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あ、と小さく声を発する。ちょうど私からドリンクを受け取った森山が首をかしげた。


「どうした?」
「先輩のせいで、ロッカーの鍵かけ忘れたじゃないですか」
「えっオレ!?」
「先輩に下らないことで呼ばれたせいですよ」
「可愛い女の子見つけたってのは大事だろ!」
「そんなことで呼ばないでください」


たった今、森山の顔を見た瞬間に気づいたのだ。部活が始まる前、ロッカーに荷物を入れたそのときに切羽詰まった声で名を呼ばれ、慌てて部室を出たために鍵をかけ忘れてしまったことを。運の良いことに今は休憩時間だ。今のうちに鍵をかけてしまおうと、部室へ急いだ。



△▽



黄瀬はにこにこと笑っていた。親しい友人に見せるものとも、雑誌に載るものとも違う、貼りつけたような奇妙な笑み。床にひざまずいて時計を弄っていた二人はそのままの姿勢から動くことができなかった。どうしよう、どうしよう、よりによって黄瀬くんに――。彼女らの考えを読み取ることは容易い。


「みょうじっちはオレが頼んだからそれをつけてくれてるだけなんスよ。よく一緒にいるのも、オレが一緒にいてって頼むからっス。みょうじっちはね、オレを一人占めしようとか思ってないんスよ。だから、あの子をいじめるのはもうやめて」
「ちょっと待って、え、何の、」
「君たち、何回か差し入れくれた子っスよね?気持ちは嬉しいけど、オレなんかに執着しても良いことないっスよ」
「執着してなんか…!」
「してるよ、みょうじっちをいじめるのもオレに執着してるからでしょ?」


例えばそれ、と黄瀬は二人の背後を指差した。その顔にもう笑みはない。かといって他の感情も見えない。あまりにも静かなその声に二人は息をのんだ。振り向いて確認しなくとも、何を指し示しているかわかる。書きなぐったばかりの「死ね」の文字だ。


「みょうじっちの下駄箱に入ってた紙に、同じ筆跡の"死ね"があったんス。迂闊だったね?こんなにわかりやすく残しちゃってさ。あの紙はわざわざオレが破いて証拠消してあげたようなものなのに、自分からまた作るなんてとんだ馬鹿っスわ」
「……黄瀬くん、」
「困るんスよ、執着もいじめも」
「執着っていうならみょうじだって!黄瀬くんのことが好きだからってわざわざ神奈川まで追いかけてくるなんて、ストーカーも同然じゃん!どうして私たちの執着はダメでみょうじの、」
「違うんスよ」


目を潤ませて黙り込んだ一人に対し、もう一人は開き直ったのか激しく怒りを燃やしていた。黄瀬への怒りではない。彼女の中で燃えているそれは、黄瀬が庇うみょうじへの憎しみだ。だが感情を高ぶらせた少女の声を、黄瀬はいたって冷静に遮った。それ以上口を開くな、そう暗に言い示している澄んだ瞳。

……澄んだ?


「みんなそういう見方をしてるけど、それは違うんス。本当はオレが無理言って、海常まで連れて来たんスよ。どうしてもあの子を手放せなかったから」


濁った、の間違いだろう。少女たちはどす黒いその瞳から目を逸らせなかった。黒いわけがない、綺麗に澄んだ琥珀色のはずの彼の瞳。だがそれは確かに二人の前で、黒い光を放ったように見えたのだ。


「その時計はね、オレがみょうじっちのものだって示してるわけじゃないんスよ?みょうじっちがオレのものっていう、証なんス」



△▽



よくもそんな平然と、嘘を。

最悪の事態に、私は思わず顔を覆った。部室の扉が開いていて、黄瀬の声がして。耳をそばだててみればこの有り様だ。黄瀬はわかっていない。この発言がどんな波紋を生むか、黄瀬は全くわかっていない。ここで私が飛び出して、黄瀬の言葉を訂正したところで私への攻撃が止まることはないだろう。例えここにいる二人が諦めたところで、この学校に黄瀬に過剰な愛を向ける女がどれほどいることか。今ここで起こったことは、話されたことは、あることないこと学校中に広まって、すべて私への白い目に変わるのだ。

もうすぐ休憩が終わってしまう。部室に入るわけにもいかないし、一刻も早くこの場を離れなければ。しかし私は足を踏み出すどころか、手を下ろすことさえできなかった。抑えようがないほど、頬が熱くなっている。

都合の良いように考えてはいけない。真実だけを見なければならない。どんなに期待してしまいたくなる彼の言葉も、私が黄瀬に向けるような感情は欠片も含まれていないのだから。必死にそう言い聞かせるも、どくどくと波打つ胸は煩いままだった。"手放せない"の一言に、私の知らない意味があればいいのに。叶うはずのない望みを抱くと同時に、あの日のことを思い出していた。


12.12.16