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「待て」
『…………てめえ、誰だよ』
「女はどうした」
『誰だって聞いてんのがわかんねえのか』
「女はどうした。電話に出せ」
『誰だって聞いて……、ああ、お前かよ。ずいぶん早い再会だな?トラファルガー』


俺は歯を食いしばる。電話に出た男は俺を知っていた。やはりこいつは、あの日シャチを金属バットで殴った奴だ。俺はシャチが殴られたあと、こいつに鋭く蹴りを入れた。こいつはすぐに気を失い、ハートはハートでシャチの出血に大慌てだったため、抗争は中途半端に終わってしまった。中途半端とは言っても、あちらのグループに意識のある者はおらず、完全にハートの勝利だ。しかし、俺たちは勝っただけで終わらせてしまったのだ。俺の家を見張っていた理由をそれ以上問い詰めもせず、今後の立ち位置について脅しもせず、危険な奴等を野放しにしていた。その結果が、これだ。


『この女の名前何?こいつ名乗んないだけど』
「当たり前だ、早く電話に」
『お前こそ電話に出せよ、ユキはどうした?』
「ここにいる。お前があいつと話をさせない気なら、こいつを…」
『まあ別に、どうしてくれてもかまわねえよ』
「あ?」


男は気味の悪い声で笑った。強がっているのだろう。俺はそう思い込もうとした。思い込む他にどうしようもない。ユキをこっちの人質に取る以外に、どうすればあいつを助け出せるかわからない。


『ユキと俺たちの間に特別な仲なんてねえしな。ただ、お前に縁があったから繋がっただけだ』
「こいつともお前とも、俺には縁なんてない」
『俺はお前が嫌いで、ユキはお前が好きだったんだ。十分な縁だろ?』
「ふざけ、……ああそうだな、そうだ、そうだとしても、そんなことはどうでもいいんだよ、そんなことにあいつを巻き込むな!」
『……はァ?』


しばらくの沈黙の後、男の声色が変わった。比べ物にならないほど低い声。電話を通じて俺たちの間に流れる空気までもが、凍りついたのがわかった。


『自分の立場わかってんのかよ、トラファルガー?自分が良い歳して暴力グループのトップで、常に部下と女はべらせてるって自覚はあるんだろうな?本命の女なんか作るんじゃねえよ、いつかこうやって拉致られんのは目に見えてるだろうが』
「本命じゃ、ない」


それ以外に、否定できることは何もなかった。全てが正論だった。こうなることはわかっていたはずなのに。だからどうでもいい女しか側に置かなかったのに。いつの間にこうなった。どうしてあいつを家に置いていた。いつの間に俺は、

……俺はどうして焦っている?俺が側に置く女は、皆どうでもいい女だった。あいつだってそうじゃないか、どうでもいい、どうなってもいいから家に呼び込んた。ただそれだけのことだ。それだけのことだと、思いたかった。


『本命じゃないって?へーえ、じゃあどうなっても良いってことだな。……なァ!』
「おい!」


耳に届いたあいつの小さな悲鳴に、気づけば俺はまた怒鳴っていた。どうも調子が狂う、電話に怒鳴っても何の意味もないというのに。俺は必死に気を静める。落ち着け、落ち着くんだ、躍起になったら負けだ。


「……何をした」
『まだ蹴っただけだ、安心しろ』
「それ以上そいつに触れんな。さっさと電話を代われ」
『嫌だね。………と言いたいところだが、代わってやるよ』
「…は、」
『運が悪けりゃ、この電話が最後の会話になるからな』


ふざけんな、と怒りにまかせて口を開いたとき、電話口にいたのはすでに男ではなかった。







『あの、ロー……さん』


弱々しい声に、もう一度ふざけんなと怒鳴りたくなった。いつもの強気な声はどうした。いつまでも意地を張って俺の名を呼ばなかったくせに、どうして今、どうしてそんな声で呼ぶんだよ。


「……今自分がどこにいるかわかるか」
『わかりません。古い建物ですけど、それ以外には何も。あの、ローさん』


古い建物。俺は脱力した。荒い女の息遣いの裏で、男たちが笑い声を立てるのがわかった。"古い建物"で居場所がわかったら奇跡だ。


「いいか、すぐに行ってやるから待ってろ。何があっても諦めずに抵抗しとけ、わかったな」
『あの、ローさん』
「……なんだ、くだらない弱音なら聞かねえぞ」
『助けになんて、来なくていいです』
「は」
『キャスさんたちが怪我したとき本当に怖かったから、もうあんなこと嫌だから、またあなたが怪我するのは嫌だから、私は大丈夫だから、迷惑かけてごめんなさ』
『はい時間切れー』


「待」


て、

良い終わらないうちに電話は切れた。『通話終了』と表示されるディスプレイを見ながら、俺は呆然と立ち尽くしていた。無理に力強く出そうとしたような、奇妙に震えたあいつの声が耳から離れない。やはりあいつは強がりだ。俺のよく知る強がりなあいつだ。大丈夫なわけがないのに。これから自分が何をされるかなんてわかりきっているはずなのに。俺の心配なんてどうでもいいだろ、お前はそういう奴じゃねえだろ。本当は怖いんだろ、泣くほど怖いんだろ。

息が苦しい。どうすればいい、俺はどうすればいい。汗の滲む手でもう一度男の番号にかける。だが、何度かけてみても繋がらなかった。


「おい、」


この電話の持ち主である女に問い詰めるしかない。俺は振り向いて女の腕を掴もうとした。掴むはずだった。しかし、


「……畜生ッ」


すでに俺は一人だった。女はいつの間にかどこかへ消えていた。俺は歯を食いしばり、何か情報を引き出せないかと、すでにセーブモードに入り画面が真っ暗になっている携帯のキーを再び叩いた。しかし表示されたのは、『暗証番号を入力してください』の文字だけで。今更気づいた。女が俺にこの携帯を渡す直前に見せたあのキーの操作。あれは、暗証番号を入力してロックを解除していたんだ。

何の関心もなく俺の横を通り過ぎていく群衆のなか、俺は役に立たない携帯電話を地面に投げつけた。ガツ、と音を立てて転がった女の携帯は、群衆に蹴飛ばされ何処かへ消えた。あれ、あたし何か蹴った?さあ、何もないし気のせいじゃない?明るい女たちの声。すぐ近くで交わされたはずのその会話が、ずいぶん遠く感じた。



どうすればいい。
どうすればいいんだ。

どうしたらあいつを助けられるんだ。

こうしている間にもあいつは、あいつは…!



突然、腰の辺りで何かが震えた。マナーモードになっていた俺の携帯電話だ。この震え方は電話の着信に違いない。こんなときに、一体誰が…。焦りと不安で爆発しそうな頭をなんとか抑え、携帯を開く。どうか、頼むから、あいつを助ける手立てであってくれ。画面に表示された見知らぬ番号に、俺は無心で通話ボタンを押した。


12.04.26