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煩い、まだ眠いのにと呻いて枕に顔を埋める。相変わらず重たいままの頭を起こして騒がしい携帯電話を手に取った。ディスプレイを見て、目を閉じて、深く溜め息をつく。心なしか頭痛が酷くなった気がする。なんで。どうして。

受信ボックスはまたもや嫌がらせのメールでいっぱいになっていた。本文に含まれる「黄瀬」の文字に吐き気さえしてくる。「みょうじ」を見つけてしまったそのときには涙が滲んだ。

『涼太くんのストーカーやめろ』『大して美人でもねーじゃん』『彼女気取りとかきもいんだよ』『涼太に近づくな』『釣り合うわけないwww』『ブス』

以前のようにアドレスだけが晒されたのではないということは簡単に想像がついた。アドレスに加えて写真と名前、そしてご丁寧に海常で私を取り巻いている噂まで添えて晒したのだ。ねえこれ、どうしたらいい?私はこれからどうなるの?街を歩けば指を差されるとか、みょうじなまえと検索すれば悪口が出てくるとか、そんなことが起こったりする?

ひっきりなしに鳴るこの機械を真っぷたつに割ってしまいたい。マナーモードに設定してから携帯会社のサイトに繋ぎ、アドレス変更の手続きをした。そしてそれを知らせるメールを中学の友達にだけ送った。たったの七人だけど、と唇の端を上げる。親にも送り、監督にも送った。そして、ベッドに突っ伏した。

あとは笠松と亜美だ。私は二人とも信頼している。二人が私のアドレスを晒したり、悪意を持って誰かに渡すことは絶対にないと思う。偶然、きっと偶然漏れてしまったのだ。どこからか漏れて広まって、悪用されてしまったのだ。二人じゃない。間違いない。

"絶対""間違いない"なんて、どうして言い切れる?"友達"に何度も裏切られてきたくせに。

ベッドの上で膝を抱えて丸くなった。寒気がする。頭が割れそうに痛い。どういうわけがあって人のアドレスを他人に渡すの?しかも私だ。私のアドレスだ。私の置かれている立場は二人とも知っているはずだ。偶然なんてありえない。


私はそっと送信ボタンを押した。画面のなかで紙飛行機が揺れる。送信完了、の文字が表示されるのを確認してまた顔を伏せた。

言い切れるに決まってる。笠松は私の尊敬する先輩で、亜美は大切な友達なんだから。信じなくてどうする、と自分を叱咤した。今日もまだ雨が降り続いている。梅雨に入ってしまったのだ。気持ちまでじめじめと暗くなるこの時期が、私は苦手だった。黄瀬に『今日もバスで行くから』と連絡する指が震えていることに気づいた。



△▽



朝練時は何かと忙しく、黄瀬との接触と言えば弁当箱を交換するのが精一杯だった。美味しかったよと、ありきたりながらも私の心を温めてくれる優しい言葉とともに返された二つの箱は綺麗に洗われていた。いいって言ってるのに、と私が眉を下げるのもいつも通りだ。代わりに昼用の弁当を渡して、私たちはすぐに別れた。



よく学校来れるよね。あんなこと書かれてさ。そんな毒々しい言葉に気づかないふりをして一日を過ごした。私に向く目はいっそう厳しくなり、つきまとうざわめきも大きくなった。わかりやすく耳に届いた情報を整理すると、私のアドレスやもろもろが晒された何かを実際に目にした人は少数のようだ。その少数が、あっという間に噂を広めてくれた結果が現状らしい。親切にどうも、とそいつらに唾を吐いてやりたいくらいだ。

亜美も笠松も、当たり前だが普段と変わった様子はなかった。それどころか亜美は、私の体調が悪いのを見抜いて気遣ってくれた。熱はないの、と聞かれて微熱だと返す。微熱でこんなに具合が悪いのは、精神的なものが関係しているに違いない。



部活が始まって早々「外周行くぞ」と言い渡した笠松に部員の多くが悲鳴を上げた。「雨なのに!?」「やんでるだろ」怪訝そうに外をうかがった二年生の顔が苦痛に歪む。あくまで一時的にだろうが雲が裂け、太陽が覗いていた。どんなに練習熱心な部員でも苦手意識を持ってしまう魔のメニュー、それが外周だ。見ている限りでは校内を走る内周の方が階段もあるし辛いのではと思うのだが、外周には外周の辛さがあるのだろう。明らかに口のなかで文句をぼやいている様子の部員たちについて体育館を出た。


「なんだ、あの人だかり?」
「さあ…?」


校門のあたりに小さな人だかりができていた。部員の列の先頭はそれを不思議そうに見ながら横を通って外へ出ている。その集団は全員が若い女の子で、制服姿の中学生も混じっているように思えた。手に握られた色とりどりの傘が鮮やかだ。そのうちの一人が唐突に私を指さし、高い声で叫んだ。


「あの人じゃん!」


隣の少女の携帯電話が即座に私を捉え、小さなレンズに光が反射してきらめくのを呆然と見ていた。おい、とどこからか森山の声がする。数秒のうちに、朝のメールが頭を駆け巡った。

すっと背後から差し込まれた手のひらがレンズを覆い隠し、同時に私は力強く後ろに押しやられた。あっという間に黄瀬を盾にすることになった私は広い背中をただ見つめているだけだった。どくどくと心臓が波打ち呼吸が苦しくなる。森山センパイ、と黄瀬が低い声を出した。


「この子中に戻してくれないスか」


黄瀬はちらりとも振り向かず、黄瀬くん涼太くんと騒ぐ女たちに向き合っていた。彼女いるってほんとなの、あいつがそうなの、ねえ涼太くん、握手して!ファンです!大好きです!彼女なんて、いないよね?

どうしよう、どうしようと熱くなる頭がまた痛み始める。これってスキャンダルっていうやつ?私のせい?行くぞ、と森山が私の袖を引いた。直接手を取られなかったことに違和感を感じる余裕もないまま、森山の後ろに続いた。入れ替わりに警備員が走ってくるのを目の端に捉えたそのとき、騒然とする部員たちの目が自分に集まっていることにも気づいてしまう。部活を止めてしまった。私のせいで、私がこんなにも嫌われていたせいで。

校門から離れても、ざわめきは収まらない。恐る恐る見上げた校舎のなかで、何十人もの生徒が私を見下ろしていた。言葉は一言も聞き取れないが、囁きが集まって大きなさえずりと化し私にのし掛かる。逃げたい、逃げられない。死角はない。


「上は見るな。大丈夫、何があったのか気になってるだけだ」
「……そういう目じゃない」
「前だけ見てろ。いや間違えた、オレだけ見ていればいい」


私を安心させようと微笑む森山は、本当に残念なイケメンだと思った。しかし、無意識に森山の袖を握りしめる自分がいた。校舎に入った瞬間、まだ人の少ない廊下を森山は疾走する。ぎゅうと私の手を掴んで。二人でバスケ部の部室に飛び込み、荒い息をついた。ちなみに荒いのは私だけである。


「座れよ、大丈夫か」


私は無言のまま頷いた。黄瀬は、他の部員はどうしているだろう。警備員は彼らを追い払うことができただろうか。私と黄瀬の通う高校が海常であることまで載せられてしまったのだ。プライバシーの侵害じゃないの、と浅い知識がここぞとばかりにわめき立てる。週刊紙に書かれたり、するのだろうか。世間に及ぼす影響が、あるのだろうか。

黄瀬、早くここに来て。大丈夫だよって言って。私の気を紛らせようと明るい話をする森山の隣で、折り畳んだ膝に額をつけ目を閉じた。


13.02.10