48

「なんで」


気づけば女が俺を睨みつけていた。昨日の回想から突然呼び戻された俺は何を聞かれているのかわからず、また聞き返す気もなかった。


「なんで何も喋らないの」
「……何を話せと?」
「なんでもいいじゃん。楽しいこと話そうよ、せっかく二人きりになれたんだよ」
「そもそもお前と二人きりで楽しかったことなんてねえよ」
「なんで私じゃ、」
「薄汚れた女は好きじゃない」


自分も沢山の女を抱いてとっくに汚れているのに、よく言えたものだと自虐的な笑みが零れる。あなたはどうなの、なんて言い返されてもおかしくない。


「あの子と一緒なら楽しかったの?汚れてなくて綺麗なあの子となら?」
「誰のことだよ」
「イモウト、さん」
「………言いたいことがあるならはっきり言え」


女の目は不思議な輝きを持って俺を見上げている。その挑戦的な眼差しと意味ありげな口調が気にかかって、俺は眉をひそめた。三日月形に歪んだ真っ赤な唇から、真っ赤な舌がちろり、と覗く。蛇を連想するのは難しくなかった。


「ローの大好きな妹さんね、今頃犯されてるよ」





「は?」


女が何を言っているのか理解できない俺は、ただその不快な発言に顔を歪めるだけだった。しかしそれも長くは持たず、しばらくの沈黙を経て俺の口は勝手に動き出した。「どういう理由でそんな見栄すいた嘘をつくのか知らねえが、つくならもっとましな嘘をつけよ」、そうぺらぺらと回る口とは裏腹に、じわりと汗が滲む拳。普段ならこんな突拍子もない話に動じたりしない。だが今の俺の頭をよぎるのは、あいつの切羽詰まった叫び声だった。あいつが犯されてる?つまり、拐われた?俺が再び口を開く前に、女は悲鳴のような、甲高い笑い声をあげた。


「言う気はなかったよ、だってあの女はローの知らないところで壊れちゃえばいいんだから。私、あの女嫌いなの。ローに構ってもらって、幸せそうで……ずうずうしい女。妹?冷静に嘘ついたね、あの女」
「……お前、いつから嘘だって、」
「最初から。馬鹿な嘘ついちゃってさ、苛々したよ。でもいいの、もう。今頃あの女はぐっちゃぐちゃだから。でもどんなに汚れちゃってもあの女はきっとそのことを黙ってるだろうね。ローは綺麗な女が好きで、汚れた女は嫌いだからね。あの女はローと暮らしてるんだし、それくらいわかってるよね」
「……どうしてそれを知ってんだよ」
「だからあの女はどんなことされても絶対ローに言わないと思ったんだよ。あの女はきっとローに嫌われたくないから!でもそのうち汚い自分が嫌になって、勝手にローから離れてくれると思ったの。私にローを返してくれるって」
「おい答えろ、何故あいつが俺の家にいることを、」
「でもね、私もっと良いこと思いついちゃった」
「俺の質問に答」
「私があの女は汚れましたよ、もうローの大好きな綺麗なキレイな女の子じゃないんですよーって教えてあげればいいんだよね!いい、よく聞いてね?あの女は汚れ」
「黙れ!」


怒鳴るつもりなんて、なかった。こんなくだらないことに興奮するつもりなんて。俺は短く息を吐き出し、気を落ちつける。


「俺の質問に答えろと言ってるだろ」
「…なあに?どうぞ」
「どうしてあいつが俺の家にいることを知っている?」
「どうしてだろうね?」
「ふざけるな」
「ふざけてないよ。大真面目なんだから」


女は目を吊り上げつつもにっこりと笑った。徐々に赤くなるそれは、うっすらと潤み始めている。ここは大通りのど真ん中なわけで、大声を上げて騒ぐ俺たちに周囲の目が集まっているのを感じた。だが女はきんきんとよく通る声で笑うことをやめず、俺もその場を動かなかった。


「こんな話したら、ローは私を嫌いになるだろうね?でも、いいの。別にローに嫌われてもね、あの女がローから離れてくれればいいの。あの女さえいなければ、私はいつでもローを取り戻せるから」


ね?と俺を見つめる目は全く笑っていなかった。口は綺麗に弧を描いているのに。俺はなんとか口を開く。声が掠れた。


「あいつはどこだ」
「さあね」
「言え」
「知らないから無理だなあ」


女は俺を真正面から見つめてそう言った。嘘をついているようには見えない。だがだからと言って、真実だと認めるわけにもいかなかった。本当にこいつが居場所を知らないなら、俺はもうどうすることもできない。


「知ってるんだろ、言えよ」
「だから知らないって」
「お前が、」
「え?」
「お前があいつを拐わせたのか」
「……そうとも、そうじゃないとも言えるよ。私とあいつらの目的は繋がってて、私が少し話を出しただけで食いついてきたから。あいつら、ローが嫌いみたい。憎んでるみたい」
「電話番号」
「…………が、何?」
「お前がやらせたなら知ってんだろ、そいつらの連絡先くらい。言えよ」
「ああ、」


女は微妙に表情を崩した。ああ、うん、と何度か頷きつつブランドもののバッグから携帯電話を取り出す。キーを操作し始めた女から、俺は素早くそれを取った。情報を消されるわけにはいかない。


「名前は」
「……んーとね」


女は不思議な笑みを浮かべ、どこかで聞いたことがあるような男の名を口にした。つい最近聞いたばかりのような、そうでないような。疑問を抱きつつ電話帳からその番号を探しだし、通話ボタンを押した。

女を睨みつけ、苛々と電話が繋がるのを待つ。あいつのことばかりが浮かぶ頭の片隅で、その男の名が何度も繰り返されていた。何か、引っ掛かる。鬱陶しく居座るあいつを思考から追い出して考えるうちに、気づいた。はっとして女を凝視した俺の耳に、単調な機械音が響き続ける。


「………どういうことだ」
「何が?」
「何故こいつなんだ」
「どういうことってどういうこと?こっちが聞きたいんだけど」
「こいつは、俺の家を何週間も見張り続けていた奴等のリーダーだ」
「へえ、」


そう、と頷く女に、俺は確信した。この女は全てを知っている。男たちが俺の家を見張っていたことも、その結果ハートと抗争になったことも。あいつを拐った連中のリーダーは、つい最近の抗争でシャチを殴った男だったのだ。前々から俺の家を見張っていたグループに、威嚇と交渉が通じないと判断したハートが乗り込んだことによって起こったのがあの抗争だった。結局誰一人口を割らなかったが、今思えば、あの一味が家を見張り始めた時期とあいつが来た時期は一致している。家を見張っていた目的がようやくわかった。全てはこいつの。


「お前が見張らせたのか」
「……さあ」
「お前があいつを拐わせたのか」
「それについては答えたじゃん。言ったでしょ、私たちの目的は繋がってたって。私はあの女が邪魔で、あいつらはローを壊すためにあの女を利用したかったの。それだけのこと」


さらに問い詰めようとしたとき、機械音が途切れた。変わりに耳に届いたのは、呆れたような男の溜め息で。続いた声には聞き覚えがあった。


『あのなユキ、今いいところなんだから邪魔すんな。切るぞ』


………いいところってなんだよ。手の中の携帯電話がみしりと音を立てた。


12.04.11