あの夏から五年が経った。


「おはよう、なまえ」
「おはようクザン。父さんは?」
「とっくに出発したよ。お前、見送るって言ってなかったか?」
「んー、やっぱり四時起きは辛かった」


私が笑みを浮かべると、クザンはまァそうだよなと頷いた。ちゃっかりダイニングテーブルにつき、期待の目で私を見つめてくる。


「……朝ごはん食べて来なかったの?」
「今日は泊まり込みで残業よ。で、本社からまっすぐここに」
「ふうん。泊まり込みで残業なんて許されるの?ブラック企業?」
「おれだから許されてんの。なあなまえちゃん、おれの朝飯も作ってちょーだい」
「いいよ。でも大したもの作る気はないけど」
「オッケーオッケー」


クザンはだるそうにそう言い、腕を組んで目を閉じた。サングラスのないクザンの顔は、うちの中でしか見られない。逆に言えばうちの中ではいつも外しているわけで、その顔は今や見慣れたものだった。最近ではむしろ、サングラスをした姿の方を見ていない。

クザンをはじめとする父の秘書三人は、もう私のボディガードをしていない。…と私が聞かされているだけなので実のところがどうなのかはわからないが、私はその話を信じていた。家の外で彼らと接触することはほぼなくなり、こうして家にやってきた彼らに会うだけの関係だ。五年前より関わりはずっと薄いのに、心はずっと近く感じていた。


「なまえー」
「何?」
「メール入った」
「あ、そう?今行くー」


ちょうど目玉焼きが出来上がったところだったので、皿を二つ持ってキッチンを出た。目の前にそれを置かれたクザンの目が、「本当に大したことないな」と語る。だからはじめに言ったじゃん。

味噌汁やご飯も並べ、準備を整えてから、私はようやく携帯を開いた。短い一文だけが書かれたメールに、お、と小さく声を上げる。


「父さんからだ」
「なんて?」
「クッキー美味しかったって。昨日作ったやつあげたんだ」
「へえ、いつの間に渡したの」
「玄関の棚に置いておいた」
「なるほどね。おれには?」
「ないよ」
「嘘つけ」


嘘つけってなんだとぼやきながら立ち上がり、カウンターに置いていたタッパーを取ってきた。開くと甘い香りが広がり、クザンがわざとらしく鼻の穴を膨らませる。うまそうじゃねェの、と言ってクッキーの一つをつまんだ。


「いつもより材料が多いし、作り方も複雑なんだ。見映えもいいでしょ?」
「んー。味もいいな」
「ほんと?良かった」
「売りに出せそう」
「おだててもクッキー増えないよ」
「そりゃそうだ。また作ってくれ」
「気が向いたらね」


私は箸を手に取り、冷めないうちにと味噌汁に口をつけた。少し味噌が濃かったかもしれない。クザンはもぐもぐと目玉焼きを食べ、無表情で「うめェ」と言った。あまりにも表情がないので、本当にそう思ってるの、と疑ってしまう。顔をしかめる私に構わず、クザンは意味深なため息をついた。


「すっかり料理上手じゃねェの」
「そう?」
「昔はやろうともしなかったのにな」


そうだね、と相槌を打って目玉焼きに箸を差し込んだ。ちょうどよく切り分け、口に運ぶ。クザンの視線を感じたが、気づかないふりをした。

クザンはしばらくして私から目を離し、お椀を手にしながら問いかけた。


「やけに早起きだが、今日会社休みじゃねェの?」
「うん」
「どっか行くのか」


私は軽く笑った。これでクザンには、私がどこに行こうとしているかがわかったはずだ。しかし咎めてはこなかった。そのことがまた私を追い込むという事実に、クザンは気づいているのだろうか。


幻想

現実

狭間で



森を抜けると、懐かしい家はまだそこにあった。そのことに胸を撫で下ろし、柔らかい砂を足の裏に感じながら歩く。扉の前で止まって深呼吸し、人差し指でチャイムを鳴らした。ーー鳴らそうとした。しかし案の定、家の中からは何の音も聞こえて来ず、また誰も出て来なかった。

私はしばらくそこに立ち尽くしていた。ぼんやりと辺りを見回す。あちこちに砂が積もり、窓やドアは今や土壁のようだった。生活感のないその家に、誰も住んでいないことはわかっている。それでも、もう少し待ってみたかった。できることならいつまででも待っていたかった。

日が傾き、肌寒さと足の疲れを感じ始めて私はとうとう諦めた。持ってきたクッキーの包みが入った紙袋を、ドアノブにかける。届くわけがないのは承知の上だ。このクッキーはここで夜を過ごし朝を迎え、夏の熱気に晒されて腐る。どこにも行かない。どこにも行けない。


「…………どこに行っちゃったんですか」


呟いた。波の音に邪魔をされ、その声は私の耳にさえ届かずに消えた。



△▽



帰りのバスの中で、もう一度携帯を開いて父からのメールに目を通した。美味しかったよ。当たり障りない褒め言葉だ。画面に表示された文字を見つめながら、私は胸が温まるのを感じていた。

