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ロー………!




「ロー、こんなところにいた」


せっかく引き離したと思った女が、また俺にまとわりついてきた。どうしたの?と笑いかけてくるが、俺の目にこんな奴は映っていなくて。今の、声。俺の名前。確かに聞こえたその声に急いで振り向く。だが、そこにはぱらぱらと散らばる人間と、無表情の大通りしかなかった。

………空耳、か。いよいよ危ないようだ。幻聴を聞いて、しかもそれはあいつの声で。切羽詰まっていたような気がした、なんてとんだ妄想だ。あいつは今頃ペンに連絡して、ペンご自慢のバイクで楽しく走っているところだろう。切羽詰まって俺を呼ぶなんてことがあるわけない。


「ねえロー、これからどうするの?」
「お前には関係ねえよ、離れろ」
「そんな冷たいこと言わないでさ。これからホテルでも全然構わないよ」


開いた口が塞がらない。なんでお前と行動する前提なんだ?しかもホテル?今は昼間だろ、笑わせんな。


「お前、何がしたいんだよ」
「ローと一緒にいたいの」
「俺に好かれたいと?」
「そう」
「俺は卑劣な嘘が嫌いなんだよ」
「………嘘なんてついてないけど」
「ふざけんな。なまえに何吹き込んだか言えよ」


女の笑顔が、徐々に強張っていく。揺れる目を真っ直ぐに射抜きながら俺は口を開いた。


「まさか昨日ヤったなんて言ってねえだろ?」
「……………言ってないよ、あの子がどう受け取ったかは別として」


咄嗟に振り上げかけた拳を必死に押さえる。畜生、この女のけろりとした顔が憎たらしい。あいつを俺から遠ざけるためにあることないこと吹き込んだんだろう。俺が席に戻るときのこの女の楽しそうな笑みと、隣のあいつの怒りに満ちた顔の対比といったら。何かあいつが言ってくれば俺だってそんなことしてねえよと否定することもできたが、あいつは何も言わずに出ていくし。なんであんなに可愛い気がないんだ?いつまでも意地を張りやがって。


「お前は写真まで使うし、最低だな」
「合成したわけでもなんでもない、本物の写真だよ?どうして見せちゃいけないの?」
「あれ昨日撮ったやつじゃねえだろ。俺は昨日ヤってもいないし寝てもいない。寝顔も撮れねえしあそこまで派手なキスマークだって付ける暇なかっただろ」
「そうだよ、あの写真は前に……ううん、前の前に会ったとき撮ったやつ。でも私、嘘はついてないよ。だって昨日の写真だなんて一言も言ってないもん。あの子が、」
「どう受け取ったかは別として、だろ。もう黙れ」


この女、開きなおりやがった。俺はどうしようもなく腹が立って、歩くスピードを速めた。女は小走りでついてくる。ああ、うぜえ。さっきまで小走りでついてくるのはあいつだったのに。俺の隣にいるのはあいつだったのに。






あいつの誕生日はずっと前から知っていた。あいつの家庭の情報と共に、生年月日や年齢も、ペンが調べたからだ。そのときは、へえ、結構近いんだな、と聞き流しただけでまさか祝うことになるとは思っていなかった。だが誕生日の前日、シャチが怪我を負った。シャチだけじゃなく、クルーの誰もがいつもより酷い怪我をした。自分で考えていた以上に、それは重く俺にのしかかって。あいつに慰められている自分が信じられなかったし、俺を抱きしめる腕を振り払いたかった。でもそうしなかったのは結局、それが心地よかったからで。気づけば俺の口は勝手にペンたちに指示を出していた。

出すことしか、出来なかった。

誕生日だからなんかやってやれ、と無責任に言い放って、それで終わりだ。ペンやシャチのように料理をすることもできない、ベポのように部屋を飾ることもできない。それならプレゼントでも、と考えてみたところで、それさえも思い浮かばないのだ。

女に物をあげたことなんて、数えきれないほどあった。だがそれは全て、女が欲しがったものに俺が金を払ったというただそれだけのことで。あいつに服を買ってやったのも、それがあいつに必要なものだったからだ。いざ何も欲していない女に何かを贈ることになれば、どうしていいかわからなかった。悩むうちにその時は来てしまい、俺はペンやシャチ、ベポのプレゼントを受け取って喜ぶあいつを見ているだけだった。

