31 「いっ…!」 「ごっごめんなさい」 私は慌てて手を引いた。貼りかけていた絆創膏が、ぽとりと落ちる。目の前のクルーは苦笑いし、絆創膏を拾って私に手渡した。私はまた恐る恐る手を伸ばし、消毒した傷口に絆創膏を貼り付ける。この人の顔の絆創膏は、五枚目だ。どれだけ殴られたんだろう。私はまた別のクルーの前に座り込み、バンダナさんの指示に従って湿布を貼っていく。手が震え続けているのは仕方ない。 今日みんながそろって出かけたのは、喧嘩が目的だったようだ。これまでも私が気づかないように喧嘩をしていたらしいけど、こんなにあからさまに怪我をして帰ってくるのははじめてだ。 キャスさんほどの重傷者は、他にいなかった。トラファルガー・ローは、手術室にこもってまだ手術を続けている。ペンギンさんも、助手を務めなくてはならないからと言って、帰ってすぐに手術室に飛び込んでいった。ベポは後始末があるとかで、まだ帰ってきていない。続々と家に辿りついたクルーたちは、みんなそれなりの怪我をしていて、何人かは腕や顔に大きな切り傷があった。ナイフがかすったらしい。かすっただけですんだのは、みんなの能力が高かったからだと思う。バンダナさんによると、傷は浅くて縫う必要はないそうだ。良かった。 キャスさんは、金属バットで殴られたらしい。言葉にするとこんなにも簡単だが、どう考えてもおかしいと思う。金属バットって、人を殴るものじゃないでしょ?あんなもので殴ったら、普通死ぬでしょ?どうしてそんなに酷いことができるの?喧嘩って、そういうものなの?みんなもそんなことをしているの?怒りと悲しみでいっぱいになる。心配だ。キャスさんが心配だ。 「なまえ、もういいからお前休めって」 「いえ、だってまだ怪我人が…」 「いいから。熱あんだろ」 いつもふざけているバンダナさんも、今は暗い顔だ。暗い顔で笑っていて、それがなんとも痛々しい。私はどうしたらいいかわからなくて、おろおろと目を伏せた。確かに、ふらふらする感覚はあった。でも、それは熱のせいなんかじゃない。私はまだここにいて、みんなの役にたちたいのだ。しかしバンダナさんはそんな私の背を押し、部屋に帰るように促した。…………って、 「どこ触ってるんですか」 「え?まだ腰だけど」 「まだって…」 「これから胸に進出しまーす」 「わかりました休ませていただきます」 私は急ぎ足でその場から逃げた。後ろでバンダナさんがけらけらと笑っていた。いつもみたいに振る舞って、私を元気づけようとしてくれたらしい。"いつもみたい"がセクハラなのは残念だけど、私はさっきよりも気が晴れていた。 部屋に戻って時計を見ると、すでに4時に近かった。いつの間にこんな時間に?私はベッドに倒れ込む。どうやら疲れていたらしく、すぐに瞼が重くなった。そのまま私は、うとうととまどろんでしまう。だがそのとき、重い扉が開く音がして私は身体を起こした。手術室だ。手術が終わったんだ。 階段をかけ下りて一階の奥へ走る。ペンギンさんが歩いてくるところだった。疲れた表情で、顔や腕に傷がある。 「ペンギンさん、キャスさんは」 「ああ、大丈夫だ。命に別状はない」 「……命にって…」 「いや、言い方が悪かったな。頭が切れただけだし、そんなに酷くはないんだ。骨に異常もない。明日には目覚める」 「それは……」 私は途中で言葉を止めた。それはよかったです、と言うべきか。…いや、言えない。全然よくない。明日まで目覚めないなんて。頭が切れたって、"だけ"で済むことなの? 「ローに、もう休むように言ってくれないか。あいつもかなり疲れているはずだ」 「私が…?」 「俺が言っても聞かないんだ」 「でも、キャスさんの様子を見ていないといけないんじゃ」 「いや、できる限りのことはした。あとはもう目覚めるのを待つだけなんだ。容態が急変することもない」 「それならどうして、」 「…………ローは、責任を感じている」 ペンギンさんは疲れたような足取りでリビングに入っていった。