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私の通っていた帝光中学校は東京、それに対して海常高校は神奈川にあった。黄瀬はスカウトによる特別枠で入学しようとしていた例外者だったが、通常は帝光に海常への推薦枠などない。それなのに、黄瀬が私に手渡した書類はあるはずのない推薦状だったのだ。笑顔でペンを差し出す黄瀬の目の前で必要事項を記入し、親の承諾を得てから学校に持って行った。あっさりと校長の元を通ったそれは海常に送られ、瞬く間に私は入学許可証を手にしていた。

その頃の私は色々と感覚が麻痺していたようで、あちこちに感じた疑問について深く考えている余裕はなかった。黄瀬が導くままに歩を進め、流されるままに海常への入学が決まったのだ。

春休み、黄瀬に連れられて足を踏み入れた海常高校で、私は男子バスケットボール部の主将と監督に会った。品定めするかのような目で見られ、思わず俯いてしまったのを覚えている。


「お前の入学を認めたのは」


黄瀬が笠松と共に練習を見学している間、私は監督と机を挟んで向かい合っていた。念を押すような重々しい口調で、監督は私の知らない事実を告げた。


「黄瀬が我々のスカウトを、お前の入学を条件に受け入れたからだ。お前が海常に来られないなら自分も入る気はないと言い張った」


呆然とする間に話は進んだ。私の入学は黄瀬とほぼ同じ扱いで作られた特別枠によるものだとか、試験も無しに通された意味を考えろとか、そんな話だった気がする。右から左へと抜けていく監督の声だったが、黄瀬に関わる部分だけが私の頭に残ってぐるぐると回った。黄瀬は、私の知らないところで何をしていたの。どうして何も教えてくれなかったの。

最後に監督は、バスケ部に入れ、と心底不快な表情で言った。黄瀬が持ちかけた彼自身の入学条件のひとつとして、私はバスケ部へ入部しなければならないそうだ。私は黄瀬と違ってスポーツ特待生ではないし、そもそもマネージャーという立場にそんな強制的なものが働くのかわからなかった。本当に、バスケ部に入らなければならないの?何故それを強いられなければならないの?監督や主将は、明らかにそれを望んでなどいないのに。

混乱はあったが最終的に、私の入学は常識で考えられるものではないのだと無理矢理自分を納得させた。何も決められてなどいなくて、すべてが決められている。中心にいるのは黄瀬だ。黄瀬が望む限り私も海常も、自由に動けない。海常は私という無意味かつ不利益な存在を引き受けてまで黄瀬を欲していたのだ。黄瀬涼太というプレイヤーを、必要としていた。黄瀬を手に入れるためなら、手段を選ばないという心持ちだったのだろう。黄瀬はそこにつけ込んで、器用に交渉を持ちかけた。

結果的に私は、後ろ指をさされても文句は言えない状況で海常に滑り込んだのだ。



△▽



ゆっくり開いたロッカーは、部活前に閉めたときと全く変わりなかった。制服や教科書にも異変はない。ただ、腕時計だけが。最も大切な腕時計だけが、忽然と姿を消していた。


「なくしちゃった、時計」
「ああ、それでリストバンドつけたままなんスね」
「持ってるなら、ちょうだい」
「……何を?」
「時計」


帰り道の暗がりで、黄瀬は上手に笑った。それはあまりにも冷静な反応で、余計にわざとらしかった。いつの間にか、何事もなかったかのように練習に合流していた黄瀬。私は結局部室には入らなかったし、そこであったことに欠片も気づいていないように振る舞った。だが私は、黄瀬が女子たちの残した跡をすべて消し去ってくれたことを知っている。壊されて汚されてどうしようもなくなった時計だけは、隠さざるをえなかったことも。


「今度新しいのをプレゼントするよ」
「いらない。ねえ、持ってるでしょ?私が欲しいのはそれなの」
「そんなこと言われてもね。言いづらいんスけど、オレのファンの子が盗っちゃったんじゃないスかね?きっと今頃ごみ箱に、」
「じゃあ探してきて」


時計は絶対に、黄瀬の手に渡った。勘でしかなかったこの推測も、黄瀬の反応によって確信に変わった。時計が今ごみ箱にあるとすれば、捨てたのは黄瀬だ。だけど、そんなことはあり得ない。黄瀬はあれをそう簡単に手放してしまったりしないはずだ。そうであって欲しいと願った。私にとってかけがえのないあの時計が、黄瀬にとっても大切であって欲しい。そう願ってじりじりと待った。次第に焦りへと変わっていく感情。全く動こうとしない黄瀬は、まさか本当に、時計を持っていないのだろうか。本当に捨ててしまったのだろうか。ぐにゃりと唇が歪む。痺れを切らしてもういい、それなら私が探しに行くと足を踏み出したそのときになってようやく、黄瀬は重い口を開いた。


「ぼろぼろっスよ」
「……いいよ」
「どろどろっスよ」
「いいって。それでいいから、持ってるならちょうだい。もう、私のものだよ」
「みょうじっちは時々意味わかんないね。オレが新しいのあげるって言ってんじゃん。なんで壊れた時計なんて欲しがるの?」
「黄瀬がくれたものだから」


意味がわからないのは黄瀬の方だ。こんな単純なことさえも、言わなければ伝わらない?憎らしいほど長い睫毛を揺らしてぱちぱちと瞬きした黄瀬は、しばらくしてポケットに手をつっこんだ。そこから出てきた腕時計は、確かにぼろぼろでどろどろですでに針は止まっていた。でも、それが何?何ヵ月も愛用した大事な時計であること、黄瀬からの贈り物であることに変わりはないのだ。


「部室であったこと、見てたんスか」
「まあね」
「あいつら、なんでみょうじっちのロッカーが開いてるの知ってたんだろ」
「頼まれたか何かで、毎日チェックしてる部員がいるんじゃない。部員のみんながみんな私の味方ってことはないだろうし」
「……そいつ探し出して、」
「いいよそんなの。これからは鍵閉め忘れないようにするから。そんなことよりも、酷い嘘をついたことを気にしてよ」
「嘘?」
「……私が黄瀬の、とか、そういうの。ああいう子たちは都合の悪いことは口にしないから広まらないとは思うけど、もしものことを考えると怖いじゃん」
「そこも聞いてたんスか」
「うん」


苦い表情をした黄瀬を見て、私の顔はぎこちなく固まってしまった。黄瀬が次に何を言うか、想像できる。やめて。言わないで。わざわざ言われなくたってわかってるから。頷くだけで、もう嘘はつかないって頷いてくれるだけでいいから。わざわざ嘘だって認めなくたって、


「確かにまあ、それは、嘘っス。みょうじっちがオレのものとか、そこらへん。勝手に言っちゃってごめんね、ほんとは全然そんなこと思ってないから、気にしないで」


……認めなくたって、いいのに。ほら、だから期待するなって言ったでしょ。実際こういう結末だ。わかってた、何度も繰り返してきた。熱くなる瞼を暗闇で隠しながら、もう嘘はやめなよと笑いながら咎めるのだって、これでもう何回目だろう。私の頭には今でも、あの黄瀬の声が思い浮かぶというのに。嘘つき。嘘つき。


『好きだから』
『女の子として、みょうじっちが  』


13.01.19