19

別に、好きであの場にいたわけではない。いつものように私と一緒に帰ろうとする黄瀬が後ろをついてきて、気づけば校内だというのに隣を歩いていて。慌てて距離を取ろうとする私に、黄瀬は笑いながら言ったのだ。ちょっとここに隠れてて、と。

意味がわからず戸惑う私を、黄瀬はそこに押しつけた。狭い廊下を構築する壁から、一部分だけ出っ張った柱の影。約束忘れてたっスと眉を下げる黄瀬は、嘘をついているようには見えなかった。どういうことか問いただそうとした私の目の前で、黄瀬は自分の口元に人指し指を立てる。


「しー、」


目を細めて口角を上げて。色気を含むその仕草と吐息に言葉が出なくなってしまった。押し黙った私から目を離し、黄瀬は廊下の先へと向き直る。どこからか聞こえてきた足音に危機感を抱いた。ここを離れなきゃ、と思ったときには遅かった。

私からほんの数十歩というその距離で、黄瀬は女子生徒の告白を受けた。始まってしまったからには逃げ出そうにも逃げ出せないその不完全な死角で、私はひたすら息を殺していたのだ。


「いい子だったね」
「んー」
「こんな時間まで待っててくれるって時点で、黄瀬のこと大好きだってわかるじゃん。一人で帰って大丈夫かな、外真っ暗だけど」
「結果が気になってうずうずしてるオトモダチが外で待ってるんじゃないスか」
「どうかな。そういうタイプには見えなかったよ」
「……そうっスねえ。フッた理由も聞いて来なかったし、しつこく食い下がっても来なかったし。ああいう子ばっかりなら楽なんスけど」
「聞いて来なかったって…。顔で理由を誤魔化したのは自分でしょ」


今日も自転車を押しているのは黄瀬だった。私より随分歩幅の大きい黄瀬と私が並んで歩けるのは黄瀬の気遣いのお陰で、私はいつもそれに甘えている。ちなみに私に対して"気遣う"という発想を持たない青峰の隣を歩こうものなら、数分で何十メートルもの差が開く。実証済みだ。

それはそうと、黄瀬は女を黙らせるのによく自分の顔を使う。さっきの私だって同じだ。黄瀬は自分の魅力を十分すぎるほど理解している。どのタイミングで、どの距離で、どう声にして、どういう表情をすれば女の心を捉えられるのか。すべて計算ずくでそれを実行する黄瀬を、腹黒いと言わずになんと言うのだろう。


「だって、理由を言わないのが一番キレイなフりかたっスよ?君のことは見たこともないし名前も知らないし、そんな子と付き合うほどオレは暇じゃないんスよ、なんて言える?」
「……ゲスい」
「失礼っスね!みょうじっちもほんとはそう思うでしょ?」


ここで首を横に振れば、それは嘘になるだろう。私もわからないのだ、彼女たちの心理が。黄瀬の本性を知れとまでは言わないが、それなりに距離を縮めて黄瀬涼太という男をよく見極めてから告白でもなんでもすればいいのに、先ほどのあの子のように初対面で告白する女子ばかりだ。どうしてそれが成功すると思えるのか、どうして彼女らがそんな行動をとるのかわからない私は、ただ単に度胸のない女なのだろうか。


「ワケわかんないんスよ。だって実際に喋ったこともないし、クラスだって違う。オレのどこに惚れたっていうんスか?まあそんなの、見てくれに決まってるけど」
「……うん」


私は曖昧な声を発した。無謀な告白に出る彼女たちの心理はわからなくとも、黄瀬に惚れてしまう心理はなんとなくわかるのだ。たとえ話したことがなくとも、あの煌めきと笑顔に人は惹き付けられてしまう。バスケをする姿を見てしまっては、恋に落ちるのは必然ではなかろうか。普段の穏やかさと、プレイ中の荒々しさ。真剣な表情。その両方を知ってしまっては、彼に恋い焦がれるのも無理はない。黄瀬がこれ以上調子に乗らないようにとオブラートで何重にも包んでそれを伝えると、黄瀬は目を丸くした。つまり、案の定調子に乗った。


「みょうじっちはどっちのオレも知ってるんスよね?オレに惚れてるってこと?」
「一部例外もいるに決まってるでしょ、私とか。みんながみんな黄瀬のこと好きになるわけじゃないんだから」
「えー、ちょっと期待したのに」
「私は黄瀬のゲスさも知ってるからね、それはマイナスポイントかなー」
「……みょうじっちは、ゲスいオレが嫌い?」


