55

途切れた会話。当然のように訪れた沈黙は長くは続かなかった。なまえがもう一度、ありがとうございましたと言って微笑む。大したことはしていないと首を振る俺に、大したことですよと同じように首を振って返すなまえはいつもと変わらないように見えた。だが、見えただけだ。


「今日はもう寝ます。おやすみなさい」
「おやすみ」
「おやすみなさい、キャスさん」
「おやすみ!」


シャチが泡のついた手をブンブンと振り回す。壁やら床やら、とにかく辺りに散らばった泡を拭き取ってから、なまえはリビングを出ていった。シャチはごめん、ごめんとひたすら頭を下げ、最後に息を大きく吐き出した。


「ペン、俺やっぱだめだわ」
「何が」
「普通になんかできねえよ」
「……まあいいんじゃないか、お前だし。空回ってるくらいがお前らしいさ」
「失礼な!」


皿洗いを終えたシャチはドスドスと歩いてきて、L字型ソファの一辺に座る俺とは別の辺に腰を下ろした。勝手にリモコンを取ってチャンネルを回し始める。


「俺が見てたんだが?」
「嘘つけ、なーんにも考えずにぼんやりしてたくせに。いや、なまえのこと考えてたって言うべきか?」
「俺は、」
「ペンも相当バレバレだよ、この前のことで苛々してんの」


お笑い番組で指を止めたシャチは、反論しようとする俺に見向きもせずゲラゲラと笑い始めた。だがその笑いも、部屋にローが入ってきたことで止まる。静寂に包まれた部屋に芸人の突っ込みだけが無神経に響いた。


「船長、このタイミングで下りてくるってことはなまえに会いました?」
「ああ」
「ちゃんと、なまえと目を合わせてやったんスよね?」
「ああ」
「……そうやって俺には平気な顔で嘘つけるのに、なまえにはできないんですね。そんなになまえが大事っすか、罪悪感感じちゃうんすか」
「ああ。大事だし、感じるさ」
「………じゃあいいですよ」


あっさりと肯定だけを繰り返すローに複雑な表情をしたシャチは、風呂入ってきますと言って立ち上がった。お前も大事だぞとらしくない言葉をかけるローに、シャチが顔を歪めながら振り向く。おそらくローは、シャチが怪我をしたときとなまえが怪我をしたときで自分の態度が違うことをシャチが気にしているのではと思ったのだろう。俺も実は、シャチはそれについてどう感じているのだろうと気にはなっていた。しかしシャチは俺たちが考えるほどガキではなかったようだ。


「そんな言葉、いらないっすよ。別に俺は、船長がなまえをこれ以上傷つけなければそれでいいんです」


ああ、とまたローは肯定した。頷くばかりのローに、シャチは溜め息をつきながらリビングを出ていく。シャチがあまり強いことを言えないのは相手がローだからというだけではなく、自分も同じようなものだと自覚しているからだろう。


「なあペン」
「なんですか」
「お前も、今の俺の態度はなまえを傷つけていると思うか」
「……思いますよ、当然。でも、船長の苦悩もわからないわけじゃないですし、口を出す気はないですよ」
「苦悩なんていうほどイイもんじゃねえよ」


ローはシャチが座っていた場所に腰掛け足を組んだ。浮かんでいる笑みは、どこか虚しい。


「なあペン」
「なんですか」
「例えばお前に、姪がいるとする」
「……姪?」
「姪はお前に懐いていて、さらに言えばお前に依存しかけている。強がりで寂しがりでよく泣く姪だ。そんな姪と喧嘩をした。普通ならここで仲直りでもするところだろうが、その姪は数日後にお前の元から去ることが決められている。その後どこかで会うなんてことは絶対になく、永遠の別れだ。さて、お前はこの場合どうする?」
「ちょっと待て、意味が…」
「選択肢は二つだろう。意地でも仲直りして自分に依存させ、その挙げ句に家から追い出して二度と会わないか、そのまま嫌われて自分をそいつにとってどうでもいい存在にし、すっきりと縁を切って世に送り出すか。そいつにとってどっちがためになるのかなんて、言わなくてもわかるよな?お前なら、どうする?」
「ロー、それは何の話を」
「ペン」


話がある。そう言ったローは、もう笑ってはいなかった。


12.07.16