42 昼に寝てしまったせいかなかなか寝つけない夜を過ごし、ようやく眠れたと思ったら次の瞬間シャチに起こされた。すでに朝だった。眠りが浅かったせいで夢を見た。妙に現実感のある嫌な夢で、あの女が出てきた。頬には涙が伝っていて、切ない声で「ペンギン」と呼んでいた。呼び捨てていた。目が覚めたとき、どうにもならない苛立ちが俺のなかにあった。 楽しそうに朝食をとる女が気に入らない。なんで笑ってるんだよ、なんでそんなに幸せそうに笑うんだよ。ペンと結ばれたからか。 唐突に、その笑顔を壊してやりたいという腐った思いが沸いた。泣かせてやりたい。泣けよ、顔歪ませて泣けよ。ペンなんかじゃなく、俺の名前だけ呼んでろよ。俺のものに、 ……………俺のものに? 俺は箸を止めた。今、何を考えていた?考えようとしていた?あいつをどうしたいって? 「船長、もういいんすかー?」 いつもより早く箸を置いて席を立つ俺に、シャチが首を傾げつつ声をかける。ああ、と俺は頷いた。そのとき偶然女と目が合った。久々に、俺たちがキスをしてからはじめて合った。女の肩がびくりと震える。そのままぐっと口元を引き締めて俯いてしまった。 今日も一人の仕事だ。ペンはペンで別の仕事がある。手術中に、そういえば昨日の電話、と思い出した。しかしペンに頼む気は起きない。面倒だと感じつつも、なんとか自分で対応した。そのためにスケジュールを確認したとき、明日が女と出掛ける日だと気づいた。だが、この状況で出掛けるのか?俺は自問する。 その手術は長引いてしまい、家に着いたときには八時を過ぎていた。すでに食卓はほぼ片づいた状態で、俺の料理だけが寂しく残されている。女が飯と汁を運んできた。立ち上る湯気が温かさを示している。だが対照的に女の表情は冷たく、じっとテーブルだけを見つめ続けていた。俺も特に礼を言うことなく、黙って料理に手をつける。肉は冷たく固かった。 圧し殺したはずの感情が、内側に溜まってふつふつと煮え立つ。どうしたらいい。この悶々とした熱をどこに吐き捨てたらいいんだ。部屋に戻った俺はベッドに倒れ込んだ。目を閉じて追い出そうとしても、なかなか消えてくれないこの感情。そのとき、携帯電話の着信音が鳴り響いた。 相手は名前も顔も知らない女。いつか寝たことがあるらしい。悪いが覚えてない、とは言わなかった。女の話し方からして、滑稽なほど男に、というより俺に媚びた奴ではないかと思えた。今日、会えない?用件はそれだ。俺は黙っていた。あいつをここに連れてきてからもこういう誘いは何度も来ていたが、すべて断っていた。溜まりに溜まった欲は、今俺の中で渦巻いている。女の催促の声に、俺は反射的に答えていた。 「どこ行くんすか、船長」 「女に誘われた」 「またっすか、船長ばっかり毎日毎日………え?」 出掛けようとする俺に、のんびりと声をかけてきたシャチの表情が変わる。顔をひきつらせて、何言ってんすか、と笑った。 「なまえがいるじゃないすか、」 「だから?」 「だから、って………なまえがいるからこれまで他の女と寝なかったんじゃないんすか?」 今度は俺が笑う番だった。逆に、シャチの笑みは凍りつく。 「なわけねえだろ」 「で、も」 「溜まってんだよ。たまには吐き出さねえと、だろ?」 「でも、なまえが」 「あいつが?」 「なまえの気持ちは、どうなるんすか」 「どうにもならねえだろ。あいつはどうせペンが」 「ロー」 ペンがいつにも増して低い声で俺を遮った。ぎらぎらと鋭い目が睨み付けてくる。 「お前は、わかってない」 「何を?」 「なまえが好きなのは、」 「お前だろ。あいつとやったくせにとぼけてんしゃねえよ」 シャチが目を見開いたのがわかった。ペンは苦々しい表情で口を開く。 「馬鹿野郎。どうしようもないな」 「あ?」 「いいか、なまえはお前とのキスが、」 がちゃ、とドアが開く音がして、ペンは言葉を止めた。ベポは寝ているこの時間。入ってきたのは当然、あいつだった。今にも喧嘩が始まりそうなこの場の雰囲気に目を丸くしている。 「どうかしたんですか?」 「女に会いに行ってくる」 即答したのは俺だった。ペンはぎりっと歯を食いしばり、シャチは息を呑んだ。 「こんな時間から、行くんですか」 「ああ」 「明日の約束を覚えてて、行くんですか」 「………ああ」 女は微笑んだ。はじめて俺に向けられた、柔らかい笑顔。どうして、笑う。どうして、動じない。やはりこいつが好きなのは、………好きなのは。 「行ってらっしゃい」 俺は温かい笑みに背を向けて、現実から逃げた。考えるのをやめた。 「ローとするの久しぶりだね」 目の前の女はにこにこと笑った。色気を含んだ、妖艶な笑み。俺はただ無表情で見つめ返す。女は裸の俺の胸に手を添えた。ちゅ、と鎖骨辺りに吸い付かれる。赤い痕が残った。俺が無意識に女を引き離せば、ぽすんとベッドに沈むその身体。物欲しそうなその目を、俺は上から覗き込んだ。 「ローが好きなの、本気で」 愛を紡ごうとするその唇を、自分のそれで塞いだ。 11.11.16 |