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次の日の登校時、普段とは比べ物にならないほど無口な私に黄瀬は時折心配そうな目を向けてきた。「大丈夫スか?」の声に私は、過ぎてしまったことは仕方ない、ときれいさっぱり諦めているように振る舞ったものの、内心は昨日の出来事への泣き言を漏らしたくてしょうがなかった。早朝のため、バスケ部以外の人に会うことはない。靴も正常、部室のロッカーも正常。ひとつひとつの扉を開くたびに心臓が跳ね、安堵に溜め息をつく。そんな私に気づいたのか、森山は再度謝罪をしてきた。「昨日は動転して先輩を責めてしまったんですけど、よくよく考えればあんなの大したことじゃなかったです。もう謝らないでください」と落ち着いて返す。当然、口から出任せだ。大したこと、だった、私にとっては。

そもそも、うちの部には部室に部外者を入れてはならないというルールがある。これは前々から決められていたものらしいが、黄瀬が入ったことによって一層強まった。本来なら会うことさえ難しい芸能人が身近にいるという幸運を活かして黄瀬の持ち物を盗もうとするファンは中学にもいたし、逆にストーカーまがいの品を下駄場やロッカーにつっこんでいくような人もいる。盗撮のためにカメラを仕掛けられる可能性だって、ないとは言い切れない。何より、部室に黄瀬のファンが大量に押しかけて部員が入れないというアクシデントが起こったため、個人ロッカーの管理の徹底と、部室に部外者を呼びこまないという決まりができたのだ。

しかし昨日、黄瀬に差し入れを渡そうと体育館に来ていた女子たちを、森山は快く部室に案内したそうだ。これを聞いたときの私の表情はとても人に見せられるものではなかっただろう。"快く"ってなんだ、どういうことだ。この女好きめ!と怒鳴りそうになる口を抑えるのに必死だった。

部室に入ったところで黄瀬には会えないよ、あいつはいつも来るのが遅いから。そう言って一応釘を刺した森山の頭から、その時点できれいさっぱり黄瀬のことが消えた。部室に女子を連れ込むことに成功する未来を見た森山は喜びに胸を踊らせ、またとないチャンスとばかりに彼女らを口説くことにした。とりあえず入って、と紳士的にドアを開く。

……という経緯で、あの悲劇が起きてしまった。私と黄瀬がいちゃいちゃしている、ように見えた森山は心から「リア充爆発しろ」と思ったそうだ。リア充爆発しろ、リア充爆発しろ、と後輩を呪いつつ嫌味を言うことにした。それがあの発言である。ここまで聞いた私の表情は、とても人に見せられるものではないどころか自分でも想像できなかった。呆れと絶望と怒りと恐怖が入り交じったら人はどんな顔になるのかな、と他人事のように考えていると、目の前で森山に手を振られた。おーい聞いてるか?聞いてますとも聞いてますとも。

とりあえず黄瀬と自分の関係はそういうものではないと否定すると、案の定「嘘だろ」と笑われた。黄瀬が悪ノリして「オレも初耳っスよ、オレとの仲をなかったことにするんスか!?」なんて言ってきたことにプッツンと何かが切れる音を聞いて、なんだか何もかもどうでも良くなって、黄瀬とも森山ともそれ以上口をきかなかった。

悲劇、と名付けて嘆いているのは私だけなのだ。あの女子の目に私がどれほどの恐怖を感じたか、彼らにはわからないのだろう。ただでさえ噂に追われて神経を尖らせているのに、これ以上非難を浴びることがどれほど私を苦しめるかわからないのだろう。わかって欲しいとも思わなかった。そんな下らないことで弱味なんて見せたくないし、何より、黄瀬は私なんかでは比べる対象にならないほどの目に追われて生きているのだ。



△▽



乱雑に詰め込んできた弁当を広げて箸を持って、ふと隣を見たときようやく違和感の正体に気づいた。亜美が、いる。亜美は私の方に身体を向け、コンビニのメロンパンを可愛い口で頬張っていた。