この春から私は、みょうじ製菓と全く縁のない企業に就職した。第一希望の企業には勤められなかったものの、ここでも十分にやりたいことができた。胸を張れる仕事だったし、父や秘書の三人に小言を言われることもなかった。

父が家にいないのは相変わらずだったが、今となっては気にならない。顔を合わせるだけがコミュニケーションじゃないし、顔を合わせなくても父からの愛情は伝わった。この五年、父と秘書たちは毎年誕生日にプレゼントをくれた。三年目のその日には偶然全員の時間が空いていたので、この家に集まって、私が焼いたケーキをみんなで食べた。本人が作ってどうすんのとクザンに言われはしたが、私はそれで構わなかった。みんなが私のために席についてくれるだけで、私はとても嬉しかったのだ。



帰宅すると、家には誰もいなかった。真っ直ぐに風呂に向かい、ぱちんと電気をつける。服を脱ぐと、一緒に砂が落ちる音がした。足を踏み出すたびに、わずかなそれが張り付いてくる。ざらざらした感触に煩わしさと懐かしさを覚えながら、浴室に入って蛇口を捻った。

懐かしい。懐かしく、感じる。
大丈夫。
まだ、彼らは私の中にいる。

安堵の吐息を漏らし、シャワーを頭からかぶった。一人きりの静かな浴室に、激しい水音だけが響いている。私はそれを一旦止め、シャンプーに手を伸ばした。あの人に買ってもらったそれとは全く違う香りが、私の鼻をくすぐる。

彼らは私の中にいる。
逆に言えば、私の外にはいない。

目に痛みを感じて素早く閉じた。シャンプーの泡が染みて、ちくちくと刺激してくる。ぼんやりと曇った脳が、泣けばいい、と冷たく吐き捨てた。涙で押し流してしまえばいいでしょ。

しかし目に異物が入ったとなれば当然生理的な涙が出てくるわけで、私が泣こうと頑張るまでもなくそれは勝手に目を浸した。髪から泡を洗い流し、目を開いて鏡を見る。真っ赤な目をした自分が、暗い表情で見つめ返してきた。



△▽



一年目の夏に、私はあの家を訪れた。しかし、そこはもうもぬけの殻で、とっくの昔に彼らがここから出て行ったのだと簡単に見て取れた。森を抜けたところにある駐車場、ベポと散歩をした砂浜、キャスさんと買い物をしたスーパー。全て回ったが、彼らの気配どころか痕跡さえなかった。まるで始めからいなかったかのように、彼らの存在は消えていた。

二年目の夏も、三年目の夏も、四年目の夏も。私はあそこに足を運んだ。彼らに出会うことはなかった。

追い討ちをかけたのが、父やクザンの態度だ。みんな、あの夏などなかったかのように振舞っていた。私がどこへ出かけるか知っているはずなのに、止めもせず、問い詰めもせず、また、あの夏に関わることを一切口にしようとしなかった。私が家出したことさえも、この家ではなかったことになっている。

クザンに聞けば、もしかしたら彼らの居場所がわかるのではないかと何度も考えた。しかし、そのたった一歩を踏み出すのが怖かったのだ。行かせるわけにはいかないとつっぱねられるならまだいい。私が恐れたのは、クザンが嘘を事実として突き通そうとすることだ。

あまりにも徹底した父と秘書たちの態度が、私には恐ろしかった。「何言ってんだ?それ、誰のこと?」なんて誤魔化されたら、私はどうすればいいの。そこまでするみんなの意を汲み取って、忘れてしまったふりをすればいいの。それとも、あの夏に私がやってしまったことを掘り返して、みんなの顔を歪ませればいいの。

考えても考えても答えは出なかった。ーーいや、私は答えを出そうとしなかった。折角築いた関係が、たった一言で崩れてしまうのが怖かったのだ。



△▽



一週間後、私は再びあの家を訪れた。近づくにつれくっきりと目に映った紙袋は、誤魔化しようがない。私は憂鬱な心を引きずりながら砂浜を進んだ。彼らが定期的にここを訪れているんじゃないか、このクッキーを持って行ってくれるんじゃないかと淡い希望を抱いていたのに。そんなことはありえない、と冷静な判断ができる自分は五年のうちに消えてしまった。もう五年だ。五年が経ったのだ。五年経っても、いや、五年経ったからこそ、彼らは私に幻さえ見せてくれない。どこにも、いない。

私の記憶にしか存在しない彼らは、存在していたと言えるのだろうか。私の作り出した幻と言ってしまえばそれまでじゃないか。彼らはあの夏、本当にここにいた?

