▲07▽

日曜の夜、私はリビングでピアノの練習をしていた。七時以降は近所迷惑になるので、消音モードにしてヘッドフォンから音を聴いている。突然ポケットが震え、何らかの着信を伝えてきた。きりのいいところで指を止め、内容を確認する。それは及川からのメールだった。


『明日も一緒に帰ろうね☆⌒(*^∇゜)』


一瞬思考が止まった。すぐに立ち直り、返信を打つ。


『いいんですか、本当に』

『いいんですかって何さ〜』

『せっかくの休日まで私に費やすことないですよ』

『またそれ?しつこい(_#`ω´ )_バァン
一緒に帰りたいって言ってんじゃん!』


だから、それが嘘なんでしょって言ってんじゃん。はあとため息をついてメール画面を閉じる。心なしか頭が重い。返信する気が起きなかった。

あの別れ話から一週間。私たちの関係は何も変わっていない。一週間に一度しか連絡を取らず、会いもしない関係のままだ。「猫をかぶるのはやめる」という宣言はなんだったのか、メールの顔文字だってこの通り。変わったのは私の心情だけで、別れるべきじゃないかという思いは今も私の胸でくすぶっている。

スマホをピアノの上に置こうと目線を上げたとき、ピアノに一人の男が映っていることに気づいてぎょっとした。慌てて振り向き、ヘッドフォンを外しながらその名を呼ぶ。


「飛雄!いつからいたの?」
「お前がケータイ睨んでるときから」


飛雄に会うのは久しぶりだった。このゴールデンウィーク、飛雄はずっと部活の合宿に行っていたからだ。確か今日は、東京のネコとかいう学校と練習試合をしたはずだ。


「合宿どうだった?」
「ああ、良かった」
「良かったって…なんか他に感想ないの。決戦したんでしょ」
「……音駒のセッターが、凄かった」
「へえ」
「ものすごい自然なフェイクを使うんだ。どんくらい自然かって、あの月島が引っかかるくらい。絶対アレ、できるようになってやる」
「月島って頭いいプレーする人でしょ。凄いね」
「ああ。あと、ミドルブロッカーのやつがめちゃくちゃ速かった。あっという間に日向の動きに合わせてきたからな、あいつ」


飛雄は話を続けながら部屋の隅にあった椅子を丁寧に持ち上げて運び、私の隣に置いた。フローリングが傷つくから引きずってはならないという母の決めたルールを、飛雄は忠実に守っている。私の部屋のドアをノックする習慣はなかなかつかなかったくせに、母の言うことは一度で受け入れたのだ。


「あとはリベロだな。リベロっつーか、全体的に守備力が高かった。レシーブやべえよ」
「ふーん」
「烏野はその点レシーブがな。特に日向なんて、」


飛雄は自分で持ってきた椅子に座り、その後五分間話し続けた。バレーの話になると、途端にお喋りになるのだ。お喋りはお喋りでも、楽しそうなお喋りと、憂さ晴らしのようなお喋りがある。今、飛雄が目をきらきらさせながら語っているのが嬉しくて、私は遮ることなく耳を傾けていた。

ひと段落ついたのか、飛雄が口を止める。終わった!と言いたげに瞬きするその目に瞬きを返した。「お疲れさま。良かったね、得るものが多くて」と簡単に労い、すぐに疑問を投げかける。


「で、何しに来たの」
「親父が懸賞でビール当てたんだよ。多すぎるから半分持ってけって」
「へえ。お母さんに渡した?」
「受け取ったわよー。本当にありがとね、飛雄くん」
「あ、いえ。当てたの親父なんで」
「彼そういうのマメよねえ。うちは全然応募したりしないけど」


キッチンの母が大声で会話に割り込んできた。飛雄も大声でそれに答え、私はしばらく暇になった。

今飛雄が座っている椅子は、ピアノの先生のために購入したものだ。連弾もできるよう、ちゃんとしたピアノの用の椅子を選んだ。普段はリビングの隅に押し込まれているそれを、飛雄はたびたび引っ張り出す。「一曲聴かせて」の合図だ。

