18 「咳、大丈夫か?」 「……いや、なんか器官に、唾液が、」 「あんだけ首絞められたらなあ」 ぽんぽんと背中を叩かれたが、だからといって簡単に治まるわけではない。咳のしすぎでまた涙が出てきた。保健室行くか、と心配されたが首を横に振った。この時間ではどうせ閉まっているだろう。動こうとしない私の腕を取って、森山は再び歩き出した。 「やっぱり、オレのせいだよな」 「さっきのことですか?」 「ああ。昨日オレが部室に連れてった子たちだっただろ」 「そうですよ。でも昨日のことがあろうとなかろうといつかはこうなってたと思いますし、別に先輩のせいってわけじゃないです」 「黄瀬との関係で女子に絡まれること、よくあるのか?」 「ここまで激しいのは久々ですけどね」 森山は神妙な顔で頷いた。何を言うのかと思えば、「あんなに可愛い子たちの本性を見てしまってオレは悲しい」だった。もう呆れて言葉が出ない。 「お前のせいで知らなくて良い世界を知ってしまったじゃないか」 「……あのタイミングであそこを歩いたのが運の尽きでしたね!たまたま通りかかったんでしょうけど、私なんか放っておけば良かったのに」 「たまたまじゃない、みょうじを探しに行ったんだ」 「その程度の嘘、私が見抜けないとでも?」 「嘘じゃないって」 私は溜め息をつき、だって山田くんの話は嘘でしょう、と問いつめた。敗北を機に一層厳しくなった練習メニューを終えた後、自主練に残るような体力は山田くんにはまだないのだ。部活終了後すぐに、ふらふらと不安定な足取りで部室に向かう姿も見ている。そう話すと、森山は悪びれもせず頷いた。 「あーうん、山田の話は確かに嘘だ。みょうじを探しに行った、って部分が本当の話」 「……それこそ嘘でしょう、なんで私を?」 「いつもより戻ってくるの遅かったし、昨日の今日だからもしかしてと思って」 「先輩って案外気が利くんですね」 「もしかしたらまたあの可愛い子たちに会えるんじゃと思って」 「……」 そうこう話すうちに体育館に戻ってきていたのだが、なぜか周囲の目が私たちに集まっている。残っているのはレギュラーメンバーと他数人のみで、そのうち半分が私たちを見ているという状況だ。私は首を傾げた。 「なんか、注目されてません…?」 「オレも思ってたところだ。まあ原因はわかってるが」 「……ああ、私もわかりました。というわけで放してもらえませんか」 「いや、ここは黄瀬を嫉妬させよう大作戦で行こう」 「残念ですが、黄瀬は嫉妬とかしませんよ」 「お、こっち来るぞ?」 「森山先パイ!なんでみょうじっちと手ぇ繋いでるんスか!」 荒々しく飛び込んできた黄瀬によって、私の手首と森山の手はぶちりと引き離された。そう、さっきまで私は森山に手を引かれたままだったのだ。注目されていたのもそのせいだろう。なにしろウブな男で構成された集団だ。黄瀬はそのまま私を背後に隠し、森山を睨み付ける。ほらほら妬いてるじゃないか、と言いたげににんまりする森山を私は冷めた目で見返した。「手は繋いでないけどね」と黄瀬の言葉を訂正したのだが、全く届いていない。 「ダメっスよ、みょうじっちと手を繋いで良いのはオレだけなんスから!」 そう言うなり伸びてきた黄瀬の手をぱちんと叩いて振り落とす。「繋いでないっつの!」と声を熱くすると、黄瀬は口を尖らせた。わざとらしい、わざとらしいんだよ黄瀬は。 自分から"大作戦"とやらを仕掛けたくせに腹が立ったらしい森山は、ピクピクと口元を引きつらせている。考えていることはどうせ「このリア充め」だろう。何かを言おうと開かれた森山の口が、その形のまま固まった。黄瀬を見つめる目は戸惑いに揺れている。どうやら森山も、黄瀬の隠している顔に気づいたようだ。ほらね、と虚しさに笑みを漏らす自分がいた。……ほらね、黄瀬は嫉妬なんてしないでしょう。 △▽ わたしずっと、黄瀬くんのこと。白い頬をかすかに染めて、桃色の唇を震わせる少女。足元に落としていた視線を遠慮がちに上げていき、丸いその目で黄瀬を求めた。 「好きだったの」 「……ありがと、嬉しいっス」 「できれば付き合って欲しくて、その、」 「ごめんね」 悲し気に眉を下げた黄瀬は、甘えるように首を傾けて少女の澄んだ目を見つめ返した。すると少女は「あ、」と呟き、慌てて手を振った。先ほどよりもさらに緊張しているらしい彼女は、耳まで真っ赤になっている。 「ううんそんな、あの、わたしの方こそ突然ごめんなさい」 「謝らないで。気持ちは嬉しいんスよ?」 「……ん、」 少女は「話を聞いてくれてありがとう」と小さな声を絞りだし、申し訳なさそうに手を振る黄瀬に背を向けた。足音が遠ざかっていき、沈黙に包まれる廊下に黄瀬はぽつんと取り残される。今しがた一人の少女の想いを知り、望みを知り、それを拒んだ彼は一体どんな表情をしているのか。正解は、晴れ晴れとした笑顔、だ。くるりと振り返った黄瀬は、背後の暗闇に声をかける。どこまでも明るいその声は、無人の廊下によく響いて。 一見無人の廊下、には。 「みょうじっち!お待たせっス!」 本当にこいつは嫌な性格してる、と私はあらためて顔を歪めた。ずっとこの死角で息を潜めていた私も私で、相当腐っているのだけど。 12.11.11 |