68 すっかり暗くなった歩道を歩いていると、すぐ横に黒塗りの自動車が止まった。ウィーと音を立てて窓ガラスが下がり、予想通りの人物が顔を出す。 「よお、久しぶり」 「………」 「乗れよ」 私はしばらくそこに突っ立っていたが、覚悟を決めてドアを開いた。これで終わりだ、私の夏は。さようなら、ペンギンさん、キャスさん、ベポ、………トラファルガー・ロー。 車に乗り込む。シートの柔らかさと弾力が懐かしかった。バックミラーで私を窺いながら、青雉ーークザンが静かに言った。 「おかえり、お嬢さま」 逃亡生活は幕を下ろす 「荷物は?」 「全部置いてきた。買ってもらったものばかりだし」 「残ってても困るんじゃねェの?」 「そうだと思う。でも、持って行ったらばれちゃうから」 「一日早く出ることが?」 「そう」 車内には外の音が全く入ってこず、私とクザンの声だけが浮かんでは消え浮かんでは消えを繰り返した。私は窓の外を見つめながら、クザンの問いに答える。 「俺が来ても驚いてないみたいじゃないの」 「きっと現れるだろうって、思ってた。ずっと見張ってたんでしょ?」 「おや……トラファルガー・ローがそれをお嬢さまに?」 「ううん、自分で思いついたの。あの人たちに話をしたの?私を家に帰すように」 「んー、……したな」 「そう」 私は静かに呟いた。ざわざわと騒ぐ胸の中を、クザンに知られたくなかった。 あまりにも普通なペンギンさんとキャスさんの態度に違和感を抱き始めたのは一昨日のことだ。二人は私を追い出そうとしているようには到底見えなかった。私に対してはっきりと拒絶を示したトラファルガー・ローが、私と二人の交友を裂かなかったのも不可解だった点の一つだ。私はあの人の目を盗んで二人と話をしたつもりだったが、あの人はまるでそういう時間を増やそうとしているかのように、部屋に閉じこもっていた。 私のことがものすごく嫌いで、顔も見たくなくて、部屋に閉じこもっていたということも考えられる。しかし、もしそうなら、どうして"一週間後に出て行け"と言ったのかがわからない。その場で追い出してしまえばいいことなのに、一週間も余計に私を家に置いてくれた。 これらを踏まえて考えた。あの人が逆らえない、大きな力が働いているのではないかと。大きな力、すなわち"私の"家の力だ。そうだったらいいのにという願望も混ざっていた。 今、私の考えが当たっていたとわかって、心底ほっとした。良かった、と小さなため息をつく。もちろん、この一件のからくりを知ったからといってあの家に戻ろうなどとは考えないし、そもそも車に乗ってしまった今となっては家に帰る以外の選択肢がない。だが、私は満足だった。トラファルガー・ローは、私を追い出したかったわけじゃなかったんだ。本当に、本当に……良かった。 「家に父さんいる?」 「いーや。出張で三日後に帰るって」 「そう」 「……あのねェ、お嬢さま」 「何?」 「お嬢さまが帰ってきたら話そうと思ってたことがあるんだが、話してもいいか?」 「どうぞ」 「お嬢さまの父さんと、見合いの話だ」 思わず外から目を離してクザンを見てしまった。バックミラーごしに目が合って、なんだか気まずい。しかしクザンはそうは思わなかったようで、ふふんとよくわからない声を出した。きっとあのサングラスの奥で、目を細めて笑っているんだろう。 △▽ 「お前の父さんとその父さんと母さんが、仲悪いの知ってたか?」 「……父さんと、おじいさまたち?」 「ああ。まあ仲悪いっつーか、お前とお前の父さんみたいな関係だよ。お前の父さんは、生き方も将来も全部親に決められてた。家に縛り付けられてたんだ」 それ、私と同じじゃないと口走りそうになった。バックミラーに目をやったが、今度のクザンは道路を見つめるだけで、視線が重なることはなかった。 「お前がこの先どうなるかは知らねェが、お前の父さんは結婚も強要された。お前と同じく拒否し続けたらしいが、結局逃げ切れずに親の決めた女と結婚した。だがそのことが、あの人の人生を変えたんだ」 「どういうこと?」 「お前の母さんと出会ったことで、あの人は新しい生き方を見つけた。二人で違う家に移り住み、お前を作って、幸せに暮らした。そりゃあ仕事は親から受けついだものだったが、お前とお前の母さんがいたから、あの人は幸せだったんだ。結婚がもたらした幸せだよ」 「……それで?何が言いたいの?」 「お前の父さんは、お前にも幸せになって欲しいと思っていた」 「は?」 「お前は明らかに家が嫌いだったし、さっさと出て行きたがってたから、あの人はお前に自分と同じ逃げ道を与えようとしたんだ」 「ちょっと待って、おかしいんじゃないの?」 車の中じゃなかったら立ち上がるところだ。頭が熱くなり、声が勝手に荒くなった。 「それが結婚?私のために、結婚させようって?何言ってるの、私まだ十八なのに?」 「お前の父さんと母さんもそれくらいの年で結婚したよ」 「だからって、娘にもそれを強要するの?私が望んだわけでもないのに、勝手にそんなこと決めて、しかもそれを私のためだっていうの?何それ、私がいつ出て行きたいなんて行ったの!」 「ずっと前から家出の準備してたじゃないの」 私は言葉に詰まった。気づかれていたのか、と罪悪感のようなものが沸く。いや、こんな感情必要ない。悪いと思う必要なんてない。