クルーたちの、キャスさんの安否を問う声が溢れる。一人取り残された私は、ためらいつつも手術室に足を向けた。 トラファルガー・ローとペンギンが幼馴染みなのは知っていた。だが、実際にペンギンさんがあの人を名前で呼ぶのを聞くのははじめてだ。それが今回の事の大きさを表しているようで、私は身震いした。 他の扉とは明らかに違う、重く冷たい扉の前に立つ。力を込めて叩くと、ノックとはいえないような音が響いた。中のトラファルガー・ローには間違いなく聞こえているはずだ。急にどくどくと心臓が波打ち始めた。どうしよう、まだ何を言うか決めてない。ペンギンさんの言うことを聞かなかったあの人が、私の言うことなんて聞くとは思えない。 今更怖じ気づいた私にお構い無く、扉が開いてトラファルガー・ローが顔を出した。その姿を見て、私は息を呑む。いつものパーカーにはべっとりと血がついていた。どうやら、この姿のままキャスさんの手術をしたらしい。濃さを増した隈と頬の痣のせいで、げっそりとやつれて見えた。口の端は切れており、血が固まって痛々しい。 「………何の用だ」 「あ、の」 「ペンギンに頼まれたのか」 「……はい」 「あの野郎」 トラファルガー・ローはぎりりと歯を食い縛り、誰もいない廊下を睨んだ。やっぱり私が来たことは、逆効果だったようだ。でも今更、引き下がれない。 「休んだらどうですか」 「……俺がか?」 「はい。すごく疲れているように見えます」 「シャチに比べれば大したことはない」 トラファルガー・ローは自嘲するように笑った。ちらりと後ろに目を向ける。私からも一瞬見えたそこには、頭に包帯を巻いたキャスさんが横たわっていた。血みどろの手術服を着ているかと思えば、真っ白なベッドの中だった。私がそこまで見たところで、視界にトラファルガー・ローが入り込んでくる。明らかに意図的なその動き。私が何かを言う暇もなく、トラファルガー・ローは私の手を掴んで手術室を出た。 意味がわからないままに私はただ手を引かれて歩く。ようやく出た言葉は、「キャスさんは」だった。さっきペンギンさんに聞いたばかりなのに。顔の見えないトラファルガー・ローは、短く「問題ない」とだけ答えた。問題がないようには、とても聞こえない口調だった。こんなトラファルガー・ローは、見たことがない。 気づけば私は自分の部屋に押し込まれていた。自分の後ろで閉まりかけるドアを必死に押さえる。 「病み上がりは寝てろ」 「待ってください、怪我……」 「俺なら大したことないって言ってんだろ」 「そういう問題じゃなくて」 小さい怪我だとか大きい怪我だとか、そういうことに関係なく、私は目の前のこの人が心配なだけなのだ。クルーたちの手当ては、バンダナさんがしている。キャスさんの治療は、トラファルガー・ローとペンギンさんがした。それじゃあ、あなたの手当ては誰がするの? 私は強引にトラファルガー・ローを部屋に引っ張り込んでベッドに座らせた。目を丸くして私を見るその人に構わず、ここにいてくださいと一言言って部屋を出る。急いで救急箱を借りてくれば、その人はおとなしくベッドで待っていて驚いた。まるで魂が抜けているように見える。 私はベッドの脇に立って、さっきバンダナさんに教えてもらった通りに、トラファルガー・ローの口元を消毒した。白かったはずのコットンが赤黒く染まり、私はごくりと唾を飲んだ。頭に浮かぶのは、キャスさんの血。目眩がしてきて、手元が震える。ぺたりと不器用に絆創膏を貼りつけた。どうしよう、くらくらする。 「あの、頬の痣は」 「ほっとけ」 「でも」 「…………これを貼れ」 ため息とともに差し出された湿布を、私は慎重に頬に貼った。もう血は見ていないのに、一度始まった目眩は止まらない。あ、と思った時にはもう遅く、私は前に倒れ込んでいた。 11.09.25 |