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浮かれている場合じゃなかった、とついさっきまで呑気に足取りを弾ませていた自分を悔やむ。亜美の言葉に喜んだ昼休み、午後の授業、部活と何の異変もなく過ごすことができ、拍子抜けして気が緩んでしまった。部活が終わってから監督と共に教務室へ入り、次の練習試合についての注意や仕事等を聞き、私の方からも、不足している用具や部員についての気になる点をいくつか話す。今後の部活について話し合ったあとで、ようやく教務室を出た。すでに日は沈んでいるため廊下にはところどころ電気が点いているが、明るいとは言い切れず不気味だった。しかし今日一日を無事乗りきったという安心感が私の気分を高揚させる。その矢先だったのだ、よりによって人通りの少ない踊り場で、数人の女子に行く手を塞がれたのは。

彼女らが昨日の出来事を目撃したグループであることはすぐにわかった。しかも、何人か増えている。あ、やばい、と慌てて引き返すも、階段の上からも下からも迫られているこの状況では逃げ場なんてあるわけがなかった。あっという間に背中を壁につけることになり、今や半円を描いて私を囲む女子たちにただ震えていた。


「睨んでんじゃねーよ、状況わかってんの?」


ちょっと待ていえちょっと待ってください、私睨んでないよ震えてるよ。目の前の女がヒュッと手を伸ばし、それは私の顔のすぐそばに叩きつけられて大きな音を立てた。ああこれ壁ドンってやつね、漫画みたい、と現実逃避する私。そんなことを考えていれば目ぇ逸らしてんなと怒鳴られた。目を合わせれば睨むなと言われ、逸らせば逸らしたで怒られる。どうしたものかと唇を噛んでいると、今度は暴力的なそいつではなく、隣にいた別の女が口を開いた。


「なんでこういうことになってるか、わかってるよね?」
「……昨日の、」
「そう」


口角を上げて話す彼女は比較的温厚に見えるが、目がまったく笑っておらず恐怖の対象にしかならない。しかし、しばらく恐怖に堪えるうちに彼女が赤司、隣の暴力女が青峰に重なってしまい吹き出しそうになった。ここで笑ったりしたときにはどんな目に遭うか想像できないわけではないので、必死にこらえる。どうやら私はこの鬼気迫る現状を軽く考えてしまっているようだ。まあ慣れてるし、と心中で自嘲する。


「前に話したとき、みょうじさんなんて言ったっけ」
「なんて、とは」
「みょうじさんは涼太くんの彼女なの?って聞いたよね、私たち」
「聞かれました」


視線を下げたついでに靴をちらりと見ると、私と同じ色合いだった。つまり彼女たちは同学年である。敬語を使う必要はないな、と思ったが、タメ口をきいてさらに酷いことになるのも嫌だった。


「私が黄瀬の彼女に見えますか」
「見えない。全然見えないよ」
「じゃあもうそれで良いですよね?実際彼女じゃないわけですし」
「みょうじさんは涼太くんが好きなの?」


直球で飛び込んできたその問いに、咄嗟に言葉が出なかった。どういう意図で聞いているのか探ろうとするも、剥き出しの敵意以外の感情が読み取れない。


「なんでそんなこと、」
「昨日近づいただけで赤くなってたからさ。どうなのかなって」
「黄瀬は綺麗な顔をしてますから」
「中学時代から一緒にいればそろそろ慣れてもいいんじゃないの?未だに赤くなるってことは、」
「人の顔近づくと緊張しませんか?それだけで――」


言い終わる前に暴力女が私の肩を掴み、激しく揺さぶった。反動で壁に頭を打ち付けた私は自然に涙目になる。その手を振り払おうとすれば今度は胸ぐらを掴まれ、ぐっと顔を近づけられた。


「どう、緊張する?緊張する?」
「放、して、」
「気に入らないんだよあんたのそういうところ。涼太に何の興味もないみたいな顔してるくせにべったりで、好きじゃないとか彼女じゃないとか言いながらもずっと一緒にいるじゃん。ムカつくんだよ」
「……私は」
「涼太のこと好きな人がどれだけいると思ってんの?その子たちみんなあんたが邪魔なんだよ。自分が嫌われてるのわかってんでしょ?嫌われてまでなんで涼太の側にいるわけ?好きなんでしょ涼太のこと!」
「認めたら、」
「あ?」
「私が黄瀬のこと好きだって認めたとして、何か変わるの?」
「やっぱり好きなんじゃん、」
「そうじゃない。ただ私が黄瀬にどういう感情を向けていたとしても、黄瀬のあなたたちに対する目は変わらないし、正直私の存在なんて全然関係ない――」
「だから、そういうところが嫌いって言ってんの!」


一層激しく怒鳴られて、私は思わず目を細めた。ぐらぐらと胸元を揺さぶられてまた後頭部が壁と衝突する。その女が長身なせいで爪先立ちを強いられており、それでも首が閉まって苦しいくらいだ。視界がぼやけてきた。思いっきり咳をして唾でも吐きかけてやりたいという衝動にかられる。幻聴なのか、遠くで足音がした気がした。


「あたしたちは涼太のこと凄く凄く好きなのに全然見てもらえないの!毎日話しかけて差し入れ持っていっても全然心開いてくれないの!あんたはどうなの?涼太にあんなに良くしてもらってさ、幸せじゃん!羨ましいんだよ!それなのにあんたの態度は何?いつも涼太のこと邪険に扱って、好きじゃないみたいな顔して突っぱねて。あんた自分が何やってるか、なんで嫌われてるかほんとにわかって、る……?」


どうやら幻聴ではなかったらしく、徐々に足音が近づいていた。女の怒鳴り声が消えた途端さらに鮮明になったその音に、ようやく彼女も意識を向けたようだった。ハッと顔を強張らせて辺りを窺う。下の階から上がってきたその人は、私の姿を見て奇妙な笑みを浮かべた。


「こんなところにいたのか。いつまでも油売ってないで、早く戻ってくれ。山田が足捻ったらしくて見て欲しいんだ。ああ、申し訳ないけど、この子連れて行っても構わないかな?大事な話だった?ていうか君たち昨日の子たちだよね、最近よく会うけどこれは運命かな?できれば今度ゆっくり話でもしないか、いや、絶対するべきだよ」


わけのわからないことを一気に捲し立てる森山に、女たちは警戒の目を向けて一歩引いた。私の胸ぐらを掴んでいた女の手も緩む。弧にできたわずかな隙間に、森山はすっと手を差し込んだ。よろける私を支え、集団から引き離す。


「とりあえず今日はお別れだな、ぜひまた今度」
「は、待てよ」
「悪いけど後輩が足を捻ってしまってさ、マネージャーがいないと困るんだ」


手を引かれたまま、ほとんど走るようなスピードで校舎を移動する。背後からいかにも不満げな舌打ちが聞こえた。体育館の近くまで来たときようやく森山は足を止め、気遣うように私を見た。


「……泣くなって、」


ゲホゲホと咳き込んでいる最中だった私は、この液体は感情的な涙ではなく生理的な涙だということを言いそびれてしまった。ここで泣いたら私の負けだ。絶対に泣くもんか、と歯を食いしばった。


12.10.27