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どうしてこんなに綺麗なんだろう、と泣きたくなった。耳に流れ込む音色の美しさに心臓が鳴く。痛い。苦しい。私は熱くなった眼球を瞼で覆った。鼻の奥がつんとした。

演奏が終わる。私はゆっくりと目を開けて、赤司くんがこっちを見るのを待った。その間に喋る言葉を決めておく。顎を楽器から離した彼は、私に薄っすらと微笑みかけた。


「どうかな」
「相変わらず凄いよね。どうやったらそんな風に弾けるの?」
「なまえもできるだろう?」
「無理だよ。トリルで絶対音色乱れるし、そもそもレガートのところだって…そんな風に音が響かない」
「なまえは自己評価が低いな。僕はなまえの演奏が好きだよ」


ほんの少しだけ目尻を下げて、赤司くんは穏やかに言う。きっと本心なんだろう。嫌味のつもりも、悪気もないんだろう。だからこそ腹が立つ。私より明らかに高い実力を持っていながら私を褒める赤司くんが、憎く思えてしょうがない。

私と赤司くんは幼稚園からの付き合いだ。私の家は赤司くんの家には遠く及ばないものの一応"金持ち"の部類に入っていて、私も赤司くんも親の希望でバイオリンを習い始めた。

幼い私はバイオリンを気に入った。もっと上手になりたい、もっとたくさんの曲が弾きたい、コンクールで良い賞を取りたい。そんな感情を胸に練習に励んだ。それに対して赤司くんは、バイオリンに特に愛着を持たなかった。彼にとってこの楽器は、あくまで名家の跡取りとして身につけておくべき"技能"でしかなかった。

バイオリンが大好きな私とバイオリンに興味がない赤司くんのどちらがそれに関して優っているかというと、言うまでもなく赤司くんだ。私は赤司くんが負けるところを見たことがなく、それはバイオリン演奏でも同じことだった。私が知る限り、同年代のバイオリン奏者の中で赤司くんが一番上手い。どの曲を弾かせても完璧だった。バイオリンに対する"心"がないのになぜか音は機械的でなく、それどころか染み渡るような情緒を感じさせる。私は赤司くんの演奏が大好きで、同時に心底嫌いだった。赤司くんとは比べ物にならない練習量とバイオリンへの愛がある私が赤司くんにどうしても勝てないことは、私にとってこの世で一番受け入れ難い現実だった。

そういうわけで赤司くんを強く妬んでいながら、私は赤司くんとそこそこの仲良しだった。お母さん同士が友達で、赤司くんのお母さんが死んでしまってから私のお母さんは何かと赤司くんを気にかけた。赤司くんに会ってきたらとか、赤司くんと出かけてきたらとか、月に一度は赤司くん絡みの提案をしてくる。私はいちいちそれに従った。そうやって幼馴染の関係を続けてきた。


「私そろそろ帰るね」
「ああ、それなら車を手配しよう」
「いいってそんなの。一人で帰れるから」
「じゃあ、お茶でも飲んでいかないかい。僕が淹れてあげよう」


私は目を瞬いた。まったくもっておかしな会話だ。何が"じゃあ"なのか理解できない。赤司くんはにこりと笑って、バイオリンを置きドアの方に向かった。私がついて来ると信じ切っているらしい。私はしばらくその場でぐずぐずしていたが、結局諦めて赤司くんの背中を追った。赤司くんがドアを押さえて待っていてくれる。赤司くんの部屋はとても広いから、私がそこに着くまでには沈黙が気まずく思えるくらいの時間がかかった。こんなに広い部屋に一人ぼっちは寂しいだろうなと、私はここに来るたびに思う。





赤司くんが淹れてくれたお茶は想像していたよりずっと美味しかった。先週同じようにしてここで飲んだお茶が凄く美味しかったからもうこれ以上はないと思っていたのに、赤司くんは簡単に私の想像を飛び越える。私は素直に美味しいと言った。向かい側の席に座ってまじまじと私を見ていた赤司くんが、嬉しそうに目を細めた。


「良かった。先週淹れたものを君が気に入ったようだから、次はこれにしてみたんだ」
「ふうん?」
「同じ系統のお茶なんだよ。先週君に飲んでもらったものを気に入る人は、大抵このお茶も美味しく飲める」
「わざわざ買ったの?」
「なまえに喜んで欲しくて」


