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なまえ、行くよ!張りつめた空間を和らげるベポの明るい声。なまえは目を細めてベポの手を取った。


「忘れ物ない?」
「もちろん!」


玄関に向かう二人の後ろを俺は咄嗟に追いかけた。靴を履いて振り返った二人は俺の言葉を待っていたが、その俺と言えばただ立ち尽くして口をパクパクさせるだけだった。追いかけたは良いけど、なんて言えばいいんだ?つーか俺何しに来たんだ?


「…キャスさん?」
「い、ってらっしゃい」
「うん、行ってくるよ!」
「行ってきます」


先を促すように俺を呼ぶなまえにも、ありきたりな見送りの言葉しか返せなかった。元気に返事をするベポの横で、なまえも笑いながら俺に手を振った。心配しなくても大丈夫です、そう言いたいのだと伝わる笑顔。

スキップして家を出るベポとそのあとにゆっくりと続くなまえ。二人とも笑顔に違いなかった。だが俺は、あの日から六日が経った今でさえも、なまえの笑みを信じることができないのだ。当たり前じゃないか、たった六日だ。六日でなまえの傷が癒えるわけがない。


「大丈夫なんすか、船長。あの二人を買い物に行かせて」
「何か問題でも?」
「問題大有りじゃないっすか!なまえにまだ外は、」
「いつまでも閉じこもっていられるわけじゃないだろ」
「そうっすけど」


俺を一瞥さえすることなく医学書を読み続ける船長は、いつもとなんら変わりない。ペンも昼食分の食器を丁寧に洗っている真っ最中で、なまえたちを気にしている様子はない。俺は言葉を絞り出そうとしばらく奮闘した末に、諦めてソファへと乱暴に沈み込んだ。

自然すぎて不自然だ、と感じてしまったのは俺の考えすぎなのか?なまえと遊びに行きたいなあ、と無邪気に呟いたベポに、それなら買い物行ってきてくれ、とペンがメモと金を持たせた。私も?と首をかしげるなまえの背をベポが押して、あっという間に今に至る。こんなにあっさりとなまえを外に出すなんて。ペンもペンだし、船長も船長だ。


「……なんか、なまえがいたらまずいことでもあるんすか」
「ねえよ?」


そう返しつつ、船長はにやりと口元を歪めた。なんだよ、どういう意味だ?また医学書に目を戻してしまう船長を凝視してみたが、その表情からは何も読み取れない。俺は溜め息をついてリモコンを手にとった。

時間が昼ということもあって、特に面白い番組なんてやっていない。あの二人がいると見られないヤツでも見るか、といそいそ準備を始めたのだが、すぐに船長に止められた。


「ちょ、なんで!」
「嘘っぱちでもなんか真面目なことやっとけ」
「はあ?」
「とりあえずそういうの見るな」


嘘っぱちってなんだ。真面目なことやっとけってどういうことだ。さらにつっこんで問おうとした俺は、ようやくこの家に漂う奇妙な空気に気づいた。あの日からどうもみんなピリピリしているせいで意識していなかったが、今俺たちを取り巻いているそれはこれまでとは全く違う緊張感だ。


「ペン」
「……なんだ」
「これからなんかあんの?」
「客が来る」
「え」


誤魔化されるかと思っていた俺は、あっさり返ってきた答えに拍子抜けした。なんだ、客が来るだけか。……って、


「客!?」
「客だ。ああ、仕事の客じゃないぞ」
「は、まじで!?」


驚き慌てる俺に対して、ペンと船長は落ち着きはらっていた。このテンションの差がもどかしい。大体、この家にハートのメンツと患者以外でやって来たのはなまえが初めてだ。なまえが来てから船長はここに患者を呼ぶことは絶対にないし、そもそも患者たちはこの家の場所を知らない。患者をここで手術する場合、いつもペンと俺、もしくはバンが迎えに行ってわざわざ目隠しして連れてきていた。敵としてこの家を知った奴等は、この前なまえを襲ったグループも含め、とてもここに乗り込もうという意欲がわかない状況に追い込んでいる。だから、自分からここに来れる人間なんていないはずなんだ。


