01 まだ慣れないその道を慎重に走る。視界の端にちらりと映った金髪に、思わず顔を歪めた。タイヤの擦れるわずかな音を聞きつけたのか、その人物はこちらに振り向いて目を細める。太陽の日差しを受けて煌めく金色は本当に綺麗だ。すっと手を上げて笑みを浮かべるその男の横を、 「みょうじっち、おは」 全速力で駆け抜けた。あっちは徒歩、私は自転車だ。このまま突っ走れば捕まらないだろうと、全力でペダルを踏み込む。勢いよく吹き抜ける風が心地好いが、それを楽しんでいる余裕もない。 「ちょ、みょうじっち!」 私の名を叫ぶ声を無視して走り続けたが、残念ながら赤信号に行く手を阻まれてしまった。ああやばい、追いつかれる。焦りながら後ろを振り向くと、軽く息を切らしつつも爽やかに微笑む黄瀬涼太がすでにそこに立っていた。「え、速っ」と口走りそうになったが、よく考えてみればこれくらい黄瀬にとっては何でもないだろう。私はとりあえず「おはよ」と切り出した。 「ねえ、前より走るの遅くなったんじゃない?引退してからサボってるせいだよ」 「な!これでも頑張って走ったんスよ!?酷いっスみょうじっち、オレずっと待ってたのに無視して行っちゃうなんて」 「なんで待ってたの?」 「みょうじっちと一緒に学校行きたかったからっス!」 「もう一度聞くけどね、どうしてこの時間に"ここ"にいるの?」 「だからみょうじっちと」 「朝練はどうしたって聞いてんの!」 あくまではぐらかそうとする黄瀬に少し声を高くする。口を尖らせた黄瀬は、みょうじっちこそサボりじゃないっスかと言い返してきた。 「私の正式入部は来週」 「それならオレもっスよ!オレら同学年なの忘れちゃったんスか」 「黄瀬はスポーツ特待生でしょ。強制的に四月一日からバスケ部員なの忘れちゃったんすか」 「忘れちゃいましたー」 ヘラリと笑う黄瀬に腹が立つ。覚えてるくせに。ちょうど良く信号が青に変わったので、私は勢いよく自転車を漕ぎ出した。黄瀬と学校に行くことはできるだけ避けたい。なんとか距離を開こうと必死にペダルを踏み続けたが、耳元では常にワイワイと明るい黄瀬の声が響いていた。……振り払えない。三つ目の信号で再び自転車を止めた私が後ろを確認すると、案の定平然とした顔の黄瀬が立っていた。走って自転車についてこれるってどういうことだ。さすがサボり魔、体力有り余ってるねとさっきと矛盾することを言ってみれば、ちょおーと溜め息を吐かれた。 「オレ結構疲れてるんスよ?汗もかいてるし、朝っぱらから制服で全力疾走とか色んな意味でキツいっス」 「じゃあついてこなきゃいいのに。授業中汗ダラダラとか嫌でしょ」 「……オレ汗かくとさらに良い男になるらしいから、大丈夫っス」 「今キツいって言ったじゃん」 少しだけ上気した頬、かすかに滴る汗。にっ、と口を広げる黄瀬は悔しいことにかっこいいとしか言いようがなくて、やっぱりモデルだなあ、と溜め息をつく。黄瀬がこんなにも恵まれた容姿をしていなければ、私はもっと平穏な毎日を手にできていたはずだ。たった数日で何度も耳にした「ストーカー」という囁きが頭に浮かんだ。 「……乗せる?」 「何をっスか?」 「上着とカバン」 「乗せる!」 信号変わっちゃうから早く、と黄瀬を急かす。慣れた手つきでブレザーを脱いだ黄瀬は、カバンとともにそれを私の自転車のかごに突っ込んだ。ああ、きっとこういうのが良くないんだろうな。 △▽ 「なんか視線感じる」 「オレなんかいつもっスよ」 「私は黄瀬じゃないんだよ…。あー見られてる、すごい見られてる」 「制服でランニングするモデルと並走する自転車は、そりゃ目立つでしょ」 「だから黄瀬と来るのやだって言ったじゃん!」 「えー、言ってないっスよ、みょうじっち」 さすがに息を切らしている黄瀬の言葉に、私はしばらく押し黙る。確かに言ってない、だって別に嫌じゃないんだから。嫌なのは、どうしても集まってしまうこの視線だ。聞こえてくる囁きだ。群衆が黄瀬涼太と口にするのを幾度となく聞き流しながら大勢の海常生の間を通り抜けた私は、駐輪所に向かう前に一度自転車を止めた。ちょうど校舎の前だ。 「先行きなよ」 「え、なんで?」 「わざわざチャリ置き場経由してくれなくてもいいって」 「最後までついていくっスよー」 そう、と呟いて私は黄瀬から顔を逸らした。駐輪所に向かう間も耳に届き続ける、隣を歩く男の名前。 「黄瀬涼太だよ」「黄瀬だ」「キセリョ」「凄い足長い」「黄瀬ってあいつ?」「モデルの黄瀬涼太」「かっこいい」「黄瀬」「金髪だ」「黄瀬涼太」 黄瀬がここ海常高校に入学してからすでに一週間以上が経っているけれど、未だに好奇の目と囁き声が黄瀬を追い回す。恐らく、今この学校でもっとも頻出している単語は「黄瀬涼太」だろう。そしてそれだけ興味の対象になっているのだから当然、 「隣の女誰?」「彼女?」「ほんとに黄色い腕時計してる」「なんか必ず黄色いもの身に付けてんだって」「ストーカーらしいよ」「みょうじ」「キセリョのストーカー」「みょうじなまえ」 最近は私の名前まで出回っている。私が黄瀬の隣に立つのに相応しくないことくらいわかっている。自分がストーカー同然であるのも自覚済みだ。だが、せいぜい数日前に私を知ったばかりの、せいぜい数日前に立体的な黄瀬涼太を目にしたばかりの他人に、どうこう言われたくはない。 自転車を押し込んでかごの中身を取り出す。ブレザーとカバンを渡すとき、朝練に向かうよう説得しようかと思ったが、この時間ならとっくに朝練は終わっているだろうとやむなく諦めた。鍵を抜き溜め息を吐きつつ自転車に背を向けると、すぐ近くで黄瀬が私を見下ろしていた。逆光で表情があまりわからない上に、正直目を合わせようとすると首が痛い。 「気にしなくていいんスよ、人の言うことなんて」 「別に今更、」 「誰がなんと言おうとみょうじっちはオレの彼女なんスから」 ね、と笑って黄瀬は私の前を歩き校舎に向かおうとした。咄嗟にその服の裾をぎゅっと掴む。中学時代は青かったワイシャツが、今では真っ白だ。振り向いた黄瀬の優しい眼差しを受けながら、私は口を開く。 「私、黄瀬と付き合ってないよね」 「……」 12.08.13 |