私はあらためて腰を浮かせ、スマホをピアノの上に置いた。飛雄の目が私の動作を追う。何、と眉根を寄せると、飛雄は無表情で私を見つめた。


「メール?」
「さっきしてたこと?そうだけど」
「相手誰」
「なんでそんなこと聞くの」
「すげえ嫌そうな顔してたから」
「…そう?」


見て取れるほどあからさまな顔をしていたのかと、ほんの少し罪悪感が沸く。別に嫌なわけじゃないのだ。ただ、苛々するだけで。

告白してきたのも別れたくないと言ったのも及川なんだから、その結果どうなろうと私に責任はない。付き合っていたいと言った及川に甘えてしまえばいい。そう理屈ではわかっているのに、本能がそんな自分を咎める。それでいいのかと問い質す。

そんな私の葛藤に構わず及川はああやって気楽なメールを送ってくるから苛々するのだ。こっちの気も知らないで、と勝手極まりない苛立ちを覚えてしまうのだ。

私の表情がますます曇ったからか、飛雄は目と唇を尖らせた。


「あいつか」
「違う違う。高校でできた知り合い」
「友達じゃないのか」
「あ、うん、友達」


彼氏、と言う度胸はなかった。もしも私がそう答えたら、飛雄はきっと「好きなのか」と聞いてくる。真剣な、心配そうな顔をしてそれを問う。そうなったとき、上手く答えられる自信がない。

誤魔化すように立ち上がってピアノを離れ、テレビの乗った台の引き出しを開けた。そこに収まっているヘッドフォンを取り出し、ピアノに接続する。このピアノには、二つまでヘッドフォンを接続できるのだ。コードの繋がったそれを、顔をしかめたままの飛雄に手渡した。


「隠さなきゃなんねえ相手か」
「クラスメイトのトモちゃん。これでいい?」
「女?」
「もちろん。飛雄は心配しすぎ」
「お前が心配させるようなことするから」
「うん。ごめんね」


心配させた過去があるのは事実なので、素直に頭を下げた。飛雄は私の嘘を信じることに決めたようで、仕方ねえなという顔をする。ヘッドフォンを付け、はい、と私を見つめた。


「まだあんまり練習してない曲だから下手だよ」
「上手いとか下手とかどうせよくわかんねえし」
「あそ」


私は指を鍵盤に置いた。今練習している、スローテンポの曲を奏で始める。指を覚えていないので、目は楽譜に釘付けだ。たどたどしく音符をなぞるばかりで、とても聴けたもんじゃない。あーこれはだめだと思いながら弾き終わると、飛雄はぱちぱちと拍手をした。


「やめてよ。下手だったでしょ」
「だからわかんねえって」
「間違えてばっかりだったよ」
「でも俺、お前のピアノ好きだし」


平然と飛雄は言った。昔から飛雄はそう言って、よく私のピアノを聴きにくる。先生に怒られるような出来でも、母にがっかりされるような出来でも、飛雄だけは無条件に褒めてくれた。裏表のない顔で、拍手をしてくれた。


「飛雄って優しいね」
「あ?なんだよ突然。熱でもあるんじゃねえの」
「そうかも。なんか、頭が重い」
「嘘だろ。冗談だったんだけど」


飛雄は基本的に真顔だが、正真正銘の真顔、少し怒ったような真顔、穏やかな真顔など、真顔にも色々ある。さっきまでの穏やかな真顔が正真正銘の真顔に変わったのがおかしくて、私の唇は緩んだ。飛雄といると、自然な表情でいられる。それが凄く、心地よかった。

だからこそ、言えない。好きでもない人と付き合っているなんて、とても言えない。その先にいるのが彼だと知ったら、飛雄がどんな顔をするか。どんな目で私を見るか。

飛雄の気遣いに逆らってまで彼に執着する私を、飛雄に知られたくなかった。


14.06.30