26

しばらく誰も何も言わなかった。気まずい沈黙が流れる。はじめに破ったのはベポだった。


「みょうじ製菓って…みょうじチョコレートの?」
「うん」
「みょうじココアの?」
「うん」
「みょうじ牛乳の?」
「うん」
「すっごい!!」

「…ん」


女は悲しげに顔を歪めた。だが続いたベポの言葉で、驚いたように目を見開く。


「お菓子食べ放題だね!」
「……え?」
「違うの?」
「う…うん、まあそうかも。一応新製品の試作品とか届くんだ。食べられないくらい」
「あ、だからそれをおれにくれたんだね!見たことないお菓子ばっかりだと思った」
「私の……家族、だけじゃ食べきれなくて、捨てるのはもったいないから」
「そうなんだ。おいしかったよ、ありがとうなまえ!」
「……うん」


私、ベポのそういうとこが好き。そう呟いた女に、今度はベポが目を丸くする。え、どうしたの急に。ううん、何でもないの。

そして突然、女は顔を上げた。堰を切ったかのように、言葉が溢れ出す。


「私は社長の娘で、そんな自分が嫌でした。贅沢だと思われるかもしれないけど、私が持っていたのはお金だけ。私は誰のことも好きになれなくて、だから誰にも好きになってもらえませんでした。
居場所のない家から離れたくて通い始めた塾で、私はベポに出会いました。ベポが私の唯一の拠り所になって、私はベポに依存しました。お菓子で釣って、ベポを繋ぎ止めることに必死でした。ごめん、ベポ。
家を出たいと本気で考え始めたのは父が見合いの話を出してきてからです。私はそのときまだ16歳だったのに、信じられない思いでした。家出したあの日もそれについて話して、……もう本当に嫌になって」


一気にそれだけのことを言い切ると、女は疲れたように息を吐き出した。俺たちの反応を恐れているのか、目は不安げに揺れている。


「家を出ることは、父に直接伝えました。だから今私がしていることは、行き先を隠した旅行みたいなもので、ここにいても大丈夫だと思っていました。みなさんに自分が社長の娘だと明かさなかったのは、関係ないと思ったからです。家を出てしまえば私はただの女子高生で、他の女の子と変わらないと思っていました。
でもよく考えると、家出したところで所詮私はみょうじの人間で、全然大丈夫なんかじゃない。ここにいては駄目なんです。もし私が父とのいざこざを原因として家出を決めたことが公になったら、父の顔が立ちません。だからその場合、みなさんが無理矢理私を誘拐した、というシナリオに書き換えられるような気がするんです。私が何と主張しても。下手すれば警察が介入してきます。そうしたら、」

「俺の犯罪がバレるとでも?」
「……はい。医療免許持ってないのに、治療で稼いでるんですよね」
「ああ」
「もしそれが警察に伝われば、誘拐なんて関係なく逮捕されます」
「実際俺のしていることは犯罪だから仕方ねえな」
「でも、そもそも私がいなければ、見つかることもありません」
「お前がいたからって見つからねえよ」
「……だから、父は私がなんと言おうと勝手に、」

「お前はどうしたいんだ」


真っ直ぐに女を見据えて問う。女は顔を強張らせ、慌てた様子で目を伏せた。おい、ちゃんと人の話を聞けよ。


「さっき家には間抜けなシャチしかいなかっただろ。逃げようと思えば逃げられただろうし、俺たちは追いかけようがなかったはずだ」
「…私、」
「それなのにお前は海で寝てた。呑気なもんだな」
「……すみません」
「お前は本当はどうしたいんだ?さっきから核心ごまかしてんじゃねえよ。人形になりたくないとか言ったくせに、結局自分を抑えて生きる気か。今、誰がお前を縛りつけてる?お前の親父が何か言ったわけでもないし、俺たちが何か言ったわけでもない。それなのに勝手に被害妄想して勝手に溺れて勝手に出ていくってのか。そのくせ寂しくて泣くってのか。それだから悲劇のヒロイン気取りだって言ってんだよ」


俺が辛辣に言い切ったとき、女は青ざめて固まっていた。俺にしては長い言葉だった。正直、自分がここまで熱くなったことに驚いている。むきになって、馬鹿みたいだ。そんな自分に呆れると同時に、どうしてこんなに苛立っているのかに気づいた。気づいてしまった。どうやら俺は、女が俺から離れようとしたことが気に入らないらしい。

言い過ぎだよ、とベポに咎められた。シャチはおろおろと目を泳がせているし、ペンはため息をついている。どうしようもなく重い空気に、さらに苛立つ。言い過ぎ?俺は言い過ぎたのか?


