?オレが一緒にいるから、みょうじっちはこんな目に遭うんスよ。これ言っちゃうときりがないから、ずっと言わずに来たけどね。謝ったところでオレはみょうじっちから離れないんスから、」 「それは私が黄瀬を」 縛りつけてしまっているからでしょ?そう、この問題は収まりがつかない。私は私にとって最も平和な道を選ぶことができないし、そのせいで黄瀬は自由に動けないからだ。ごめんね、とまた声をふり絞った。 「みょうじっち、顔上げて?詳しい事情はあとで説明するけどね、みょうじっちが思ってるほど大変なことにはなってないから大丈夫。もうみょうじっちのことが書かれた元の記事は消えたしね」 「……え?」 「今日は大人しくしてること。笠松センパイに色々頼んだんで、側を離れないで。一人になっちゃダメっスよ?帰りは送ってもらって。あと夕飯は自分でなんとかするから、今日は持ってこないで。約束」 厳しいような優しいような、複雑な目をしてそう言ったきり、黄瀬が私を見ることはなかった。手早くネクタイを締めて部室を出ていく後ろ姿を黙って見送った私は、数分後にようやく立ち上がった。まだ今日の部活は終わっていない。 黄瀬の言いつけ通りに笠松に送ってもらった。途中、何度もアドレスについて聞こうとした。私のアドレスを誰かに見せたりしませんでしたか、と。だがそのたびに声は喉に引っ掛かって、私は口をつぐんでしまう。 帰宅後は本当に大人しくしていた。すぐにベッドに倒れ込んで眠ったのだ。朝と同じく、着信音によって目が覚める。恐る恐る開いたそれには黄瀬涼太の文字があって、私は心底ほっとした。 『みょうじっち!?』 「うん、ごめん寝てた」 『寝て……ああもう、心配したじゃんか…』 黄瀬の溜め息が耳に届く。時計に目をやると、十時半を回っていた。微妙に湿っているような黄瀬の声が気にかかったが、それについて聞く前に黄瀬が不満たらたらに言った。 『この電話が通じなかったらみょうじっちの家まで行くところだった』 「ごめん。え、こんな時間まで事務所にいたの?今帰り?」 『まさか。とっくに帰ってだらだらしてるよ』 「嘘」 『……帰りっス。歩いてる。もうすぐみょうじっちの家だけど、電話通じたし寄らないね』 「なんでわざわざ遠回りしてんの」 『みょうじっちが電話に出ないからだっつーの!』 「……すみません」 夜ごはん食べた?と聞くともちろんと返された。みょうじっちは、と尋ね返してくる黄瀬はなかなか鋭い。もちろん、と答えるがまだ食べていないしこれから食べる気もなかった。本当に、この前までの黄瀬に顔向けできない嘘のつきようだ。 『なんかね、事務所でしばらくみょうじっちに近づくなって言われたんス』 「……そう」 『や、そんな落ち込んだ声出さないで!みょうじっちってほんとオレのこと大好きっスよねー』 「うるさい」 すべてが図星だった私は唇を噛んだ。人の気も知らないで、なんて残酷なからかいだろう。黄瀬の言う通り、私は落ち込んでいた。ついに事務所にまで嫌われてしまった。その忠告はもっともだ。波に乗っている大事なモデルにスキャンダルなどあってはならないだろう。 『冗談っスよー。それにみょうじっち、誤解してる。近づくなっていうのは、みょうじっちのためなんス。みょうじっちをカゲキなファンから守るため』 黄瀬が語った話によると、事務所が"黄瀬涼太の彼女"について書かれたサイトを見つけたのは午前中だそうだ。記事の真偽を問う電話がかかってきたことで動き出した事務所は特殊なネットワークを使ってすぐに情報元を突き止め、削除依頼をサーバーの方に出した。これが大型の掲示板ではなく小さなファンサイトだったのが幸いし、あっという間に削除されたようだ。うちの事務所なかなか強いんスよ、と黄瀬は笑った。 『そこから出ちゃった画像に関してはどうしようもないけど、せいぜいオレのファンの間で噂になるくらいっス。オレの知名度なんてたかが知れてるし、大丈夫っスよ』 「黄瀬、大人気じゃん」 『この辺に住んでる女の子くらいっスよ、オレを知ってるのは。わざわざ男性誌見てファンになってくれるなんて、ありがたいとは思うけどね』 「学校も割れちゃったし」 『知ってる人は元々知ってたよ、きっと。帝光生や海常生がばらそうと思えばばらせるし、通ってる学校を知られてる芸能人なんてざらっス。気にしないで』 「週刊紙に書かれたり、しない?」 『しないしない!』 黄瀬は笑い飛ばすばかりだったが、私の気は晴れなかった。何の問題もないような言い方をする黄瀬。でも、それならどうして黄瀬と離れなきゃいけないの?わがままだとわかっていつつも考えてしまう。暗い事ばかりを呟く私に、黄瀬は「あのね、」と言い聞かせるように言葉を紡ぐ。 『危ないファンがまた学校とか、通学路に来るかもしれないから、その子守りたいならしばらく離れてろって。しばらくっスよ、本当に!オレも寂しいんスよ〜』 「それが本当なら、なんで黄瀬の事務所そんなに寛容なの?守るとかそういうの、口実じゃないの」 『疑り深いっスね…。まあみょうじっちじゃない子だったらそれもありえたかも知れないけど、みょうじっちっスから』 「私だとなんなの?」 『みょうじっちのことはうちの事務所、中学のときから知ってるからさ』 「……そうなの?」 また一つ、"はじめて"の話が増えた。黄瀬は当たり前のように口にしたが、どうしてそんな重要なことを教えてくれなかったのと問い詰めたい。黄瀬はあとどれほど、私に隠し事をしているのだろう。隠している自覚さえないものも多いだろう。話す必要はない、そう割り切っているのだ。 『そういうわけで、明日からしばらくは晴れても雨でも別々に登校ね。帰りも別』 「わかった」 『ちょ、今こそ寂し気な声を出すところっスよ!みょうじっち薄情!』 「一つ聞きたいことがあるんだけど」 『スルーっスか…。何?』 「私が電話に出る前、泣いてた?」 黄瀬は答えなかった。沈黙の長さを疑問に思った私が「黄瀬?」と答えを促すと、黄瀬はさもおかしそうに笑った。 『泣いてなんかいないっスよ』 「嘘、声聞けばわかるんだから」 『あのねーみょうじっち。みょうじっちはいつもそうやってオレの嘘を見破るけどね、オレだってみょうじっちの嘘くらい見抜けるんスよ?』 おやすみ、とあっさり切られた電話に目を落とす。黄瀬の言葉が先日のやりとりを意味していると気づくのには時間がかかった。黄瀬は、私があの朝泣いていたと確信しているのだ。見抜いた上でそっとしておいてやってるのに、みょうじっちは放っておいてくれないの?そんな意味を含んでいたに違いない。 そしてもう一つ気づいたこと。黄瀬の言葉を何度も脳内で繰り返して、考える。『いつもそうやって』『嘘を見破る』、黄瀬はそう言った。つまり今回も、私は黄瀬の嘘を見破ることができたのだ。黄瀬は嘘をついていたのだ。 黄瀬は確かに泣いていたのだ。 どうして、と答えの出ない疑問に頭を抱える。その夜久々に見た夢にはまた、死んだように目を閉じる黄瀬と恐怖に泣き叫ぶ私が出てきて、非常に寝覚めが悪かった。 13.02.19 |