33 私はキャスさんに抱きついた。キャスさんはぐえっと言って倒れかけたが、なんとか私を受け止めた。元気そうなキャスさんの姿に、私の目には涙が滲んだ。キャスさん、キャスさん。涙声で名前を呼ぶ私の背中を、キャスさんはぽんぽんと優しく叩いた。 「怪我人だ。離れろ」 だが、そんな感動の場面もこの空気の読めない闇医者によってぶち壊されてしまう。私はトラファルガー・ローに腕を掴まれてキャスさんから引き離されていた。呆れ顔のペンギンさんに預けられる。なんですか、私は犬ですか。おとなしくしとけよ、なんてペンギンさんにまで言われてしまい、いよいよ情けなくなった。 △▽ キャスさんが怪我をしてから、丸一日と数時間。私が朝起きるといきなり、そういえばシャチ目覚めたぞ、となんでもないように告げられたのだ。私は大急ぎで手術室に向かい、真っ白なベッドで「あ、なまえ」なんて呑気に手を振るキャスさんに抱きついたというわけだ。 私はトラファルガー・ローにしっしっと追い払われ、むくれながらリビングに戻った。どかりと椅子に座り込むと、朝食を並べるペンギンさんが話し相手になってくれる。 「どうしてみんなそんなに平然としてるんですか。キャスさん死にかけたのに。予定よりずいぶん目覚めるの遅いのに」 「まあ確かにそうだが、それでもシャチが目覚めたのは五時間くらい前だからな。五時間経って未だに大騒ぎしてたらおかしいだろ」 「私は五時間、騒ぎ通せますよ。だってキャスさんが生きてて嬉しいから」 「これ以上騒ぐのはやめてくれよ、船長の機嫌が悪くなるから」 「あの人うるさいの嫌いですよねえ」 「………それだけじゃないんだが」 え?と問いかけるようにペンギンさんを見たが、はぐらかすように目を逸らされた。 「もう、喧嘩はしないでほしいです」 「そうだな」 「どうせまた、するんですよね」 「……ハートというチームがある以上、売られた喧嘩は買う必要がある」 「じゃあ、チームをなくせば、」 「それはできないな」 いつの間にか戻ってきていたトラファルガー・ローが、横から口を挟んだ。私の向かいの席に座ってすましている。 「どうしてですか、だってあなた………」 クルーに怪我をさせたこと、あんなに後悔してたじゃないですか。あんなことになるくらいなら、喧嘩なんてやめたほうがいいと思いませんか。 ……そう言おうとした口を、私は途中で閉じてしまった。あの日のトラファルガー・ローの姿は、忘れようと決めたばかりなのに。トラファルガー・ローが弱音を吐いたこと、私が思わず抱きしめたこと。それについてトラファルガー・ローは何も言わなかったし、何事もなかったかのように振る舞っていた。だから私も忘れようと思ったのだ。あのときはあのとき、今は今。 そんなことを考えている私を見透かしているのだろうか。トラファルガー・ローは特に何も言わずペンギンさんに「飯まだか」と聞いていた。 「そういえば、ベポは」 「ああ、まだ部屋だな。シャチが起きたときにあいつも起きて、それからまた寝たから」 「じゃあ私呼んできます」 私はトラファルガー・ローに文句を言われないうちにと、急いで立ち上がった。私とベポが仲良くしていても、トラファルガー・ローが怒ることは前に比べて少なくなった。だが代わりに、じとっとした陰険な目で睨んでくるのだ。よっぽど質が悪い。 △▽ 「ねえなまえ、シャチのお見舞い行こうよ」 「いいよ」 私はベポに促されてキャスさんの部屋に向かった。キャスさんが目覚めて数日。とっくに手術室は出られたのだけど、まだ部屋で安静にしてなくちゃいけないそうだ。でも今日は、リビングでみんなで昼食を食べられた。久しぶりの、みんなそろった食事。それぞれがいつもと変わらず平然としていたけど、内心は大喜びだったと思う。もちろん私とベポは笑顔だし、ペンギンさんとトラファルガー・ローも、珍しく微笑んでいたし。