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硬く生温いものにもたれ掛かり、襲い来る吐き気を追い出そうと私は必死だった。目の前はすでに真っ暗だ。ああ、どうやら視界を遮られているらしい。


「大丈夫か」
「……っ」
「貧血だな。まだ病み上がりなのに動き回るからだ」


身体がふわっと浮いたような気がして、私は思わず手元の何かを握りしめる。頭がぐらぐらして、何が起こっているかわからなかった。自分がまだ立っているのか、床に突っ伏しているのかさえもわからない。


「深呼吸。息吸って」


言われるがままに、息を吸う。吐く。しばらくそれを繰り返していると、いつの間にか部屋は沈黙に包まれていた。ぼんやりと戻ってきた視界。目の前にあるのは、黄色のパーカーで。……え、

気づけば私は、ベッドの上でトラファルガー・ローに抱きしめられていた。さっきのふわりは、ベッドに上げられる感覚だったんだ。握りしめていたものは当然、その人の服。私をすっぽりと包み込んだその人の表情は、見えない。私は慌てて離れようとした。ごめんなさい、もう大丈夫なのでと呟いて。だが、それは叶わなかった。トラファルガー・ローは優しく、それでいて力強く私に腕を回していて、とても逃れられない。様子がおかしいことに気づいた私はもがくのを止めた。頭の上から、声がした。


「どうしてシャチが怪我をしたのか、聞いたか」
「………いいえ」
「俺を庇ったんだ」


私は驚き、顔を上げようとした。だがやはり動くことはできない。トラファルガー・ローは、私に顔を見せたくないようだった。

ペンギンさんの言葉を思い出す。ローは責任を感じている、そう言っていた。このことだったのか、と私は今更納得した。ほとんど独り言のような、トラファルガー・ローの話が続く。


「俺が隙を見せて、相手がバットを振り上げた。バットなんてな、普通は当たらないんだよ。予備動作に時間がかかるだろ。その間に避けられる」
「……それなら、」
「俺が隙を見せた。気づかなかったんだ」


淡々とした口調で繰り返し、トラファルガー・ローはさらりと自分の非を認めた。意外だった。私を抱きしめる手の強さは変わらなかったし、声も落ち着いている。一見キャスさんの怪我なんて気にしてないように思われた。だが、こうして顔を見せようとしないことに、トラファルガー・ローの自責と後悔を感じ取った私は考えすぎだろうか。


「あいつが俺を庇う必要なんてなかった」
「……」
「俺のミスで俺が怪我を負うのは当然だろう。あいつが怪我をする必要なんてない」
「……でも、あなたはハートのリーダーだから、」
「そう、リーダーだ。………だからなんだ?」
「え、っと」
「仲間に怪我をさせるだけさせておいて、あとで治療しておわり。そんな俺をリーダーとして扱って、死ぬかもしれない怪我をして、死ねばおわり、生き延びればまたこんなろくでなしをリーダーとして扱う。馬鹿だろ?」
「………そんな風に思うなら、リーダーを止めてしまえばいいじゃないですか。助けてもらったくせに、まるで自分が被害者のように私に愚痴をこぼすなんて、全然リーダーらしくない」
「ああ、そうだな。止めようかと考えている」
「……は」
「俺なんかより、ペンがリーダーを務めたほうがよっぽどいい。俺のように、クルーに怪我をさせたりしないだろう。あいつらも従うだろ、」

「っ本気で言ってるんですか!?」


今の会話で、私は自分でも驚くほど怒りに震えていた。嫌な性格の人だったけど、"船長"としては尊敬してたのに。だって、クルーのみんなが"船長"を誉めるから。俺たちの"船長"は最高だって言うから。キャスさんだって。


「キャスさんがどうしてあなたを庇ったと思ってるんですか!?ハートの船長だから?自分が船長を守るべき役職だから?」
「そうだろうな」
「そんなことくらいで、そんな小さなことで、自分の命を危険にさらすわけないじゃないですか!なんでわからないんですか?キャスさんはあなたを、……あなただから庇ったんですよ」
「……はは、」
「キャスさんはあなたがハートの船長だからハートにいるって言っていました。船長が自分を引き入れてくれたからここにいるって。他のみんなも同じだって。あなたが船長だから、ハートができたんじゃないんですか。船長がトラファルガー・ローだから、………あなたが船長だからみんな必死になっているのに、どうしてそのあなたがそんな逃げるようなことを言うんですか!?」


私は怒りに任せて、回された腕を払いのけ顔を上げた。すぐ近くのトラファルガー・ローと目が合う。そして………何も言えなくなった。


さっきまでトラファルガー・ローが言っていたことは、本心じゃなかったんだ。キャスさんがどうして自分を庇ったのか、どうしてクルーたちが怪我をしてまで戦うのか。そんな簡単なこと、頭のいいこの人にはわかっていた。

それでも、自分が許せなくて。後悔に押し潰されそうで。

それはすべて私の予想だったが、間違ってはいないと思った。こんなことを口にすれば絶対怒られる。だから私は心のなかで呟いた。………あなた、泣きそうですよ。

この人がこんな顔をすることがあるなんて。逃げ出したくなることがあるなんて。それだけ、キャスさんの怪我はこの人に重くのしかかったんだ。隙を見せた自分を庇ったなんて、なおさらだろう。私は一体何をしていた?トラファルガー・ローの本当の気持ちに気づいていたはずなのに、後悔を感じ取っていたはずなのに。散々なことを言った、さっきの自分を消してしまいたい。今更、今更だけど。


私はそっとトラファルガー・ローに腕を回した。はじめてここに来たあの日、この人がしてくれたように。ただあのときこの人は、私との間に隙間を作った。私が、振り払うもすがり付くも、自分から選べるように。だがそれは、すがり付きたくても素直になれない私にとって、残酷な仕打ちだった。きっとこの人も、私と同じ。素直になんてなれないだろう。

だから私はゆっくりと力を込めて、自分に引き付けるように抱きしめた。冷たいこの人の身体に、少しでも熱を分けられるように。心まで温めてあげられるように。

私にできることなんて、こんな小さなことしかない。


11.09.26