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ただいま、と元気に飛び込むベポの後を追って玄関の扉をくぐった。「おかえり」微笑みとともに迎えてくれるペンギンさんに、私も笑顔を返そうとする。だが、リビングに入った瞬間に感じた、じわりじわりと侵食するような寒気に表情は未完成のまま固まった。なんだろう、この感じ。空気?気配?…匂い?吐き気がするような、それでいて涙が出るような、胸が締めつけられるこの感じはなんだろう。どこか懐かしい。記憶の引き出しを探ろうとしたところで、凍りついて私を凝視する三人に気づいた。ペンギンさん、キャスさん、それに、トラファルガー・ローだ。

奇妙な感覚への疑問は一瞬にして弾け飛んだ。即座に今度こそ笑みを作って、ただいま帰りました、と口を動かす。ぎこちなくはなかっただろうかと不安に思ったが、トラファルガー・ローを除く二人はすぐにいつも通りの表情に戻ってくれた。ほっと胸を撫で下ろしつつ、思う。笑ってなくちゃ、笑っていてもらえない。彼らの笑みを奪いたくない。



△▽



薄々、感じてはいた。買い物から帰ってから、どうにもこの家の空気がおかしいと。私の態度が原因なのではと案じたりもした。だが、私はその空気に気づいていないふりをしたのだ。あの日から、この家に漂い続ける緊張感。重すぎて溺れてしまいそうになるほどの、心配や同情や、自責の感情。殺気。そんなものに取り巻かれて、私自身もそれらを発して、感覚が麻痺してしまったのだろうと誤魔化した。違和感をちゃんと受け止めていたなら、何らかの行動を起こしていたなら、状況は変わっていたのだろうか。どういう意味ですか、と声を絞り出す口はからからだった。


「要するに、今週中に家に帰れ、って言ってんだよ」
「家なんてありません」


家はここです、と言う勇気はさすがになかった。私はあくまで居候の身。今となってはここ以外を家だとは思えないけど、それでもそんなことを言えはしない。トラファルガー・ローの冷たい目が私を射抜く。


「みょうじに帰れ」
「あんなところは、私の家じゃない!」
「お前はみょうじなまえだ」


どうして。どうしてこんなにも唐突に。今日の朝まで頑なに私を避けていたその目がようやく私を認めたというのに、よりによってこんなにも冷たい。感情の読めないそれを見ているだけで唇が歪んだ。いつものように上手く感情を装えない。いや、いつもだって上手くはないけれど、それにしても今の私は酷い。じんじんと熱を持つ目に涙が溜まっていくのが自分でもわかった。それくらい動転していた。


「嫌です。そんな名字、いらない。私はここにいたい」
「で?」
「……で、って、」
「いつまでのうのうと居座る気だ?」


私は言葉を失って凍りついた。同じテーブルについている全員の目が、痛い。空の食器を意味もなく見つめ続けるキャスさん、形容し難い色を含む目を私に向けるペンギンさん、泣きそうに顔を歪ませて口の開閉を繰り返すベポは、この状況をどう捉えているの。何を考えているの。身じろぎ一つせずに私を追い詰めるトラファルガー・ローは、本当に私を、ここから?


「嫌だ」
「答えになってねえ」
「出て行きたくない」
「もう一度聞いてやろうか?いつまで――」
「なんで突然、こんな話になるんですか。だって昨日まで、普通に、」
「ああ、"普通"だったな。つまりお前はそれに甘えて、図々しくいつまでも居座る気だったわけだ」
「そういうわけじゃ…!」
「じゃあなんだ」


答えられるわけがなかった。だって、"そういうわけ"だったのだ。ここでの幸せが終わる時なんて来ないと思っていた。いつからトラファルガー・ローは私を家に帰すことを考えていたのだろう。いつから私が邪魔だと思い始めたのだろう。きっかけは、原因は、何?水を含んだ声で必死に問う。頬に伝う液体が気持ち悪い。


「私、邪魔ですか」
「当たり前だ。金は減る一方だからな」
「最初からずっと、邪魔だったんですか」
「ああ」
「じゃあなんで、連れてきたの」
「気紛れ以外に何がある。ずっと後悔してい」
「やめて!」


強く叫び、汗の滲む手のひらで顔を覆った。もう嫌だ。見たくない、聞きたくない。最初からずっと邪魔だった?気紛れで連れてきた?…やめてやめてやめてやめて!漏れる嗚咽は醜いとわかっていても止められない。全てを否定された。意味もなく買い与えられたシャンプーだって、選んでもらった洋服だって、開いてくれた誕生日会だって、抱きしめてくれたあの腕だって、私を"想って"のものだと思ってたのに。信じてたのに。少なからず心を開いてくれているんだと、私を気に入ってくれているんだと、そう感じていたのは私の勝手な思い込みだったってこと?気紛れで連れてきて、すぐに後悔したっていうの?ずっと後悔してたって?ずっと、私のこと邪魔だって、


「   」


がさがさの唇を開いてみても、何の言葉も出なかった。その現実に唖然とする。悲鳴のような息が漏れた。ああ、そう、そういうこと。気づいてしまった。

私は尋ねようとしたのだ。あのときの、あの言葉は嘘だったのかと。あの優しい言葉には何の意味もなかったのかと。だが、それを尋ねることは叶わなかった。だって、私は、この人に、"言葉"をもらったことがない。「あのとき」「あの言葉」そんなものはない。ねえ私、今更気づいたよ。

いつだって、この人がくれるものは行動だった。行動がこの人の全てで、私はそれが愛情であることを望んだ。家族に愛されなかった私は、どうやら愛を欲するあまり、ありとあらゆるものを"愛"と錯覚していたようだ。


どうしたらいいのかわからなかった。部屋に響くのは私の呼吸音のみだ。身動きひとつしない彼らの目が集まる先で、私はたった一人だった。初めに動くべきなのは私だろう。私が動かなければ、この家の時は止まったままだ。でも、どうすればいいの?何をすればいいの?顔を上げればいいの?どこを見ればいいの?席を立てばいいの?部屋に戻ればいいの?どう過ごせばいいの?この家を出ていけばいいの?どこに行けばいいの?

彼らの目が集まる先で、たった、一人。それどころじゃない。私は、この広い世界で一人ぼっちなのに。だから逃げてきたのに。


「お願いします」
「……あ?」
「ここに置いてください、お願いします。ここしかないんです」




キャスさんとベポは何度も口を開き、声を発すことなく閉じた。ペンギンさんでさえ目を揺らした。しかし冷たい手で温かく私を撫でたはずの彼は最後まで表情を変えず、ぴくりとも動かず、ただ私の願いを拒絶するだけだった。


13.01.12