だって、あの家から私が出て行きたいと思うのは当然じゃない。誰も愛してくれなくて、生き方も将来も強制されて、そう、それこそ父さんと全く同じ。私はあんな家、さっさと飛び出したかった。 でも今、私、なんて言った?「私がいつ出て行きたいなんて言ったの」ーー?私ははっとした。言ったことがない。家出の準備を繰り返し、何度も何度も家出の素振りを見せ、それでも二年間家に留まりつづけ、言う機会がなかったとはいえ一度も「出て行きたい」と口にしなかった。 「私がどうして出て行きたいと思ったのか、そこを考えたことはある?」 「家が嫌いだからだろう?」 「……どうして家が嫌いなのか、考えたことは?」 うーんと考え込むクザンの姿に、力が抜けていった。がっかりしているのか、呆れているのか、自分でもよくわからない。ふいにペンギンさんの言葉が頭に浮かんだ。 『心を開いて欲しい相手には、お前から心を開け』 私はこの人に、心を開いて欲しいと思っている……? 「私はただ、あなたたちと、父さんに」 声が掠れた。ずっと抱え込んできたこの気持ち。口にしたことなどなかった。 「愛されたかっただけなんだよ」 クザンの表情は、変わらなかった。サングラスで目が見えないのもあるし、口も全く動かないせいで、何を考えているかはわからなかった。何も答えてくれないのが悲しかった。ほら、だめじゃない。心を開いたって、相手が開き返してくれるとは限らないじゃない。膝の上で拳を握りしめ、唇を噛んだとき、クザンはようやく口を開いた。 「俺ァ…お嬢さまのボディガードだからさあ」 ……だからなんなのか、クザンは結局言い切らなかった。私もそれ以上何も言えず、車内は沈黙に包まれた。 一時間も経てば車は家に帰り着き、私はついにこの大嫌いなーーいや、大嫌いと決めつけて逃げ出した地を踏んだ。隣を歩くクザンの歩幅が小さい。私に合わせて歩いているんだ。気を遣ってくれている?……いや、私が逃げないように、見張っているんだろう。 頭の中で、呆れ顔のペンギンさんがため息をついた。またひとつ、思い出す。『感じとった好意を否定するな』と、ペンギンさんは言っていた。感じとった好意?それが、これなの?これは気遣い?私はこれを…否定しなくていいの? 思い返せば、些細な優しさをたくさんたくさん与えられてきた気がする。しかし私は毎回、「どうせ」とそれを否定してきた。どうせこれは好意じゃない、と。期待してもどうせ無駄だ、と。もし、それらを否定せず、一つ一つ拾って感謝していれば……私の毎日も、違うものになっていただろうか。 『諦めるな』 ありがとうペンギンさん、と心の中で呟いた。ペンギンさんが諦めるなと言ってくれたから、私は最後にわがままを通すことに決めたんだ。トラファルガー・ローに気持ちを伝えることを、"諦めない"と決めた。こんな手段で伝わったのか、わからないけれど。ただ、私が周りの女たちとは違うって、あの人の思い通りになる女じゃなかったって、少しでも、少しでも特別な存在としてあの人の心に残っていれば……嬉しい。 諦めない。たった一度、返ってこなかったくらいで、諦めちゃいけない。 「ねえ、"クザン"」 「……ん?」 「私のこと、心配してた?」 背の高いクザンを見上げると、その頭上に星々が輝いているのが見えた。この大都会で、こんなにくっきり星が見えるなんて。まるで、…まるであの家にいるみたいだ。 ぽん、とクザンの手が私の頭に乗った。軽く押されて、私は下を向く。 「当然じゃないの」 力強い声がじわりじわりと私の胸に染み、固いしこりを融かしていった。今のクザンの行為と言葉は、ペンギンさんやキャスさんがくれたものと同じだ。二人と同じように頭を撫で、そしてキャスさんと同じように、"当然"だと言った。私を好いてくれていた二人と、私を嫌ってると思っていたこの人が、全く同じことをしている。 "当然"って、なんだろう。 クザンが家の扉を押し開いた。仁王立ちしたサカズキと、ひらひらと手を振るボルサリーノがそこで待っていた。私はおずおずと口を開き、そしてーー 「勝手に出て行ってごめんなさい」 深く深く、頭を下げた。 △▽ 急ブレーキをかけて車を止め、門の奥にいるなまえを見つめた。車庫を出て、玄関に向かって歩く二人に、会話はないようだった。 ここでなまえと接触すれば、俺の契約破りはあいつらの知るところとなる。だが、あいつに伝えるには、今しかない。車を降りて駆け出した俺の足は、たった三歩で動きを止めた。 なまえが、男を見上げて何かを話していた。男の手が動き、なまえの頭に乗る。 そのまま二人は連れ立って、家へと入って行った。俺は門の外で立ち尽くしているだけだった。麻痺したような脳内の一部が、これでいい、と搾り出す。俺は完璧に奴らとの契約を果たしたし、なまえは無事に家に帰り着いた。はじめの予定通りだ。これでいい。 これで、いい。 俺は車に戻り、アクセルを踏み込んだ。あいつを助手席に乗せた日のことを思い出していた。こういうときに限って、青信号ばかりが俺を迎える。順調になまえから離れていく俺に、後ろを振り返る暇なんてなかった。ようやく赤信号が俺の車を止める。俺を、止める。力任せに助手席のシートを殴りつけた。自嘲の声が漏れた。 誰もいない車内はひんやりと涼しくて、秋の訪れを感じた。夏が、終わる。いや、おそらくもうとっくに、俺の夏は終わっていたんだ。 14.04.13 |