代わりに、なんて考えたわけじゃない。ただあいつのために何かしたくて、俺は約束を取りつけた。正確に言うなら、あいつのためじゃない。俺のためだ。買ってやったのに一度も着ていないワンピースを着て行くように言った。これももちろん自分のため。あいつに似合うと思った、実際に似合っていたワンピースだ。あれを着たあいつの姿を見たかった。

今日、あいつは本当にあのワンピースを着ていた。正直、前日までの状況を考えて絶対に無理だろうと思っていた。俺自身その数時間前まで約束をすっぽかす気しかなく、今隣を歩いているこの忌々しい女を抱こうとしていた。あいつなんか忘れてしまおうと思ったのだ。だが、女に口づけた瞬間に頭に浮かんだのはあいつとのキスで。同じキスなのに、どうしてこんなにも違うのか。どうして熱くなれないのか。どうして、どうして、どうして?次第に吐き気を催した俺は早々に唇を離す。


「………ロー?」
「今日は気が乗らねえ」
「え?」
「もう一部屋借りてやるからお前そっち行け」
「何それ、」
「俺が出た方がいいならそうするが」
「ちょっと待ってよ!」


女はキンキンと耳に響く声で叫んだ。さっきまで俺を誘うように熱の込もっていた目は釣り上がり、充血し始めている。俺はそんな女を無視してベッドから下り、脱ぎ捨ててあったパーカーを気直した。部屋を出ようとしたところで、後ろから柔らかい感触。大きな胸が背中に当たっているのがよくわかったが、俺は舌打ちをするだけだった。


「なんで、なんでせっかく会えたのに?意味わかんない。さっきまで気持ち良さそうにキスしてたじゃない」
「それはお前だけだろ。俺は吐き気がした」
「ひど…!酷いよ、ロー!それに私もう脱いじゃったのに!」
「俺が脱がせたわけじゃねえよ。自分で勝手に脱いだんだから、勝手に着たらどうだ」
「………なんで!?」


俺は背中にくっついたままの女を引き離し、ドアノブに手をかけた。女はそのまま引き下がろうとはせず、ドアを必死に押さえている。涙で化粧が崩れ、顔は酷い有り様だった。


「なんでここまで来たのにそうなるの!?何のためにここに来たの!?私に会いたいから、私を必要としたから来てくれたんじゃないの!?」
「は?自惚れんな、」
「私、明日は一日中ローと一緒に過ごせると思ってたのに!」
「なんでそうなるのかさっぱりわからねえな。悪いが俺は先約がある」
「………誰と?どこ行くの?」
「お前に言うわけねえだろ」
「女なの!?」


女は激しく怒鳴り、俺の腕に爪を立てた。ああ、女だよ。何の魅力もない女だよ。お前と二人並べて道行く男の前に出したとして、百人中百人がお前を選ぶような、お前には絶対に敵わない女だよ。

だが、それでいい。あいつの良さは、俺だけが知っていればそれでいい。

何故か笑みが零れた。どうしてだろう、何も可笑しいことはないのに。俺はすがりついてくる女を床に押し倒す。女の瞳が期待に満ちた。しかし俺は乾いた嘲笑とともにぐっと身を引き、倒れたままの女を置いて部屋を出る。服を脱いでしまっている女は、廊下まで追いかけては来なかった。

隣の部屋を借りるような気分ではなくなってしまった。俺は車に戻り、夜の街へ走り出す。家に帰ろうか?…帰れるのか?ペンとシャチから非難の目を浴びることは間違いない。だが、あそこはあくまで俺の家だ。ペンとシャチを追い出してしまえばいい。

あいつはまだ起きているだろうか。俺がいないのを良いことにペンと事の真っ最中かもしれないし、もしくはシャチと楽しくゲームをしているかもしれない。ベポのもこもこの腕にすがって、幸せそうに眠りについているかもしれない。

俺の入る隙なんて、あの家にはない。

自分らしくない考えだと思った。だが俺は一人ビジネスホテルに向かい、冷えたベッドに潜り込んだ。


12.03.31