昼食は、何倍もおいしく感じられた。やっぱり、気分ってとても大切だと思う。 「おれちょっとトイレ」 「あ、いってらっしゃい」 ベポが出ていって、部屋の中には私とキャスさんの二人だけになった。キャスさんがおしゃべりだから、会話が尽きることはない。 「というわけで俺の初恋は終わりを告げたわけよ」 「不思議ですね、私ならキャスさんを取りますけど」 「そうだろ?そうだろ?やっぱあれくらいの年だとさ、性格を見るってことができないんだよな。顔を見ても俺だと思うけど!あーやだやだ!」 「きっとキャスさんみたいな子犬タイプより、バンダナさんみたいな狼タイプが好きな人だったんですね。わからなくもないです」 「…………あれ?今のはフォローじゃないよね?しかも微妙に会話噛み合ってなくない?」 「そんなことないですよー」 私はあははと笑う。どうやらキャスさんとバンダナさんは幼馴染みで、キャスさんの初恋の人はバンダナさんが好きだったそうだ。いわゆる三角関係。 「なに?なまえは俺みたいな凛々しいシェパードよりも、ああいうエロ狼のほうが好きなの?船長みたいな?」 「…………なんでトラファルガー・ローが出てくるんですか。私ならキャスさんを取るって、始めに言いましたよね」 「ほんとか、なまえ!わかってくれるか俺の魅力を」 「はい、もちろん。トイプードルみたいで可愛いです」 「………」 「………」 「………」 「………ごめんなさい、シェパードみたいでかっこいいです」 「だろ!?」 そんな風にわいわい喋っていたら、ベポが戻ってきた。あれ、遅くない?お腹痛かったのかな?時計を見ると、ベポが出ていった時間から三十分も経っていた。 「ねえ、キャプテンが下りてこいってさ!ご飯にするって」 「おっ、行こうぜなまえ」 「キャスさんも行くんですか?大丈夫ですか」 「大丈夫大丈夫!」 大丈夫と言いながら、キャスさんはふらふらしていた。私はそっと寄り添って支える。キャスさんはいやいやいやいやと連発して、私を振り払おうとした。あ、地味に傷つく。落ち込んだ私のオーラを感じ取ったのか、キャスさんはまたいやいやいやいやと連発して私に腕を預けた。もう、なんなのよ。私たちはぼそぼそと言い争いながらリビングに向かった。ああ、私やっぱり、 「キャスさんが生きてて良かったです」 「え?………なに、突然」 「血みどろで帰って来たとき、これは死んだなって思ったんです」 「ああ、死んだなって……え、諦めんなよ!」 「だって、血がすごくって……」 「うーん、そうだった?」 「はい。でも、生きてて本当に良かったです。これはキャスさんが目覚めたとき言おうと思ったんですけど、あの人に邪魔されちゃったので」 「ああ、あの人にね……」 キャスさんが苦笑いする。どうしよう、気まずくなっちゃった。でも私は、今もこうやってキャスさんの傍にいられることが嬉しいから。キャスさんが生きていることが、本当に嬉しいから。今言えないと、今度いつ伝えられるかわからないから。ふいに、キャスさんが微笑んだ。 「俺も、なまえが生まれてきてくれて本当に良かったと思うよ」 「………生まれてきて?なんですか、突然」 キャスさんは答えなかった。私たちの前を歩くベポが、リビングのドアを開く。足を踏み入れて、驚いた。テーブルに並ぶのは、いつもの何倍も豪華な食事。なにこれ、どうしたの。そして、私の目を奪ったのは、"ハッピーバースデー なまえ"と書かれた大きなケーキだった。 「お誕生日おめでとう、なまえ!」 満面の笑みでベポが私を抱きしめる。結果的に弾き出されたキャスさんも、おめでとうと言って笑った。ペンギンさんも。麻痺したような頭で、私はぼんやりと考えた。 ………………ああそうか。今日は私が、一年で一番嫌いな日だ。 11.10.07 |