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包丁を握りしめて俺を凝視するなまえの姿に、身体が凍りつくのを感じた。怯えを孕みつつ警戒に爛々と光るその目から、俺は視線を外すことができない。


「……おかえりなさい」


ふっと緊張を解いて目を細めるなまえ。俺はややあって「ただいま」と返した。見慣れないなまえの笑みには、未だに戸惑ってしまう。


「帰ってきたの、ローさんだってわかりましたよ」
「よそ見すんな。集中して切れ」
「……はい」


キッチンに立つなまえは、いかにも渋々という感じで手元の野菜に向き直った。トントンと、軽い音と共にそれを刻み始めるなまえはもう顔を上げなかった。俺は堅苦しいスーツを脱ぐために部屋へ向かう。

リビングに戻るべきか、それともここに閉じこもっているべきか。着替えながら、ただそれだけを考えていた。今、この家にいるのは俺となまえだけだ。正直同じ空間にいたところで会話なんてないだろうと思うのだが、だからといって部屋に留まるのはどうなんだ?俺がこれまで欠片も気に止めていなかったその行動を、なまえはどう受け取っていたんだ?

人の心理を読むことは得意なはずだった。表情の変化や、微妙な身体の動きから手に取るようにわかってしまう単純な人間の心を、面白いと、そしてくだらないと考えていたほどだった。しかしあいつの思考は読み取れない。全くわからない。

唐突に聞こえたドアの開閉音、やけに元気なたっだいまーの声。シャチが帰宅したことを知った俺は、自分が安堵していることに気づいた。そうだ。俺は、なまえと二人きりにならないで済むことに、安堵している。仕方ないじゃねえかと心中で呟きながら、俺は椅子に腰を下ろした。ギ、と僅かに軋んだその椅子は、扉の開閉音を連想させた。ドアが開く度に身を強張らせるなまえのことを思うと、またどこかが酷く痛んだ。


△▽


今日で、あの日から四日が経った。あの日というのは当然なまえが怪我をした日のことだが、誰もそんな率直な言葉は口にしなかった。ベポは知りもしないその出来事を、俺やペン、シャチは「あれ」「あのとき」「あれから」と曖昧な代名詞で表した。その度にシャチの目にははっきりとした怒りが宿り、ペンでさえも顔を歪めることを抑えられないらしい。俺の表情については自分ではわからないが、同じようなものだろう。

なまえは、一度も「あの日」起きたことについて触れなかった。何事もなかったかのように、ごく自然な振る舞いをしていた。それが逆に不自然で、痛々しく、俺たちの怒りを逆撫でている。おそらく本人は、それに気づいていないだろう。

あの出来事から、この家に起きた変化。それはなまえが俺を名前で呼び、俺もなまえを名前で呼ぶようになったことだ。本来ならシャチあたりに冷やかされそうなものだが、事情が事情だけに誰も触れてこなかった。ここに住んでいないハートの連中は、しばらくこの家に来ないように言ってある。俺たちはごく自然に、昔からそう呼びあっていたかのように名前でお互いに声をかけるようになっていた。

いや、誰も触れなかったわけじゃない。何も知らないベポだけは、無邪気に「キャプテンとなまえ、仲良くなったんだね」となまえに笑いかけていた。そう見える?と少し首を傾げながら返事をするなまえを、俺は遠くから見ているだけだった。

仲良くなった?

そう、"仲良く"なったはずだ。


△▽


「もう寝るのか」
「はい」


自室を出た俺は丁度階段を上ってきたなまえに出くわした。いかにもこれから寝ますという格好のなまえにかけてやる言葉はこれくらいしかない。遠慮がちな笑みを向けてくるなまえを見ていられたのは、ほんの僅かな時間だけだった。俺は直ぐに目をそらして視線を落とす。しかし、新たに目に入ったのは細いなまえの足だった。ガーゼの被せられた膝、痣の散らばる脛、湿布の貼られた足首。唯一傷がないかのように見えるのは踝から下だけだったが、今は見えないだけで踵には靴擦れのための絆創膏が貼ってあることを俺は知っている。

……駄目だ、


「ローさん」


間近で響いたその声に、俺ははっと閉じかけていた目を見開いた。真っ直ぐな視線を俺に向けるなまえの頬は、先ほどまでガーゼが貼られていたはずだった。しかしペンがもう必要ないと判断したんだろう。今はそれが貼られておらず、代わりに生々しい傷が鮮やかだ。隠しておいて欲しい、と思ってしまう自分が情けない。目元の青痣と、唇の端のかさぶたもなかなか消えない。だがもう見慣れた、はずだった。

目を逸らす俺に、なまえは掠れた声でおやすみなさいと呟いた。俺とすれ違い部屋へ向かうその背を見送る。小さくて、壊れそうな背中だった。その姿が見えなくなって扉が閉まった後も、俺はしばらくその場を動かなかった。……動けなかった。



あの出来事から、この家に起きた変化。見落とそうと思えば見落とせる、見ないふりができる細かな変化が散らばるなかで、最も大きく、取り返しのつかない変化があった。

なまえが俺を見るようになった。澄んだ目で俺を見つめ笑みを浮かべ、俺と関わるようになった。

そして、俺がなまえを見られなくなった。関われなくなった。笑えなくなった。

なまえを直視できない。そのことに気づくのに、そう時間はかからなかった。傷だらけで、傷ついた表情で、それでも必死に笑うなまえを見ていられない。なまえの笑顔が、ようやく見られるようになったなまえの笑顔が、俺を責める。



仲良くなった?

違う、そんなわけがない。寧ろ逆だ。遠い。なまえが遠い。遠ざけているのは、俺だ。目を閉じて耳を済ませば、なまえのすすり泣く声が聞こえるような気がした。


12.07.07