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最悪の気分で目が覚めた。頬に伝うものがうっとおしくて、乱暴にぬぐった。いつものように顔を洗い、髪を整え、つなぎを着て朝食の準備を手伝う。ペンギンさんもキャスさんも優しかった。普段以上のその優しさが見に染みて痛い。どうしてそんなに気を使ってくれるのか、わかるだけに嫌だった。

トラファルガー・ローのいない朝食を済ませ、私は部屋に戻った。指に巻かれていた包帯は、今日になってようやく取れた。傷だけが残った指を見つめる。

あの人はまだ帰ってきていない。

今日は約束の日だ。行き先も目的も決まっていないくせに、出掛けるという約束だけはしたという奇妙な日。だが、トラファルガー・ローはいない。いないんだ。私じゃない、他の女のところで楽しくやっていることだろう。昨日あの人は、約束を覚えていると言った。覚えていて出掛けた。つまり、私よりその女の人を選んだということだ。簡単な答え。当然の答え。乾いた笑いが漏れた。

ワンピースを着て、鏡の前に立つ。やっぱり私には似合わないと言うことを再確認した。どうせ今日は出掛けないんだし、着ても何の意味もないけど。そう考えた瞬間、すっと心が軽くなった。いいや、別に似合わないワンピースでも。今日を逃したら、ここで脱いでしまったら、二度とこの服を着る日は来ない気がする。私はその姿のまま一階に下りた。

もう一度顔を洗って、歯磨きをして、髪を梳かし直して。なんで出掛ける準備みたいなことやってんの私、と虚しくなった。鏡のなかの自分は酷い顔で、私を責めるように睨んでみるような気がした。私、悪いことした?何かした?

トラファルガー・ローは、私が来てから女遊びを止めた。キャスさんにも、ペンギンさんにも言われたことだ。それを聞いて、さらりと何でもないように返事をしようと努めたけど、高鳴る胸は自分の喜びを示していた。純粋に嬉しかった。沢山の女たちより私を選んでくれたような、そんな気がした。それも全部、気のせいだったね。

あの日のキスが甦る。一瞬でも喜んだ自分が馬鹿みたいだ。所詮遊びだったんだろう。所詮私をからかってみただけなんだろう。ごめんなさいねそれ以上のことができなくて。他の女の人はやらせてくれるもんね。そっちの方がいいよね当然。


「なまえ?どうしたんだよその格好!」


気づけば後ろにキャスさんが立っていて、私は慌てて振り向いた。カッと頬が熱を持つ。やだ、似合わないって言われる。そう思って身構えたのに、キャスさんは予想外の言葉をくれた。


「つなぎはつなぎで可愛かったけど、それもいいな!」
「…………お世辞はいいです、キャスさん」
「いやいやお世辞じゃないって!あのさ、俺に髪任せてもらえない?」
「え?」
「俺こう見えて手先器用でさ、編み込みとかできるんだよね」
「誰の髪で練習したんですか…?」
「そこは触れちゃいけない」


怖い顔をしたキャスさんが私の髪に手を伸ばす。本当に器用そうに動くキャスさんの指を、私は呆然と見ているだけだった。あっという間に、いつもとは雰囲気の違う私がそこにいた。


「メイクしていい?」
「………キャスさん小児科医目指してるんですよね?」
「そこも突っ込んじゃダメ」
「道具ないですし」
「……ちくしょう。まあこれで十分可愛いや。おーい、ペン!ベポ!」


キャスさんが私の手を引いてリビングに連れて行く。私を見たペンギンさんの眉が動いた。いいじゃないか、そう言われて心臓がどくんと波うつ。ベポは私に気づくなり叫んだ。


「うわ、なまえすごくかわいい!」
「嘘……ありがとう」


みんなの思わぬ反応に、私は目を泳がせた。みんななんて優しいんだろう。集まる注目に、これ以上ないってほど熱くなる頬。恥ずかしいのに嬉しくて、ぎゅっとワンピースの裾を握りしめる。

そのとき勢いよく扉が開いて、壁に乱暴な音をたててぶつかった。驚いて目をやると、帰って来ないと思っていたトラファルガー・ローがそこに立っていた。射抜くような視線に背筋が凍る。つかつかと近づいてきたから、私は思わず後ろに下がった。トラファルガー・ローは止まらない。背中がテーブルにぶつかり、私は追い詰められた。強い力で腕をとられる。呆然と立っている三人に必死な目を向けても、誰も助けてくれなかった。掴まれた腕がぎりぎりと痛む。


「行くぞ」
「どこに……?放して、」
「とぼけんな」
「とぼけてるわけじゃない、だって、」
「あ?」
「だって、あなたは女の人と、」
「お前との約束があっただろ」
「は、」
「行くぞ」




「………………なんで?」


なんでそういうこと言うの?私を散々突き落としたくせに、傷つけたくせに、どうしてまたこうやって優しいこと言うの?なんでまた期待させるの?何がしたいの?私のこと、どう思ってるの?

溢れ出す想いは言葉にならなかった。口を開けば泣いてしまいそうだった。私はただ手を引かれ、促されるままに林を抜けた。家出したあの日温かいと感じた手のひらは、今はただ冷たいだけだった。


11.11.17