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「妹さん?」


私に対する第一声がそれだ。トラファルガー・ローが何か答えるより前に、私は頷いていた。どうして頷いたかなんて、自分でもよくわからない。女はにこにこと笑った。


「いいなあ、兄妹で買い物なんて。何を買うの?」
「色々」
「なあにロー、色々って」


トラファルガー・ローはあからさまに"面倒だからさっさと消えろ"という顔をしたが、女の人は動じなかった。でも私は、女の人の握られた拳に僅かな力が入ったのに気づいてしまう。表情に変化はなかったけれど、この人は今確実に傷ついた。トラファルガー・ローが好きだからこそ、素っ気ない態度に傷ついたんだ。


「特に決めてないならさ、一緒に食べにいかない?」
「は?」
「美味しい店知ってるんだ。妹さんも一緒に、ね?」


私を見つめるその目から、お願いだから、というような必死の思いが伝わってきた。この人は本気でトラファルガー・ローが好きなんだ。本気で恋をしてるんだ。私はそんな女の人を、綺麗だと思った。こんなに綺麗で、まっすぐ自分を想ってくれる人が沢山いるのに、どうしてトラファルガー・ローはいつまでもふらふらしているんだろう。どうして純粋な女の人を弄ぶんだろう。

私は無意識に頷いていた。


△▽


ユキさんというらしいその女の人は懲りずにトラファルガー・ローに話しかけていたが、非情にもトラファルガー・ローはすべて軽くあしらった。私はずっと黙り込んでいる。


「ね、なまえちゃんはどう思う?」
「え?」
「だから、ローの寝顔可愛いよねって話」


どうしてそんな話になるのかさっぱりわからない。トラファルガー・ローの寝顔、ってどんなだっけ?私見たことあったっけ?


「えっと、まあ、そうですね」
「あれ?まさかお兄ちゃんの寝顔見たことない?」
「あまりないです、」
「私写真持ってるよー見る?」


なんで妹の私が兄の女に兄の寝顔写真見せてもらわなくちゃならないの。私はこの状況に呆れつつも「はあ」と曖昧な相槌を打った。ユキさんはカチカチと携帯を操作している。どうせ首にキスマークでも付けた写真だろうなあ、とため息をついた。


「ほらこれ、あ、」


私に差し出された携帯を横から奪い取ったのはトラファルガー・ローその人で。無表情で手早く操作する。何をされるのか気づいたユキさんが慌てて手を伸ばしたときには、すでに遅かったらしい。取り戻した携帯の画面を見て悲鳴を上げた。


「なんで消しちゃったの!」
「お前こそなんで撮ってんだよ。いつのだ」
「いつって、昨日、」
「…………ハッ」


トラファルガー・ローは鼻で笑った。口元は笑っているのに、目はぎらぎらと鋭くユキさんを睨みつけている。何か言いかけたユキさんの前にどん、と手をつきトラファルガー・ローは立ち上がった。何をするのかと思えば、ただトイレに向かうだけのようだ。


「ローって、私のこと嫌いなのかな」
「いや、そんな、」
「身体目当てなんかじゃないって思ってたのにな」
「………あなたがそう思うなら違うんじゃないですかね」
「でも、ああいう態度だもん、昼は」


昼は、と強調された言葉。続きを聞きたいなんて言ってないし、促したわけでもない。むしろ俯いて会話を終わらせようとしたのに、ユキさんは物憂げに、いや、楽しそうに語りだした。


「夜は優しくしてくれるんだ。好きだって言ってくれるし、笑いかけてくれるし」


私はまた、はあ、と相槌を打った。少し素っ気なくなってしまったかとも思ったけど、どうでも良かった。何もかもどうでも良かった。耳を閉ざそうとすればするほど、簡単に入ってくる目の前の女のノロケ話。それ、妹に言うこと?あなたのお兄さんはこんな風に私にキスをしてくれるのよ、こんな風に抱いてくれるのよ、こんなに愛してくれるのよ。………で?一応今の私は妹なのに、なんで兄の甘い話を聞かされてんの?この人何考えてんの?

