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海常が、黄瀬が、負けた。黄瀬が、泣いた。真っ白なタオルを用意して選手を迎える。私の差し出したタオルでぐいっと顔をぬぐった黄瀬は、「負けたっス」と絞り出すように呟いた。ざわりざわりと伝わる囁きが、黄瀬を嘲笑っている。なんで泣いてんのあいつ、練習試合程度で、涼太くんカッコ悪い、なにあれ、やだあガッカリ、まさか負けるなんて。

黄瀬の拳が固められるのがわかった。目は闘志に燃えている。きっと黄瀬の耳には、何の意味も持たない下劣な声など届いていない。真っ直ぐに誠凛を見つめるその目は潤んでいたけれど、強い決意に満ちているように見えた。そんな黄瀬は私の目に、とても眩しく映ったのだ。

黄瀬が、戻ってきた。



△▽



今にも校門を出ようとしていた黒子に駆け寄り、その名を呼んだ。


「黒子!」
「……みょうじさん」
「頭大丈夫?」
「なんだか非常に失礼なことを聞かれている気分ですが、ご心配なく。大丈夫です」
「一応医者に見せた方がいいよね、この近くにおすすめの病院あるから教えるね。監督さーん!」


今日はいい試合をありがとうございました、と頭を下げてから、最寄りの病院への道を説明する。


「じゃあ黒子、今日は本当にありがとう」
「こちらこそ。うちが海常と試合ができたのはきっと、君のおかげでしょう?」
「こっちとしてもメリットがあったからね。多分黄瀬、戻ってきた」
「それは良かったです。ですが、次も勝つのはうちですよ」
「それはないね、残念だけど。次勝つのは海常」
「誠凛です」
「海常」
「誠り」
「お取り込み中のとこ悪いけど、そろそろ行くわよ私たち」


爽やか兼恐ろしい笑顔のリコに促され、黒子は誠凛の皆さんと歩き始めた。5番さんが「後輩の傷を気遣う……キタコレ!」と言って周りから無言の攻撃を受けているのが見えて、漫才のようなその空気に笑ってしまった。誠凛はエースや黒子をはじめとする個人技の他にチームワークも成り立っているし、なにより仲が良い。楽しそうなチームだな、と誠凛を訪ねたときから思っていた。火神って言うんだっけ、誠凛のエースは。黒子の、新しい光。彼らに関して、そして今日の試合に関しての考えに耽ろうとしたその瞬間、背後から何かが軋む音とゼェハアという荒い呼吸が聞こえて思わず振り向いた。自転車の後ろに荷台がくっついた、何やら素敵な乗り物を必死に漕ぐ少年の姿がそこにはあった。


「スンマセン、バスケ部の活動してる体育館ってどこっすか」
「えっと、そこを入って左です」
「サンキュ」
「あの、もしかして緑間のチームメイトだったりしますか」


ぐいーっとハンドルを傾けて曲がろうとする彼に声をかける。えっと驚いた顔をした彼は、ひょっとして帝光の元マネージャーさん?と尋ねてきた。頷いた途端にパッと目を輝かせてウッワーと呟いた彼に、引きつった笑みを返す。ウッワーってなんだウッワーって。


「いやまさか校門で出会えるとは!見学許可出してくれたの君だよね?サンキュ!」
「もう試合終わっちゃいましたけどね」
「ちくしょ、やっぱり終わっちまったか……。東京からここ、案外遠かったわー。真ちゃんは試合見てた?」
「真ちゃ、ん……?」
「おー緑間のことよ。真ちゃんっていうと、あの超唯我独尊野郎も可愛く思えてこねえ?」
「真ちゃんって…!めっちゃ可愛いですね!」
「だろォ?」
「あ、緑間なら試合ちゃんと見てましたよ」


蛙の置物を手に黄瀬ファンの女の子に混じって試合を眺める長身の男の姿は、心にグッと来るものがあった。そんな余裕はなかったので断念したが、写真を撮ってさつきにでも送ってあげたいくらいの面白さだった。


