59 「ちょっと……待てよ、意味わかんね」 「みょうじ製菓は当然、なまえの居場所を突き止めたその瞬間からこの家を見張っていた。正確にはこの家で生活するなまえを、だ。あの日ローと共に家を出たなまえを尾行する社員がいて、そいつが上に報告したそうだ」 「違う、そんなことはわかってる。俺が理解できないのは、どうしてなまえが拐われたのを知りながらそいつらが何もしなかったのかだよ!ずっと尾けていて行き先もわかったなら、助けるのが普通だろ?むしろ船長から離れたその隙に連れ帰ってしまえば、」 「それじゃあ意味がないんだよ」 あの目付け役もシャチと同じことを考えていただろう。ずっとこの家に閉じ籠ってローに守られていたなまえが、ようやく彼の手を離れたのだ。これをチャンスと言わずになんと言うだろう。だが、安易に飛びつくほど彼らは浅はかではなかった。 助け出して連れ帰ったところで、なまえが感謝するとは限らない。それどころか再びみょうじの家を抜け出し、ここへ戻ろうとする可能性だってある。それでは何も解決しないのだ。なまえが生きられる場所が、みょうじ以外にあってはならないのだ。 「わかるか?あいつらにとって最も重要だったのは、なまえを取り返すこと以上になまえの居場所を無くすことだったんだよ。俺たちがなまえを受け入れる限り、何度あいつを奪い返したって何の意味もない」 「……それで、なんだよ。なまえの居場所を無くすって、俺たちがそんなことするわけがない」 「そうだ。だから、あの拉致を利用した。あいつらはローに交渉を持ちかけたんだよ」 "二週間以内になまえを追い出すことを条件に、行方を教える" あの日彼らはなまえを追う一方で、ローに連絡を取っていた。家出した娘をわざわざ助けるつもりはない、と続ける無機質な声に、ローは選択肢などないことを悟った。自分以外に彼女を救おうとするものはおらず、その自分は彼らの手を借りなければなまえを助けることはできない。ローは、条件をのんだ。 指示されるままに車を走らせ、辿り着いたビルからなまえを助け出す。家に戻りようやく落ち着いたそのとき、再び電話は鳴った。当然、相手はあの目付け役だった。なまえを守りきれなかった後悔で酷く憔悴していたローに、そいつは淡々と用件を語る。なまえをみょうじに返す、正確な期限。それ以降一切関わらないという契約。報告書の作成のために一度この家を見に来ること。なまえと熊は外に出して他の三人は家に残れ、と細かく指示してきたそうだ。最後にそいつは念を押した。家から"追い出す"約束だ―― 事情を話してみょうじに帰ってもらったり、今後も連絡を取り合ったり。そんな甘いことは許されないのだ。俺たちはあくまでなまえを拒絶しなければならない。なまえの拠り所になってはならない。なまえにはみょうじ以外に居場所などないと、そう彼女の心に刻み込まなければならないのだ。 「なんで、そんな契約したんだよ!なんでそれを守るんだよ!利益にならない約束なんか、いつも破ってきただろ!?何人も何人も裏切ってきただろ!?なんでこんな意味わかんない約束を、なんで」 「落ち着け」 もう俺の声は届いていないらしかった。シャチは真っ直ぐにローだけを睨み付け、掴みかかりそうな勢いで詰め寄っている。ローもまた目を逸らさず、シャチの叫びを受け止めていた。 「お前のいう通りだ、シャチ。俺は人を裏切り傷付けることで生きてきた。そんな人間のもとで、なまえがいつまでも暮らせるとでも?」 「そうですよ、少なくともあんな奴らのいる家に帰るより、ここにいた方が絶対なまえは幸せだ!」 「もう一度言ってやる。なまえがいつまでもここで暮らせると、お前は本当にそう思っていたのか?」 「ッ俺は、」 「ここはおとぎの国じゃない」 シャチは悔しげに顔を歪めた。そんなことわかってる、それでも、とその瞳が語っている。シャチだって永遠を信じていたわけではないだろう。なまえはまだ高校生で、未来なんて無数にあるわけで。家に戻れば結婚させられるとか、そういう話ではないのだ。なまえはあと半年高校に通い、大学へと進む。その過程で多くのことを学び成長し、広い世界を知るのだろう。俺たちがなまえをここに留めたとして、それは決して救いではない。この閉鎖された狭い空間で彼女が永遠に生きることなど、できるわけがないのだ。 「でも、船長はそれでいいんすか。二度と会えなくても、」 「何か問題が?」 「あるに決まってんだろ!自分を誤魔化すのはやめろよ、苦しいくせに!」 「……お前は、俺がどういう人間か忘れているらしいな」 びくりと引きつったシャチに対し、ローは自虐的に笑った。別に立場云々の話じゃねえよと目を細める。その時点で俺はローの言わんとしていることがわかってしまった。ああ、本当に、こいつは。 「犯罪者、だ」 「……船長」 「犯罪者のもとにあいつをいつまでも置いておけと?」 「船長は、」 「お前も好きなように出ていっていい。いつか火の粉がかかるかも知れな」 「あんたはなんでそんなに自分を卑下するんだよ!いつも腹立つほど高飛車なくせに、なんでこういうときだけ!」 「事実だからだ」 「違う!」 完全に頭に血が上っているシャチを止めるべきか、俺は冷静に考えていた。もしローの癇に触ってしまえば手が付けられなくなるだろうし、そこになまえが帰ってきたら事態は最悪だ。そうなる前に状況を治めることは俺の務めのように思われた。だが、俺は口を挟まない。シャチの言葉に聞き入っていたからだ。それは幼くて身勝手で、そしてどこまでも真っ直ぐで。理性が邪魔して、俺がローにかけてやれなかった言葉。ずっとかけたかった言葉と同じだった。 「あんたがした悪いことってなんだよ、あんたが何をしたんだよ!免許持たずに手術したことか?金がなかったせいであんたの親父に見捨てられた患者を拾って治してやることのどこが悪いんだよ、あんたは何を悔いてるんだよ!」 「俺が治療したのはそういう連中だけじゃねえ、」 「でも助けた!そりゃあんたはヤクザだって治したよ、免許持たないその手で治したよ、でも全部人助けじゃねえか!命を救うのが、医者として一番大事だろ?なんで胸張らないんだよ、なんで、」 「シャチ」 「……あんたの生き方に憧れてついてきた俺が馬鹿みたいじゃん」 弱々しく震えた声はそのまま消えた。免許を持たない者による手術は犯罪で、そのことはシャチも理解している。俺も、ローも理解している。それでも助けたい命だったからこれまで何人も治してきたし、シャチはそんなローに憧れた。それでも犯罪は犯罪で、それでも、それでも、それでも。俺たちは核心を誤魔化して生きてきた。 夢を見すぎていたのだ。このままの生活がいつまでも続くと。いつまでもこの小さな世界で暮らしていけると。生ぬるい心地よさに浸って、現実から目を逸らしていたのだ。 「潮時だろう、何もかも」 12.12.06 |