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ふと目を向けた先に大事な人がいて、ふと目が合ったときに笑みを交わせたなら、どんなに幸せだろう。人さえいない冷たい家で、微笑みを探して生きてきた。探して探して探して、見つからなかったから飛び出した。

そうしてようやく見つけた幸せだった。これ以上ないと思える幸せだった。もっと噛みしめて日々を過ごすべきだった、なんて、今更後悔したところでどうにもならないことはわかっている。


「ベポ、散歩に行かない?」



△▽



海に沿って二人で歩いた。ただ私がベポのつなぎの袖を掴んでいるだけだったはずなのに、気づけば手を握りあっていた。ふわふわというか、ごわごわというか、全く違う表現の間をさ迷う何とも言えない感触。温かいことだけは間違いない。トラファルガー・ローの家が見えなくなって、それに気づかないふりをして進み続けて、そうして随分時間が経ったときにベポは立ち止まった。あと数歩で戻れなくなるような、そんな気がする絶妙なライン。


「帰ろう、なまえ」
「……どこに」
「お家に。ねえ、一緒に帰ろうよ」


泣き出しそうなベポの目を見て引き返すのも、これで二回目だ。トラファルガー・ローの家を出るよう言い渡されたのが一昨日、制限時間への恐怖に堪えきれずに逃げようとし、ベポを巻き込んだのが昨日。今日もこうしてついてきてもらってしまった。一人で出かけたとして、果たして"家"に帰りつけるのか私には自信がなかったのだ。海に沿って歩くのだから、帰りだって海に沿って歩けば良い。それはわかっている。問題は"家"まで辿り着いた私が、その扉を開けるかだ。

"家"から遠ざかろうとしているのは自分なのに、ベポが引き返す時をじりじりと待っていた。要するに私は、"家"の中では聞くことができない言葉を求めてベポを散歩に連れ出しているのだ。「帰ろう」という、その一言のために"家"を出て"家"から離れ――

ああ、そうか。

同じだ。何も変わっていない。紛れもない事実に頭が痛くなる。思い出したのだ、みょうじの家を出るときに何を思ったかを。私は止めて欲しいと思ったのだ。止められること、必要とされることを望んで、望まぬ一歩を踏み出したのだ。愛がまだ残っているという証明を、切望していたのだ。

あのときの私と、今の私。またもや同じ道を歩んでいる。今日は止めてくれるベポがいるが、それもあと五日の話だ。五日が経って、その次の日もベポと散歩に出たとして。ベポはもう「帰ろう」とは言ってくれないだろう。海が途切れることはないが、どこかしらで私たちの散歩道は終わる。そこでさよならだ。キャスさんやペンギンさんとは、もっと早くにさようなら。


「どうしたの、なまえ。どこか痛いの」


足の力が抜け、柔らかな砂に膝をついた。ベポが慌てて隣にしゃがみこみ、私の顔を覗き込んでぎょっとした。私は砂だらけの手で目元を拭う。こんな顔をしては駄目だ、ベポを困らせるだけだ。ベポはトラファルガー・ローと私に挟まれて困惑している。私と離れたくない、そう思ってくれているのは伝わる。そうでなければこんなに無駄な私の欲求に付き合ってくれたり、手を繋いでくれたりしないだろう。ベポは私がみょうじに帰ることに、納得していない。だが、トラファルガー・ローこそベポの全てだった。彼の命令は絶対だ。ベポは逆らうことを許されないのではなく、彼に逆らいたくないのだ。ベポはトラファルガー・ローが好きだ。それで良かった。私のために二人が対立するなんてことは、起きなくていい。


「なまえ、砂が目に」
「ねえベポ、ベポはさ、」


"私が家に帰ると寂しい?"

聞きたい。どうしようもなく切羽詰まった思いだった。言葉にして欲しい、言葉で真実を伝えて欲しい。優しい行動、愛の込もって見える笑顔。そんなものはもう、信じられない。ベポのそれでさえもわからない。


「なに?なまえ、なんて言おうとしたの?」


言葉を求めるのは、立場を決めろと迫るのと同じだ。ベポがどちらに立つか、そんなのはわかりきっているけど、優しいこの子はそれを口にすることに苦しむだろう。私の知っている、私の信じてきたベポはきっとそうだ。ベポを苦しめたくない。勝手な思い込みだとしても、苦しめる可能性があるようなことをするわけにはいかない。

何も答えない私を、ベポはぎゅうと抱きしめた。よしよし、とあやすように背中を叩き、頭を撫でる。堪えていた嗚咽が漏れた。自分の悪い面、嫌な面ばかりが見える。目を逸らしてきた現実に気づかされる。私はこの夏何をしていた?何を得た?何のために家を出た…?


「あのね、なまえ」


馬鹿馬鹿しいほどに声をあげて泣く私に、ベポは静かな口調で言った。溢れる涙を拭ってくれるが、頬が乾くことはない。


「言葉が欲しいのは、みんな同じかもしれないよ」


13.01.22
14.03.14 修正