「そっか、ちゃんと着いたのな。あ、オレ高尾和成です」
「海常バスケ部マネージャーのみょうじなまえです」
「みょうじサンは、なんでオレが緑間のチームメイトだってわかったわけ?」
「制服が緑間と同じ学ランだったので。それに昨日、緑間にここまでの移動手段を聞いたら、時間はかかるだろうがそれなりに快適な乗り物に乗って行くのだよ、っていうよくわからない答えが返ってきたんです。これのことだったんですね」
「おうよ。みょうじちゃん乗る?」
「いえ、もうそこなんで」
「マジか、ってうわ見つけた。緑間あー!」


怒声と共にスピードを速めた高尾のあとに続く。体育館脇に立っていた緑間と話す隣の人物は案の定、少し目の赤い黄瀬だった。



△▽



少し二人で話がしたいのだよ、という緑間の提案にのって体育館脇に残った。「なに、真ちゃん告白?ヒューヒュー」とはやし立てる高尾は校門に、「ちょ、緑間っち!みょうじっちに何かしたら許さないっスよ!」と威嚇しまくりの黄瀬は練習に戻ってもらった。


「下僕と来るなんて言うからどんな奴が来るのかと思えば、普通のイケメンじゃん」
「高尾程度でイケメンと呼ぶのか?だからお前はダメなのだよ」
「何が」
「見る目がない、と言っているのだ」
「……はっきりどうぞ?」
「そんなだから黄瀬などにたぶらかされるのだよ」


本当に緑間は素直じゃないなあ、と私はにやにやしてしまった。「何がおかしいのだよ」そう言って緑間はムッとしているが、おかしいものはおかしい。可愛いねえ真ちゃん?とからかってみれば、気味の悪いものでも見るような目をされた。


「あのね、思ってもないこと言わないでってこと。だからツンデレと呼ばれるのだよ」
「オレは思っているからこそ忠告するのだよ、それが人事を尽くすということだろう」
「私は別に、黄瀬の顔が好きなわけじゃないよ」
「……今でも、黄瀬が好きなのか?」
「当たり前じゃん、今日あらためて思ったよ。試合中の黄瀬、かっこよかったでしょ?」
「負け試合だったがな」


あくまで冷たい緑間にはもう慣れているし、優しい言葉を期待するのは無駄だ。言葉の裏や表情の変化を読み取って隠された優しさを探す方が、どれだけ容易いことか。いつまでも本題を切り出そうとしない緑間を珍しく思いながら、結局何が言いたいの?と問いかけた。


「……心配、しているのだよ」
「私を?ありがとう」
「お前の側にいるのが黄瀬では、心配にもなる」
「人事を尽くした結果だから、大丈夫。ねえ、緑間もそう思うでしょ?私は人事を尽くしたって」
「そうだな、そうかもしれない、だが、」
「緑間が心配してるのは、本当は私じゃないでしょ。緑間が本当に心配してるのは、黄瀬。ストーカー女につけ回されて逃げられなくなってる黄瀬の方」
「ストーカー女、とはお前のことか?違うだろう、お前が海常に来たのは」
「私が黄瀬と一緒にいたかったから。私が追いかけたんだよ」


緑間は忌々しそうに目を細めた。愚かな私に腹を立てているに違いない。それなのにどこか苦しんでいるようなその表情をなんとかしたくて、私は「緑間ってば、心配性にもほどがあるよ」と笑った。緑間は本当に素直じゃなくて、そのくせとても正直だ。いっそ黒子のような鉄仮面だったら良かったのにな、と思ってしまう。


「お前は今、幸せか?」
「それ、黒子にも聞かれた。高校生にする質問じゃないよね」
「笑うな。年齢など関係ない、お前がお前だから聞いているのだよ」
「幸せだよ、もちろん」
「……それなら、いい」


用は済んだとばかりに緑間は背を向けたが、私の方はまだ終わっていない。もうひとつだけ、言わなければならない。ねえ、と声を絞り出す。


「私が黄瀬を好きなこと、黄瀬には絶対に言わないでね」


とびきり呆れた、その上引いた目をした緑間は、レンズの奥から私を見下ろしていた。見下して、いた。だからお前はダメなのだよ、とでも言いたげなその目を見つめ返しているうちに、潤んできた私の目。お願いだから何か言って。約束するって言って。「お前はどうしようもない馬鹿だな」なんて、そんなのもう知ってるから。


12.10.21