「誰かが連れてくんの?」
「いや、自力で来るそうだ」
「……無理だろ?」


誰が来るんだよ、と問い質す俺をペンは尽く無視した。それなら、と船長に矛先を向け直すものの、当然ながらこちらにも無視される。自分だけ事情を知らないことが悔しくて、躍起になって詰め寄ったそのときだった。聞き慣れないチャイムの音が、俺の鼓膜を震わせたのは。


「……なまえとベポが、戻ってきた?」
「馬鹿野郎、早すぎるだろ」
「じゃあその客っすか?一体どうやってここに、」
「もう来ちまってるんだ、覚悟決めろ。ドア開けて出迎えてこい」


有無を言わせぬ口調だった。船長自身もすぐに立ち上がり、読んでいた医学書を棚へと戻す。ペンはちょうど最後の皿を洗い終え、冷静に水を止めエプロンを外した。何なんだよ、誰なんだよ。本当に案内なしで辿り着いたのか?船長は来訪を許可したのか?覚悟って何の?わからない、俺は何も知らない。

どくどくと波打つ胸を落ち着かせようと深く息を吸い、玄関へと駆けた。履き捨ててあった自分のビーサンに足を通し、ドアノブに手をかける。そのまま慎重に、覗き穴に目を近づけた。

そこにいたのは薄い色のサングラスをかけた、中年の男だった。黄色のストライプスーツが輝かしい。扉が開くのを待っているようで、おかしいなあ、とでも言うように首を傾げる様子はそいつが温厚な人物ではないかと予想させた。

だが、それと同時に俺は察してしまった。気づいてしまったのだ。

どうしようと悩み始める自分を、どうしようもないとわかっている自分が嘲笑っていた。もうどうしようもねえだろ、ここまで来てるっつーの。いやでも待て、俺がここで扉を開いてしまったら、逆に開かなかったら、どうなる。熱いんだか冷たいんだかわからないほど混乱している頭で考えた。そうして結局、俺がすがったのは船長からの命令だった。そうだ、俺は迎えてこいと言われた。迎える以外に、俺が出来る行動はない、よな?

鍵の開く音が、やけに恐ろしく感じた。大丈夫だ、と震える自分に言い聞かせる。大丈夫、俺の勘なんて、当たったことないだろ。

海の香りとともに足を踏み入れた黄色い男は、しわくちゃの顔をさらにしわくちゃにして笑った。どうもはじめまして、と語る口元は温かい。

温かい?


「うちのお嬢さんが世話になってるようで」


思わず後ずさりした俺へと迫る男は一人ではなかった。開け放された扉はなかなか閉まらず、さらに二人の男が玄関に立った。息を飲むほどの迫力、独特の空気。笑っているのは黄色の男だけだった。今すぐ追い出せ、と悲鳴を上げる脳の片隅で、以前なまえが一度だけこぼした話を思い出した。奴らが身につけているそれは、黄と、赤と、青。それはどうしようもなく、目の前に並んだ配色だった。

大丈夫だ、俺の勘は当たらない。落ち着こうして繰り返し自分に言い聞かせるその事実以上に、なまえがこの家からいなくなってしまうのではという言い知れぬ不安はどんどん膨らんでいった。大丈夫だ、なまえがいなくなるなんて、そんな未来があるはずがない。だってなまえは、ここであんなにも幸せそうに。

それなら、と、悪魔のような声が囁く。こいつらは一体何をしに来たんだ?とぼけるなよ誤魔化すなよ、ちゃんとわかってるんだろ?


「今日は彼女を迎えに上がったんですよ」


俺が、扉を、開かなければ?


12.09.14