さらりと物凄いことを言う。私はごくりと唾を飲んだが、何でもないふりをしてすぐに口を開いた。しかし、「ありがとね」の一言しか出てこなかった。

私はこの数ヶ月、赤司くんとの距離感を測りかねている。急に赤司くんの態度が変わったからだ。なまえと呼んでもいいかい、といたって冷静な声で聞き、私が唖然としつつも頷くと今度はうちに来ないかと誘ってきた。赤司くんに自身に誘われたのはそのときがはじめてだった。そして今日も先週も、私は赤司くんに呼ばれてここに来た。お母さんに言われて仕方なく、というわけではない。

私の目の前にいる赤司くんはなんだか私が知っている赤司くんとは別人のようで、赤司くんの内側を探ろうとすればするほどわけがわからなくなった。話しぶりや私への態度はもちろん、何より違和感を覚えるのはバイオリンを弾く表情だ。以前よりずっと穏やかだった。

赤司くんはバイオリンに"心"を向けていない。それは確かだが、もっと正確に言うなら"好意的な心を向けていない"だ。赤司くんはバイオリンに興味がないどころかバイオリンが嫌いだった。本人がそう言ったことはないが私はそう捉えている。赤司くんはバイオリンが嫌いでピアノが嫌いで、習字が嫌いで勉強が嫌いなはずだ。優秀すぎる才能を授かった代わりに嫌いだと言える口も嫌いだと感じる脳も持たせてもらえなかったせいで淡々とすべてをこなしては来たが、彼の感覚が私と同じものだったなら彼はそれらを"嫌い"の枠に収めただろう。それほどに、彼の親が彼に要求したものは酷だった。彼がそれによって追い詰められていたことを私は知っていた。


「なまえといると本当に心が落ち着くよ。今日も来てくれてありがとう」


赤司くんの微笑みが目に痛い。痺れるような感覚が脳を駆け抜ける。好意に溢れた赤司くんの言葉は、赤司くんを憎む私の心をちくちくと責め立てた。どうしてこんなことになっているのか私にはわからない。どうしてこんな風に……縋られているのか、私には本当にわからないのだ。

豹変した赤司くんは私に"縋って"いた。そうとしか思えない。だってこんな笑顔、私にしか見せないのだから。家に呼ぶのも、物を与えて甘やかすのも私だけだ。バスケ部の緑間くんや紫原くんに聞いてみたから間違いない。彼らが言うには、赤司くんは秋の初め頃に様子が変わって、今まで以上に人を寄せ付けない雰囲気をまとったそうだ。私に対してはまったく逆だというのに。

私からすれば、赤司くんは今まで作っていた壁を取り払って、何の遠慮もためらいもなく私に手を伸ばした。私はすでに、掴まれてしまった。長年置いていた心の距離はすでにゼロに近く、私は"嫌い"と"好き"の間でぐらぐら揺れている。

どうして赤司くんが選んだのが私だったのか、私はそれもわからない。

私は赤司くんにふさわしくない。家柄がどうとか成績がどうとかそういう話ではなく、私じゃ赤司くんを受け止められないのだ。赤司くんの苦悩や苦労、赤司くん本人でさえわかっていない心の奥底。そういうものに私は触れることができないし、そもそも踏み込もうと思えない。だってそれをすると、私は憎しみに押し潰されてしまう。赤司くんのバイオリンを聴くたびに、どうしてこんなに上手なの、嫌いなくせに上手なのーーそんな、赤司くんからすれば理不尽で、私にとっては道理の通った叫びに脳が埋め尽くされてしまう。


「赤司くん、あのね、私しばらくここには来れない」
「そうかい?ああ、もうすぐコンクールがあるもんな」


もうすぐ、と言っても半年後だ。半年後をもうすぐと捉えてしまう私の危機感を赤司くんはよくわかっている。赤司くんは昔からそうだった。私が赤司くんを嫌う気持ちを察し、不必要に私に近づかないようにしていた。そうやって二人で築いた壁の存在が私はありがたかったし、これからもその壁の向こうに赤司くんを見ていたかった。


「応援してるよ、なまえ」
「ありがとう」


赤い右目と黄色の左目が私を捉える。こうやって真正面から目を合わせるようになったのはこの秋からだ。今までは逸らし続けてきたから、赤司くんの目の色なんて知らなかった。それでも、今私に向いている両眼の色合いに、なんとなくの違和感を感じて首を傾げてしまう。私の幼馴染の赤司くんは、こんな目をしていただろうか。


15.02.07