馬鹿げた考えを振り払おうと、深く息を吸った。肺が空気で満たされて、少し痛い。それを吐き出しているうちに玄関に着いて、腐ってるだろうな、捨てなくちゃなと唇を歪ませながら紙袋に手を伸ばした。



え、と声が漏れた。ドアノブから外した紙袋があまりにも軽かったのだ。まるで何も入っていないかのようなその軽さに、心臓が跳ねる。大急ぎで中を覗き込んだ。

クッキーがなくなっている。しかし、紙袋は空ではなかった。白い紙が一枚、無造作に放り込まれていた。私はそれを取り、ぺらりとひっくり返す。裏側に書かれていた数字の羅列を見て、震える手で携帯を取り出した。

数字の羅列、すなわち電話番号を入力し、スピーカーに耳を当てる。鳴り続けるコール音が重なるたびに焦燥感に駆られて、携帯を握りしめる力を強くした。クッキーを食べたのは誰だろう。彼らとは限らない。私は彼らがどんな字を書くのか知らなかった。それに、彼らなら電話番号の他に一言書き加えてくれるような気がした。彼ら……いや、ペンギンさんか、キャスさんか、ベポなら。あの人なら、そもそも電話番号なんて書かないだろう。

それなら、この先にいるのは一体誰?この家とも彼らとも何の関係もない人が、たまたまこれを見つけて、クッキーを食べて、連絡先を残したの?

そう考えると心が沈んだ。コール音は鳴り止まない。私はじりじりと待った。待てば待つほど、この先に私の望む人がいるなんてありえないと思えてきて、とうとう携帯を耳から離した。


『誰だ?』


電話を切る瞬間に、スピーカーから声が流れ出た。慌てて指を離すも、すでに画面には"通話終了"と表示されていた。焦りながらリダイヤルし、再びコール音に耳を凝らす。今度はたった一回のコールのあと、すぐに相手と繋がった。電話を通して鼓膜を震わせるその声に、心の芯までが震えた。


『勝手にかけてきておいて切ってんじゃねえよ』
「ロー…さん」


頭がくらくらして唐突に視界がうねった。私はドアに手をついて寄りかかる。漏らした息は泣き声のように響いて、電話の先の彼は黙り込んだ。慌てて呼吸を抑え、声までが震えないように気をつける。


「クッキー食べたの、あなたですか」
『作ったのはおまえか』
「そうです」
『道理でまずいと思った』
「まずいのに、食べてくれたんですか」
『ハッ』


トラファルガー・ローは馬鹿にするように笑った。だが、私の言葉を否定することはない。食べたのだ、この人が。私の作ったクッキーを。そしてわざわざ、連絡先を残した。それが何を意味するのか、期待してもいいのだろうか。聞いてみても、いいのだろうか。そしてできることなら、どこにいるんですかと聞きたい。居場所が知りたい。何より、


「会いたい」


……だめだ。まっすぐに声を出すことなんて不可能だった。情けなく震えた声には涙が混じり、そこで私ははじめて自分が泣いていることに気づく。どうして、こんなに簡単に涙が溢れてしまうんだろう。あの夜から五年間、感情的な涙を流したことなんて一度もなかったのに。もうとっくに、枯れてしまったと思っていたのに。それを、こんな、こんなに簡単に、だって声を聞いただけなのに、どうして。


「会いたいです」


繰り返した言葉に、返事はなかった。締めつけるように苦しい胸の奥が、わがままを言うなと自分を咎める。あの人が私から離れたわけを、忘れたわけじゃないでしょう?あの人を困らせてどうするの?

私は必死に嗚咽を抑えた。声をふり搾り、何でもないですと言おうとする。しかし私が口を開く前に、あの人が低い声でそれを囁いた。


「なまえ」


驚きのあまり嗚咽どころか呼吸が止まり、トラファルガー・ローが私の名前を呼ぶ声だけが、私の脳をこだました。他には何も感じられなかった。波の音も、夏の暑さも、何もかもが私と彼を取り残す。

二人だけがそこに存在していた。存在、していたのだ。

今の声はどこから聞こえた?スピーカーから聞こえてきた声だった?うるさく鼓動を刻む心臓が、盛んに何かを訴えている。期待の波が押し寄せて、今にも流されてしまいそうで。なまえ。もう一度彼は私を呼んだ。私はもう携帯をだらりと下ろしているのに、その声ははっきりと私の耳に届いた。



私は振り向いた。目があの人をとらえたその瞬間、視界がいっそう曇ってゆらゆらと歪んだ。近づいてくる彼の表情は見えない。

目元を拭う私の手を、トラファルガー・ローは強く掴んだ。強引に引き寄せられる感覚に懐かしさを覚える。彼が私をその大きな腕に閉じ込めたそのとき、私の手から紙袋と携帯電話が滑り落ちた。私はおそるおそる手を伸ばし、彼の背中に回す。温かかった。温かい。この人はいつも温かい。

私の思いは、あの夏のうちに伝わっていたのだろうか。それを聞きたいのに、今は口を動かせそうになかった。二人の間に会話はなく、私がうまく言葉を紡げないのも、彼が多くを語らないのも前と変わらない。それで良かった。そんな関係が愛しかった。そんな関係を欲していた。ずっと、この人に、会いたかった。

私はそっと目を閉じて、懐かしい温度に身を委ねる。穏やかに混ざり合う互いの熱が、幻想と現実を結びつけた。


14.04.16 完結