私はその質問の意味を考えて、しばらく口を閉ざしていた。もう家が見えている。答えを出さなければと考えれば考えるほど、混乱の深みにはまっていくのだ。だってそれは、なんて無意味な問いだろう。


「ゲスい黄瀬も何も、黄瀬はゲスい人間でしょう」
「どういうこと?」
「私は黄瀬のこと嫌いじゃないから、ゲスい黄瀬も嫌いじゃないよ。言ってることわかる?」
「難しいっス」
「全部黄瀬なんだから、あの部分は好きであの部分は嫌いとか簡単には言えないってこと。あえて言うならゲス黄瀬は嫌い」
「今簡単に嫌いって言ったよね!?」


どーいうことスかもー!と口を尖らせる黄瀬はやっぱりわざとらしくて、こういうあざとさが嫌いなんだと心中で呟く。でも性格の悪さだってあざとさだって黄瀬の一部なわけで、私は黄瀬が好きなわけで。ああ、自分でもわけがわからなくなってきた。


「無理もない、かもね」
「何のことスか?」
「私と黄瀬の関係を、誤解されるの。行きも帰りも一緒にいて、部活も一緒にいて。ほんと、これじゃまるで」
「コイビト、みたいっスね。オレはそれでもいいんスよ?」
「やめて」


思ってもいないことを、平気な顔して言うのはやめて。嘘を嘘とも思っていないような表情はやめて。

"あんた自分が何やってるか、なんで嫌われてるかほんとにわかってる?"

わかってるよ。わかってるつもりだよ。泣きそうな目と激しい声と、熱を持ったあの子の手のひらが頭を離れない。誤魔化すことなく向けられた、幾つもの憎悪の目。彼女は私が羨ましいと言った。プライドをかなぐり捨てて、羨ましいと叫んだ。あの子たちは、私が恵まれていると思っているのだ。黄瀬の側にいられて幸せだと。

違う。少なくとも、私にとっては違う。羨ましいのは、羨んでいるのは私の方だ。泣きたいのは私だった。出来ることならそっちの立場になりたいと、毎日毎日焦がれているのは私の方だ。私が私じゃなかったら。私と黄瀬の関係が違うものであったら。私はもっと気軽に黄瀬の隣で笑っていられて、もっと気軽に本音を打ち明けられて、もっと、もっと。

私は欲深い女だった。こんな贅沢な願望を抱いているから嫌われるのだとわかっているつもりだ。口に出したことはなくとも、彼女たちは敏感に感じ取るのだろう。さつきに言わせれば、"女の勘"というものを働かせて。

黒子にも緑間にも言ったとおり、私は幸せだ。黄瀬と過ごせる日常は心から幸せだと思える。そう、私は確かに、恵まれている。だからこそ、あの子たちの前で涙を見せるわけにはいかなかった。それはきっと、私を羨むあの子たちに対する冒涜だ。


比較的新しいアパートの、二階の一室。そこが私の家だった。黄瀬はいつも私の自転車を駐輪所まで運び、階段の下まで私を送ってくれる。そこから先には、決して足を踏み入れようとしない。今日も同じ場所で立ち止まった黄瀬に別れの挨拶をし、階段を上ろうと背を向けた。


「待って」


珍しく掠れた声で呼び止められ、私は無意識に振り向いた。今も頭の中で響くのは私を非難するあの子の声で、そろそろ涙腺が緩んでしまいそうだった。何、と返そうとした喉はからからで、虚しく唇だけが震えた。

一段ほど上にいるはずなのに、まだ私は黄瀬よりも背が低い。だがそれでもいつもとは違う新鮮な距離間で、私は黄瀬と向き合った。泣き出しそうな黄瀬の瞳が揺れる。よりによってこういうときだけはわざとらしさもあざとさもなくて、純粋に私の胸を締めつけるのだ。黄瀬はそっと拳を開き、私の後頭部に触れる。わずかに腫れたそこを撫でられて、私は顔を引きつらせた。どうして、知ってるの。


「ごめんね、みょうじっち」


ん、と頷くのが精一杯だった。何に頷いたのか自分でもわからない。否定しなきゃ、黄瀬とは関係ないって言わなきゃ。あの子たちが私を嫌うのは、私のせいに他ならないんだから。


「ごめんね」


黄瀬が何に謝っているのか、自分が何に頷いているのかわからない。黄瀬もわかっていないだろう。私たちの関係は、そういうものだ。


12.11.18