24

シャチの野郎。爆発しそうな殺意を押さえて家を出た。外はすでに暗くなっており、海が描き出す地平線から僅かに夕日が見えていた。俺は海沿いを歩き出す。

あの馬鹿、どこに行きやがった。

シャチの話では、あいつが家を出たのは大体四時間前だ。四時間あったら、どこまで行ける?俺は林に目を留める。あいつがこの林を抜けたことは、五回あるかないかだろう。五回で道が覚えられるものか?あの鈍臭い女に?

また舌打ちが漏れる。あの女が鈍臭いなんて、俺の勝手な思い込み。それはわかっていた。あいつは現実から目を背けているからぼーっとしているだけで、そもそも頭は悪くないのだろう。最近は見るべきものをちゃんと見て、色々考えているようだし。道ぐらい、すぐに覚えられたに違いない。

林を抜けてしばらく歩けば、すぐにバス停が見つかる。駅にだって繋がる。どこへだって行ける。もし女が林を抜けてしまっていたら、もう追いつけないだろう。……抜けていることは確実だ。さっき林を歩いた俺たちとすれ違わなかったのだから。

砂浜で立ち止まる。まとわりつく砂がうっとおしかった。

いなくなってしまった女を取り戻すには、どうしたらいい。これまで女を追いかけたことなんてなかった。俺から逃げる女なんていなかったし、そもそも逃げた女に興味はなかった。いつだって代わりの女がいた。
今だってそうだ。あの女一人がいなくなったから、なんだ?だからどうした?他の女を相手にすればいい。ただそれだけ、簡単なことだ。

俺は海を見つめた。自分の感情を整理したかった。あの女にこだわる理由はなんだ。なんで俺はあの女を追いかけようとしているんだ。

波が何度も迫ってきて、引いていく。俺は波が靴に触れないように後ろに下がった。今日の靴は治療に行くとき専用の革靴だ。顔と雰囲気がこれだから、裏稼業とはいえその他のもので医者であることを示した方がいい。そう言うペンの意見を取り入れた、無駄な高級品だ。医者だから高級品なんて全くもって馬鹿馬鹿しいが、これが驚くほど効果的。そして服装はスーツだ。濡れるわけにはいかない。

ふと、迫ってくる波に違和感を覚えて、暗くてよく見えないその一点に目を留めた。しばらく注目しているとやはり、何かがおかしい。そこだけ流れが滞っており、まるで何かに邪魔をされているように見える。……何かに、邪魔を?何に?


「おい、」


それが何なのか気づいた俺は走り出した。重く、冷たい夕暮れ時の海で、必死に足を動かす。波の止まっているそこには、女が沈んでいた。


「なまえ、」


顔が僅かに水面から出ているという状態で、あとは完全に水の中だった。その顔も、波が迫るたびに沈み、また水面に上がる。息をしているのかわからない。
海水に腕を突っ込み、女の下に通す。その身体を持ち上げてみれば、服が完全に水を吸っておりすごい重さだった。歯を食い縛りつつ砂浜にたどり着く。

そっと女を下ろし、夏だというのに冷えて震える手で脈をはかる。女の身体は冷たかった。一体何時間海に浸かっていたんだ。脈はややゆっくりではあったが、正確に刻まれていた。息もしている。


「…馬鹿野郎」


ピシッとなまえの頬を打ってみた。力が込められないのはなぜだろう。水を吸ったスーツがまとわりついて気持ちわりい。磯臭い。ただただ苛立って、俺は息を吐き出した。

……家に運ばねえと。

もう一度女を抱き上げる。俺も同じようなものだが、海水と砂にまみれたその姿は滑稽だった。そもそも行動が滑稽だ。夏だからって海の中で寝るか、普通。自殺希望者か、こいつは。


「まさか死にたかったなんて言わねえよな」


小さく呟いてみても、女は何の反応も示さなかった。……示さないと思っていたのに。
突然女の腕が、俺に巻きついた。上半身を起こした女のせいで俺はバランスを崩す。なんとか女を落とさないように気をつけつつ、俺は地面に座り込んだ。俺の足に乗ったままの女は、ただ俺を抱きしめて、胸に顔を埋め、小刻みに震えている。ざわざわと、内側で何かが騒ぐのを感じた。


「おい」
「あったかい…」
「……は?」


あったかいってなんだ、と問いただしてみても、女はそれ以上口を開かない。どうやら本当に、暖を得たいだけのようだ。意識がはっきりしているのかさえわからない。

俺はまた女を抱き上げた。地面から抱き上げることがどんなに大変か、こいつわかってんのか。文句を言ってやりたいが、ちらりと見えた女の目は完全に閉じていた。眠っている。さっきの言葉もこの行動も、寝言の一環であるとみて間違いないだろう。くだらねえ。


家の戸が開いて、光が溢れだす。一緒に出てきた真っ黒なペンとシャチが、俺たちを見て目を見開いた。シャチは安堵と心配に叫んでいる。

二人は俺を手伝おうと手を差しのべてきたが、俺は女を渡さなかった。


11.08.31