30

日が沈み、冷蔵庫から夕飯を取り出して食べた。美味しいのに美味しくない。わがまま言うのはやめなさいよ、と自分を非難する。

風呂に入って、髪を乾かして、歯磨きをして。寝る準備完了。でも昨日の睡眠時間が長すぎて、全然眠くならない。私はテレビをつけて、面白そうな番組を探した。見つからない。

いつの間にか、私の頭の中は家のことでいっぱいになっていた。よく一人でテレビを見ていたことを思い出した。家の中は恐ろしく静かで、歌おうが笑おうが叫ぼうが喚こうが泣こうが暴れようが、何をしても私の声しか響かない。誰も私の声を聞いてくれない。毎日時間になると一流シェフがやって来て、私に食事を作る。そして何も言わずに家を出ていく。

私に関わる大人たちは、慣れてくると口数が少なくなる。普通逆じゃないかと思うが、心を開かない私に愛想を尽かしてしまうんだろう。私が悪い。

父の気を引きたくて大量の商品を買い占めたように、家の中のものをすべて床に落としたこともあった。馬鹿、私って本当に馬鹿。特に酷いことになったのは食器棚の周りで、割れた陶器や硝子でめちゃくちゃだった。飛んだ破片はいくつか私に刺さり、血を流させた。あのときは青雉に殴られた。いつもだらだらと話す青雉が、激しい口調で怒鳴るのには驚いた。馬鹿じゃないの、の一言だったけど、私への威力は充分だった。

当然ながら、父は何も言わなかった。壊れた物は、次の日にはすべて新しくなっていた。残ったのは私の傷だけ。

一人ぼっちのこの家は、そんな昔の記憶を呼び起こさせる。


△▽


私は一人ベッドに寝そべっていた。日付が変わってしまったというのに、家には私しかいない。明日には帰ってくるって言ったけど、それって朝かな。みんなの用事って、一体なんだろう。……私が口を挟める話じゃないけど、気になった。まさか、帰ってこないなんてことはないよね?

私はうつ伏せになったり、仰向けになったりを繰り返した。落ち着かない。前は平気だったんだから、我慢できるはずなのに。苦手なはずのトラファルガー・ローにさえ、会いたいと思った。馬鹿みたいに涙が滲んだ。

いつも夜になると一人で泣いてしまう。どうしてなのかわからない。家が恋しいなんてことはあるわけがないし、この家の生活は楽しいことばかりだから、寂しいというわけでもない。なのに、寝る前に必ず涙が出てくる。声は圧し殺しているから、誰にも気づかれていないだろう。それでいいんだ。そう考えて毎日ひっそりと泣いた。

でも、今日は明らかに寂しさが原因。みんながいないと、寂しい。早く帰ってきて。




ドアを開いたような微かな音がして、私はむくりと身体を起こした。やっぱり、誰かが帰ってきている。足音が聞こえ、私は確信をもって部屋から飛び出した。

階段をかけ下り踊り場まで進んだところで、廊下を進むトラファルガー・ローが見えた。私には気づかず通りすぎていく。妙な違和感を感じた。何だろう。

そのまま階段を下り、玄関の方に視線を向けると、人が倒れていた。見慣れたつなぎの、その姿。私は慌てて駆け寄った。


「キャスさん…!」


うつ伏せに倒れるキャスさんは、完全に気を失っていた。顔に血の気がない。血の気のない真っ白な顔なのに、私の目には赤が飛び込んでくる。……どういうこと?この赤は何?

私は恐る恐る手を伸ばして、いつものキャスケット帽を被っていない、キャスさんの頭に触れた。髪の毛さえ赤い。そして黒い。おかしいな、キャスさんって茶髪だよね?奇妙な冷たさを感じつつ、ゆっくりと額に手を下ろす。今度こそ、べっとりとそれがついた。もう、それが何なのか気づいている。その不透明な液体は、血。キャスさんの頭から流れ出す血だった。


「キャスさん?キャスさ…シャチさん、シャチさん、」


何度も名前を呼んで、両手で身体を揺さぶる。白いつなぎに私の手形がついた。真っ赤だ。シャチさん、シャチさん、シャチさん、シャチさん、シャチさん………。ふいに、声が途切れた。もちろん私の声が、だ。自分の声がまるで他人のもののように思える。私の目は、自分の手のひらに釘付けになっていた。真っ赤な手のひら。ペンキにでも突っ込んだように、赤い。無意識に私の目が向かった先は、シャチさんの頭。傷口。未だに血を流し続けるそこは、ぱっくりと割れていて………?


「見んな」


突然私の視界はもこもことした白いもので覆われた。膝立ちをしていた私は、ぺたんと力なく座り込む。誰かがシャチさんを運んでいくのが、空気から感じ取れた。誰か、もちろんトラファルガー・ローだろう。私の視界を塞いだこの帽子も、トラファルガー・ローのものだ。そうか、シャチさんを抱えて帰ってきたトラファルガー・ローは、一度シャチさんを下ろして手術の準備に向かったんだ。そして今、準備を終えて連れて行った。この家の奥には、手術室がある。私は当然入らせてもらえない場所だったが、その存在は知っていた。

何か、手伝えることは、

立ち上がろうとした。そのはずなのに、私はまだ座っていた。足に力が入らない。どうして。目の前にあるのは白なのに、私を支配しているのは赤だった。視界がぐるぐる回る。気持ち悪い。吐きそうだ。私はきつく目を閉じた。今度は黒でいっぱいになる。なる、はずなのに。私は赤の中にいた。どこを見ても真っ赤だった。

死んだようなシャチさんの顔が目に浮かぶ。冷たい額。色のない唇。髪にこびりついた血。割れた、傷口。


「う」


私は床に倒れ込んだ。起きなきゃ、立ち上がらなきゃ。シャチさんの方は私なんかに手は出せないけど、他にできることがあるはず。大丈夫、シャチさんが死ぬわけない。まさか、もう死んで?…そんなわけない。これから手術をするんだから。大丈夫、大丈夫。シャチさんが死ぬわけない。何度も何度も言い聞かせて、私はようやく目を開けた。

きっともうすぐ、ハートのみんなが帰ってくる。怪我をしているかもしれない。林で倒れているかもしれない。私みたいな健康体が、こんなところでうずくまっているわけにはいかない。みんなの役に立てない私なんて、ここにいる意味がない。

そう思っているはずなのに、身体の震えはいつまでも止まらなかった。