「今日、彼氏とお昼食べる日でしょ。ここにいていいの?」
「うん、ちゃんと話してあるしー」


週に一度、亜美は"すばるくん"とお昼を食べに教室を出る。昨日、「明日が楽しみ!」と機嫌良く鼻歌を歌っていたはずなのに、どうして教室にいるのだろう。喧嘩でもしたのか、と首を傾げたが、はたと気づいて廊下に目を向ける。昨日の女子、ではないもののいつかわざわざ話をしに来た女子たちが、廊下の壁にすがってこっちを睨み付けていた。


「いいのに、彼氏のとこ行っても」
「そしたらなまえちゃん、即呼び出しだよ?」
「私別に悪いことしてないし、本当のことだけ言ってくるよ」
「泣きそうな顔して言われてもねー?」


してない、と返した私の声は自分でも驚くほど弱々しくて、亜美は困ったようにまたメロンパンを口にした。私も弁当に手をつけることにする。亜美がここにいてくれるというのなら、今は素直に甘えておこう。


「黄瀬くんに押し倒されたってほんと?」
「……押し倒されたわけじゃないけど。なんで知ってるの?」
「朝、なまえちゃんと黄瀬くんの関係聞きにきた子が言ってた。すばるくんのクラスの人たちだったよ。きっとあたしがよくすばるくんに会いに行くから、あたしのこと知ってたんだよ。あたしこんなだからさあ、聞かれたこと何でもほいほい答えそうに見えるんじゃないのかな?そこまで能天気なばか女じゃないんだけどぉ」


何の変わりもない半日を過ごせたため油断していたが、早くも噂は出回っていたようだ。これだけの情報ではどういう趣旨で囁かれているのか読み取れないが、そんなことを考えている余裕はなかった。その女たちが亜美を通したことが、亜美を巻き込んだことが許せない。


「なまえちゃんが伝えて欲しいように伝えるよ、何も言わないで欲しいならそれでいいし」
「それじゃあ亜美が困るでしょ、嫌がらせされるよ。付き合ってないし、押し倒されてもない。バランス崩したとき助けてもらっただけ、って言っといてくれればいいから。むしろどの人たちか教えてくれれば自分で行くよ」
「んーん、いいの。聞かれたのあたしだし」
「でも、」
「あのねえあたしね、嫌がらせとか別に気にしないよ?あたしなまえちゃん好きだから、今、すばるくんの次に大事だから」


亜美は笑ってはいなかった。その真剣な表情に私は言葉に詰まってしまって、目をうろうろと泳がせた。亜美の世界は彼氏を中心に回っていると言っても過言ではない。亜美は彼氏を溺愛しているし溺愛されているし、きっと彼が消えてしまえば同じように亜美も消えるのだろうと容易に想像できた。そのくらい深く、高校生のませた恋愛では語れないほど深く愛している彼氏の次に、私を置くというのだろうか。次は次でも、彼氏と私の間には天と地ほどの差があるに違いない。それでも、それでも亜美は私を好きだと、大事だと言ってくれる。愛想笑いはしても嘘はつかない亜美がそう思ってくれる価値を、私は理解しているつもりだ。


「あたし相手にあんまり遠慮しなくていーよ、って話。あたしすばるくんとなまえちゃんがいればもうこの学校で他はなーんにもいらないもん」
「ありがと、嬉しい。でもそんなこと言わないで。亜美にはもっと相応しい友達が、」
「知ってるんだよ?この前のクラス会で、なまえちゃんがあたしのこと庇ってくれたの。なまえちゃんって馬鹿だよね、なんで嫌われるようなこと進んでするのかな」
「……それは、亜美が好きだから、」
「じゃあ、一緒だね」


ようやく緩んだ亜美の口元に、私は胸を撫で下ろしていた。なんだろう、このほっとするのに泣き出したい気持ちは。凄く凄く幸せで、嬉しくて、それでいて苦しい。


「あのさあなまえちゃん」
「何?」
「正直押し倒されるのってさ、きゅんきゅんするよね」


……押し倒されてません。そう声を絞り出すと悪戯っぽく目を細めた亜美はやっぱり亜美で、そんな亜美が私は大好きなのだろうと思う。


12.10.25