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結局力尽きて倒れた女に、できるだけの処置を施してみた。外科医の俺には専門外だが、とりあえず、症状は風邪のものだと思った。小児科を目指して内科の勉強もしているシャチも保証したし、間違いないだろう。気休め程度だが熱は下がり、表情も柔らかくなってきた。頬の赤みは残っているが、さっきよりはマシだろう。

なまえ死んじゃうの?ねえ死んじゃうの?キャプテン、なまえ死んじゃうの?……そう涙声で叫びつづけたベポも、そんなベポをなだめようとするペンも、「キャプテンその処置は逆効果ですって!」と怒鳴るシャチもこの部屋から出ていき、俺と女の二人きりになった。

ベッドで寝息をたてる女は、こっちがどうしていいかわからなくなるほど無防備だった。色々な意味で。

朝の俺の心境はひどいものだった。昨日あれだけ大騒ぎしたくせに、結局逃げ出したのか。勝手に離れたら殺してやると言ったばかりなのに、さっそく離れやがって。そんなに殺されたいのか。……そんなに俺から離れたいのか。怒りが抑えられなかった。

ところが、女はけろりとした態度で姿を現した。こっちの気も知らないで。また別の意味で怒りが吹き出してきたが、俺は落ち着いているふりをした。女の様子がおかしいと気づいたからだ。

顔を見て、すぐに熱があるとわかった。赤く染まった頬、潤んだ瞳、僅かに荒い息。苦しげに歪んだ表情には、思わず惹きつけられた。この顔をもっと歪ませて、鳴かせてみたい。そんなことを考えてしまう俺は性格が悪い。でも男なんてそんなものだろ、と自分を納得させる。

そんな俺だからか、女は俺に対しかなりの警戒心を持っている。例えばソファでテレビを見るとき、シャチやペンの隣には座るくせして俺の隣には絶対に座らない。俺がソファにいた時点で寄りつかないし、女が座っているところに俺が行こうものなら、端ギリギリまで寄って避ける。失礼だと思わねえか。

そんな女が今、目の前で眠っている。風呂に入れたときもそうだったが、眠りというものは人を恐ろしく無防備にさせるようだ。例え俺が何をしても、気づかず眠り続けるだろう。だからといって手を出すつもりもないが。

そして、もうひとつの意味。いつも俺の前では強がる女が、素の表情を見せている。これも無防備と言えるだろう。

そう、この女は強がってばかりだ。さっきだって、律儀に俺の前から消えた後に倒れやがって。ベポの腕には頼るんだな。ああ、腹が立つ。毎夜一人で泣いていることも気に入らない。俺が気づいてないとでも思ってんのか。昨日"それとも"の後に考えたのはこのことだ。俺に涙を見せないだけで、シャチやペンにはすがっているのかもしれないと思うと、なんとも言えない思いが沸いた。

どうして俺を頼ろうとしないんだ。

俺の態度も態度だし、自分があの女に頼られるような人間じゃないことくらい、わかっている。それでも、そう思わずにはいられなかった。俺は女の額にそっと手を当てる。三十七度九分といったところだろう。ベポが言うように女が死んでしまうなんて、あるわけがないと思っていた。馬鹿馬鹿しい、と。だが実際にこうして熱が下がり、安心した。どうやら俺は、こんな奴のことを心配していたらしい。ため息と共に手を離そうとする。だが俺の手は、突然伸びてきた女の手に包み込まれていた。

もともと体温が低い俺に、熱のある女。繋がった手の温度差は大きく、触れ合った部分が熱い。そこから、俺にまで熱が移っていく気がした。経験したことのない、その感覚。俺の何かが変わっていく。おかしくなりそうだ。すぐに手を振り払ったほうがいいと思うのに、動かせない。目を閉じたままの女の口が、ふいに動いた。


「クザン」


その瞬間、俺は乱暴に手を引いた。熱くなっていた頭が急に冷え、さっきまでの自分が馬鹿らしくなった。誰だ、クザンって誰だよ。なんで俺の手を取りながら、他の男の名前を呼ぶんだよ。

どうせ、女には俺が見えていないんだろう。はじめて会ったときからそれは変わらないし、そもそも今は寝ているのだから、見えていなくて当然だ。昨日俺に抱きついたのも、今俺の手を掴んだのも、すべて無意識。俺じゃなくたって抱きついただろうし、手ぐらい握っただろう。むしろ起きていたとしたら、俺に対してそんなことはしないに違いない。こいつは俺が、嫌いなんだから。


△▽


女が目覚めないままに夕方になってしまい、あっという間に日は落ちた。男四人で、女が来る前を思い出させるような夕食を済ませる。その後はいくつかの話し合い。正直、女が寝ていて良かったと思った。今回はかなり危険になりそうだし、わざわざ知らせる必要はない。

さっさと風呂に入り、すでに時間は九時。いい加減起きてもいい時間なのに、一向に出てこない女は何やってるんだ。苛立ちながらも部屋に向かう。ベッドでは朝と同じように、女が静かに眠っていた。今度は体温計を使って熱を計る。脇に挟むとき、シャツからちらりと覗いた胸元は見なかったことにした。しばらくして、ピピピと音が鳴った。三十八度二分。……上がってんじゃねえか。

再び治療。専門の医者に見せればいい話なのだが、女は保険証を持っていない。例え持っていたとしても、身元がわかって居場所が親に伝わる危険がある。どっちにしても、俺はこいつを医者に見せようとは思わないだろう。

一通り作業し終え、散らばった道具を片付けていたとき、後ろから小さな声が上がった。喉をやられたのか、かすれている。


「あ、れ?」
「……起きるの遅えよ」
「なんでここに……?」
「わざわざ看病してやったからに決まってんだろ」
「ああ……」


か細い声でありがとうございます、なんて呟く女はらしくない。熱があるから当たり前だが、かなり弱っているようだ。

"クザン"という名前が頭をちらつく。誰なのか知りたい。だが、知ってどうする?そもそも、どうして俺はそんなことを気にしているんだ?俺は冷静な表情を崩さずに言う。


「何か食べるか」
「……らしくないですね、そんな優しいこと言うなんて」
「一応医者だからな」
「へえ……」


心底驚いた、というような顔を向けてくる女は全くもっていつも通りだった。生意気な奴。目の焦点はまだ定まっていないが、声はいくららはっきりしてきた。ただ、かすれている。からかってやろうか、と医者らしくないことを考えた。


「風邪を引いたときはアイスクリーム……って迷信ですか」
「誰に聞いたんだよ、そんなの」
「なんだ、嘘なんですね。クザンがいつも、」


そこまで言って、女ははっとしたように口をつぐんだ。また出てきた、クザンという男。いつも?いつもそばにいたのか?女は昨日、誰も好きになったことがないと言っていた。あれは嘘だったのか。どういう関係だったのか。ああ、馬鹿みたいだ。気にしてどうする。

だが逆に、どうして聞けないんだ?それくらいのこと、聞けない理由なんてない。俺は口を開いた。


「バニラとチョコレートがある」
「……え、いいんですか?」
「どっちがいいんだよ、さっさと言え」
「じゃあ、バニラで」


……どうして聞けなかったんだ。自分が理解できないままに部屋を出た。扉の閉まる音がいつもより冷たく聞こえたのは、気のせいだろうか。


11.09.12