「だって、もし私のせいであなたが逮捕されたら、あなたは誰を恨みますか?」
「誰も恨まねえよ。この道を選んだのは俺だ」
「キャスさんは?ペンギンさんは?ベポは?ハートのみんなは、大事な船長が捕まったら私を恨むに決まってる。だって私が悪いんだから。私がいなければ捕まることなんてないんだから。そうでしょう?」
「だから、お前がいるからって捕まらねえって」
「捕まったときのことを言っているんです!」


頬が色を取り戻し始めた。どうやら怯えを通り越して苛立ちが出始めたようだ。女は激しい口調で続ける。


「みなさんが最終的に、私なんていなければ良かったのにって思うのが怖いんです。自意識過剰かもしれないけど、ここに来てはじめて愛されてるって感じたんです。そうしたら、これまで持ったことのなかった贅沢な悩みができました。私は、みなさんに嫌われることが怖い。そうなるくらいなら、今ここを去ってしまった方がいいんです。忘れられてもいい。それでも嫌われるよりマシだから」

「……言いたいことはそれだけか」


充血した目を俺に向けて頷く女に、同情なんてわかなかった。俺の頭を支配するのは、馬鹿らしいという感情のみだ。馬鹿だ、本当にこの女は馬鹿だ。自意識過剰?忘れられてもいい?……あれだけクルーたちにちやほやされて、ふざけんじゃねえよ。


「やっぱりお前はいかれてる。もっと周りをよく見ろよ。愛されてる、そう言ったな。お前は俺たちを愛しているのか?」
「あ、当たり前です」
「それならなんで俺たちを見ようとしないんだよ。勝手なことばっか言いやがって、全部お前のことだろうが。俺たちのことは考えたことあんのか」
「みなさんの、こと?」
「昨日まで一緒に暮らしてた奴がいなくなって、はいそうですかじゃあ忘れましょうなんて言うような、つまらねえ人間だとでも思ってんのか。だから何も見えてないって言ってんだよ。自意識過剰なわけねえだろ。みんなお前が好きだからここにいることを認めてんだろ。それくらいわかれよ」
「……でも、もしそうだとしてもそれはごく普通の女子高生のなまえを好いているのであって、社長の娘なんていう面倒な立場を背負ったみょうじなまえを好いているわけじゃないんですよ。違いますか?」
「ああ、違う」
「え…?」


こぼれ落ちそうな涙で歪んだ女の顔が、驚いたように固まった。俺は静かに話を続ける。女の目が見開かれた。


「少なくとも俺とペンは、お前が社長令嬢と知った上でお前をここに住まわせていた」
「嘘……そんな、」
「お前がベポと関わった時点でペンに素性を調べさせた。そのあとで家出したお前を見つけ、リスクをわかっていながら連れてきた。お前が自分から明かさなかったから俺もペンも黙っていたが、いいか、今更それを知ったところで、気にする奴なんざハートにはいねえ。みんなお前の家なんかじゃなく、お前を見てるんだよ。お前もちゃんと俺たちを見ろ」
「……なんで?なんでそうなるんですか?おかしいですよ、私の素性も、私を匿うことのリスクもわかっていながら連れてきたなんて。どうしてそんな、」
「それはお前自身が言っただろ」
「…何を、」
「家を出てしまえばただの女子高生、家なんて関係ない。俺も同感だ」
「でもそれは、」

「いい加減飽きた。うるせえよ、黙れ」


こんなに言ってやってるのに、未だ反論しようとするこの女はどこまで愚かなのか。どうして目の前の幸せを掴もうとしないのか。どうして本能のままに行動しないのか。
もしかして、家に戻りたいというのが本音なのか。だからこんなに激しく拒否するのか。その可能性だってないわけじゃない。だが、それならその涙はなんだ、と問いたい。俺を見つめるその目はなんだ、と聞きたい。

ここにいることに理由が必要なら、俺がつくってやればいい。


「いいか、俺が出て行くなって言ってんだよ。ここに来た時点でお前はハートの一員も同然、船長命令は絶対だ。もしお前が俺の許可なく勝手に離れたら、俺の手で殺してやるよ。だから死にたくなければ、」


ここにいろ。




想像以上に部屋に響いた俺の言葉は、場の雰囲気を変えるのには十分だったようだ。しばらくの沈黙の後、ペンは呆れたように笑ったし、シャチはわーわーと何か叫んでいる。俺に同調しているようだが、この距離で聞き取れないってどういうことだ。ベポは、そうだよ、ここにいてよ、なんて優しく言いながら女の頭に手をのせる。あの女、ベポの同情を買いやがって。おいベポ、襲われても知らねえぞ。

いつものような馬鹿騒ぎの中心で、女は何も言わず俯いていた。肯定の言葉は出てこないが、もう否定の言葉だって出てこない。ただ静かに涙を流していた。

シャチが話は済んだとばかりに立ち上がり、夕飯を温め始めると、部屋一杯にカレーの匂いが広がった。そういえば、女が俺への感謝のためとかいうくだらない理由で作ったカレーは、なんだかんだ言って旨かった。いや、不味かった。どっちだろう。ただ柄にもなく嬉しかったことだけを覚えている。ほんの数日前のことなのに、随分昔に思えた。

シャチが料理を並べ終わって全員が席についたとき、女はもう泣いてはいなかった。


「私、殺されたくはないので、これからもお世話になります」


よろしくお願いします、と頭を下げる女はやはり生意気だ。まったく素直じゃない。もっと可愛いこと言ってもいいだろ。

歓声を上げたベポとシャチの反応に、また涙が浮かんだこと、俺たちが気づいてないとでも思ってんのか。


11.09.05