ちらりと顔を上げるとユキさんは窓の方を気にしていた。私の視線に気づいて微笑みかけてくるけど、私は笑い返すことが出来ない。目を逸らそうと窓と反対の方に顔を向ければ、ちょうどトラファルガー・ローがトイレから出てくるところだった。


「ロー、おかえり」
「………」
「次私トイレ行ってくるね」


ユキさんは笑顔で立ち上がった。仏頂面のトラファルガー・ローと、再び俯いた私が残されたテーブルには重々しい空気が漂っている。私は早口で言った。


「私帰ってもいいですか」
「………は?」
「いる必要ないですよね、全く。あなたの相手ならユキさんがやってくれると思いますし」
「ハッ、帰るってどうやって、」
「ペンギンさんに迎えに来てもらうので心配要りません」


トラファルガー・ローが表情を変えたのが、顔を見なくてもわかった。私はさっさと席を立つ。カフェオレなんて飲まなきゃ良かったと後悔しながら、いつか必ず返すので払ってくださいよろしくお願いしますと吐き捨てて背を向けた。トラファルガー・ローは追いかけてこない。まあ別に、期待なんて、


「なんでだよ」


嘘だ。本当は期待していた。こうやって引き留めてくれることを。あの女の手じゃなくて、私の手を取ってくれることを。確かに私の腕はトラファルガー・ローによって掴まれた。私は引き留められた。じめじめと蒸し暑い店の外で、私たちは確かに視線を重ねて立っていた。それなのに、この人の話はあまりに理不尽で。


「なんでペンの名前は呼ぶんだよ。シャチだって、バンだって簡単に呼ぶくせに、」
「………え?」
「なんで、俺の名前は」


呼ばないんだ。

続いた言葉に、私は唖然としてトラファルガー・ローを見つめた。この人にしては子供っぽい言葉だとか、はじめて本音を話してくれたとか、思うことは沢山あったけど、私の中に真っ先に湧いた感情は怒りだった。


「本気で言ってるんですか?」
「ああ、」
「あなただって私の名前を呼んだことがないくせに、自分のことは棚に上げて私を責めるんですか?」
「あるだろ」
「ないですよ、私あなたに呼んでもらったことなんてない」


勢いづいた口は止まらない。止まってくれない。


「ペンギンさんが言ってました、あなたは色んな女の人を抱いておきながら、名前をまったく覚えないって!覚えようとしないって!私もそうなんでしょう?そういう女の一人としてあの家に呼び込んだんでしょう?相手をしてあげられなくてすみません、本当に!まあ私みたいなガキを相手にするまでもなく、他に女はいっぱいいるでしょうけど」
「は?ずいぶん勝手な言い草だな、自分だってペンと寝たくせに」
「………は?それこそ"は?"ですよ。何言ってるんですか?私がペンギンさんとどうしたって?」
「寝た」


パン、と乾いた音がした。一瞬で消えたその響きは、私がトラファルガー・ローの頬を叩いたことによるものだった。ひりひりと痛む手。心だって痛い。どうして手が出たのか、自分でも理解しきれないけどたぶん、今まで以上に私は怒っている。それに悲しい。馬鹿じゃないのこの人。馬鹿、馬鹿、馬鹿、馬鹿野郎。私が散々この人のことを考えて、傷ついていたのが馬鹿みたい。私が寝たって?ペンギンさんと寝たって?


「なんで私があなたの名前を呼ばないかわかりますか?嫌なんですよ、あなたに媚びる女たちみたいに"ロー"って呼ぶのが。ハートのみなさんは船長って呼ぶし、ベポはキャプテンって呼ぶし、ペンギンさんがローと呼ぶことだって滅多にないし。あなたを名前で呼ぶのはあなたが抱く女くらいでしょう?そんな人たちと同じことしたくないんですよ、一緒になりたくないんですよ、」


あなたにとって特別でいたかったんですよ。


一番大切なことは、言えなかった。


11.12.10