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おやすみなさい、と普段通りの挨拶をする。おやすみ、と返してくれるキャスさんの笑顔は相変わらず不自然だ。ベポはもう夢の中、ペンギンさんは風呂に入っている。私は大きく息を吸った。"言葉が欲しいのはみんな同じ"ベポの声が頭に浮かぶ。私は何も言わなかったのに、ベポは私の心を読んでいた。その上で道を示してくれた。

私は言葉を欲したくせに、言葉を発そうとはしてこなかった。ここを出たくないと、ここにいさせて欲しいと声を振り絞ったあの夜から、気持ちを圧し殺していた。どうせ何を言っても無駄だ、もう出ていくしかないと諦めてしまったくせに、トラファルガー・ローの意志が変わることや、誰かが庇ってくれることを望んでいた。状況が勝手に動き出すことを願って、自分は動こうとしなかったのだ。

一度しか入ったことのない部屋を、私は今、再び訪れようとしている。扉の奥には全く生気がなく、まるですでに拒絶されているかのような錯覚に陥った。緊張で冷えた手をそっと持ち上げる。関節に伝わる二回ほどの軽い痛みとともに、無人の廊下にノック音が響いた。



△▽



見下ろしているのに見下ろされている感覚。柔らかそうな椅子に座って真っ直ぐ私に向き合うトラファルガー・ローを前に、立ったままの私はこっそりと奥歯を噛みしめた。部屋に入れてもらえた、つまり話をすることを許されたと、そう受け取ってもいいのだろうか。相変わらず何の感情も見せないトラファルガー・ローの目は冷たく、彼からは口を開く気がないように思えた。当たり前だ、訪ねたのは私なんだから。


「ここにいさせてください」


何の言葉も返ってこなかった。私はトラファルガー・ローだけを見つめて、再び口を開く。喉に何かが詰まっているかのように、声が出しづらかった。


「数日前に言った通りです、何でもします。働いてお金も払うし、家事もするし、今ペンギンさんやキャスさんがしていることを全てやります。どんなこともします。私にはここしかないんです、だから、ここにいさせてください。お願いします」


目を逸らさないことを重視して、頭は下げなかった。冷ややかな目をじっと見つめて、良いと言ってとひたすら念じる。「良いと言って」はしばらくすると何か言って、に変わった。あまりにも長い沈黙に、緊張したままの足が痺れてきた。何分、経っただろう。乾いた唇を再び開こうとしたとき、ようやくトラファルガー・ローのそれが動いた。


「何でもするだと?」
「……はい」
「何でも、どんなことでも?」
「はい」
「男しかいないこの家でそれを口にする意味をわかって言ってんのか?」


視界が回った。

服の胸元、いや、首元と呼ぶべき位置を思いきり引かれてベッドに沈み込んだ。瞬間的に首を絞められたような苦しさに、手を口に当てて咳き込む。しかしその手は椅子から立ち上がったトラファルガー・ローによって捻り上げられ、冷たいベッドに縫いつけられた。勢いよく回された足が私を跨ぎ、その膝は腹の間近に突き刺さって同じように沈み込んだ。それを目ではっきりと確認する隙もなく、空いた右手が私の顎を捕らえた。荒々しく上を向かされ、首の骨が悲鳴を上げた。


「……わかって」
「ねえだろ?お前はいつもそうだな、進む度胸もないくせにぎりぎりまで足を踏み入れるのが好きなのか?知らない男とラブホに行くようなスリルを味わってみたいって?いつだって俺に助けてもらえると、俺が止めてやるとでも思ってんのか?」
「そんな」
「つもりはないって?じゃあどういうつもりだ、"何でも"が家事なんかに留まるとでも?生憎そんなことはあいつらの手で十分なんだよ」
「あなたが、」
「こんな要求をしてくるとは思わなかったと?残念だったな、俺は元々こういう人間だ。はじめて会った夜のことを忘れたのか」
「覚えてます」


それだけ言うのが精一杯だった。唐突すぎる出来事に、何が起こったのか理解できないほど混乱していた。ああ、また私は言葉を飲んでしまっている。忘れるわけがないと言わなければ。あの夜のこの人の手の感触を、私はまだ覚えているのだ。必死に口を開いたものの、ぐいと近づいたトラファルガー・ローの顔に驚いて、私はまた声を止めた。


「言ったよな、男と女がすることなんて一つだと」
「……はじめてって、そっち、」
「ああ、公園で会ったときのことだ。都合よく忘れたか?」
「いいえ」
「それならわかるだろう、俺の考え方が。そういう考えを持つ男の部屋に一人のこのこやって来て、一体何がしたい?何を期待していた?お前はここを出て、家に帰る。この結論はすでに伝えたはずだ。お前ごときの言葉で俺が考えを変えると、お前の話を聞き入れると、本気で思っていたのか?しかも内容が内容だ、何を考えてんだよお前は」


それは純粋な疑問のように聞こえた。トラファルガー・ローの見開かれた目は私から決して離れようとしない。わけがわからないという口調で発せられる彼の言葉には、嘲りや、悲痛さや、わずかに失望の響きが含まれていた。嘲りはわかる。だが、他は一体何?

混乱した頭で言葉を紡ごうとした。しかし今にも触れそうな唇を動かすと同時に、顎を捕らえていた彼の手が私の腰に伸びた。ぞくりと身体を伝わる感覚に身を震わせる。


「こうなると想像できないほど、馬鹿じゃないだろ?」
「……私、」
「むしろこれを狙って来たのか?身体で関係を繋ごうと?」
「私、あなたが好きなので」


時が止まったように思えた。目の前のトラファルガー・ローは、私の言葉に凍りついた。沈黙が耳に痛い。じわじわと熱を帯びていく頬を自覚しながら、私は彼の目を見上げ続きを口にする。ようやく、ようやく声にできた。これだけは絶対に伝えようと思っていた。これを言わなければ始まらない。進めない。そして今、私は戻れなくなった。この先どうなるかなんて予想もつかないけれど、とにかく私は伝えたのだ。確かに、進んだ。“進む度胸”を持ってここに来た。


「もしローさんがそういうことをしたいなら、いいです」
「……は?」
「だから、」
「俺が好きだって?」
「はい」


瞬き一つしなかったトラファルガー・ローは、しばらくして唐突に目を細めた。苦し気に歪められた顔が、私に何かを訴えている。だがそれが何なのか考える間もなく、トラファルガー・ローの口元は別の形に歪められた。ハッ、と吐き出す息が冷たい。手首と腰にあった手が離れ、胴体を起こした彼は静かに私を見下ろした。目が、口が、声が、すべてが私を嘲っている。その顔に滲むのは悲痛な色と、明らかな嘲りと、ああ、


「お前にはがっかりだ」


失望だ。


13.02.08