▲05▽

及川が息を吐き出すのと同時に、私と時間は体育館に戻った。ボールは床で動きを止め、少し温度が下がったように感じる。もちろん感じるだけだ。そう感じるほどに、この空間は落ち着いていた。

コートの外に投げ捨ててあったタオルを、及川は片手で拾い上げた。顔に押し付け、深呼吸している。額の汗を拭い、首の汗を拭い、次に腕を拭きながら、及川は時計を見上げた。完全退校の時刻まで、あと二十分しかない。及川はタオルを首にかけ、ボールカゴを引きずりながらコートを移動し始めた。

一つ一つ腰を屈め、ボールを拾ってカゴに戻す。十回以上それを繰り返したとき、体を起こした及川の顔がふとギャラリーに向いた。驚いたように見開かれる目。


「なまえちゃん!」
「はい」
「いっ、」


いたの、と言いたいのは明らかだった。あまりに酷すぎると思ったのかすんでのところでその台詞を飲み込み、及川は一旦口を閉じた。あらためて「下りてきて」と叫ばれ、頷いて柵から手を離す。汗ばんだそれをひらひらと振って乾かしながら階段を下りた。足に痺れのような違和感があって、歩きづらい。


「拾うの、手伝いましょうか」
「うん、お願い」


私は体育館に足を踏み入れた。ボールに近づき、及川と同じように腰を屈める。次の瞬間、膝がかくんと折れた。ずっと同じ姿勢で立ち続けていたせいで疲れた足から、突然力が抜けたのだ。

ドンと音を立てて膝をつき、体重を支えるために手もつく。事態に気づいた及川が駆け寄ってきた。どちらかというと放っておいて欲しかったのに、大丈夫?と心配そうな声をかけられて、余計に恥ずかしくなる。顔に熱が集中するのを感じながら、いっそ笑い飛ばしてくれと思った。

大丈夫ですと小声で答えながら立ち上がろうとしたとき、にゅっと目の前に手が伸びてきた。顔を上げると、思ったよりも近くに及川がいた。私は及川と視線を合わせてぱち、と瞬きし、即座に首を横に振る。


「い」
「あ、ごめん。汗でぐっちょぐちょだね」
「……いえ、気にしません」


ただ立ち上がるだけのために手を借りるのには抵抗があって、「いいです」と断るつもりだった。それなのに、先にそんなことを言われてしまってはどうしようもない。汗が嫌で掴まなかったと思われるほうがもっと嫌だったので、私は唇を引きしめ、及川の手を取った。


「何もないところでつまずく子っているよね」
「つまずいてません。力が抜けただけです」
「あーあれね。透明人間の膝かっくん」
「なんですかそれ」
「え、そう言わない?」
「はじめて聞きました」


さりげなく離れた及川と私の手は、それぞれ近くのボールへと向かった。私たちは一分もしないうちにボールを集め終わり、倉庫にカゴを戻して二人で部室に向かった。

男子バレー部の部室は部室棟の二階にあった。階段を上るのが面倒だから下で待ってると言うと、運動不足にもほどがあると笑われた。いつもの、私に見せる笑顔をしていた。


「お待たせ。うん、本当にお待たせ」
「いえ」
「まさかね、最後まで待っててくれるとは思わなかったよ。なまえちゃんだし」


それはどういう意味ですか、と一歩踏み込んだ質問ができるほど、私と及川の距離は近くない。私が彼に対して作っている壁以上に、彼が私に対して作っている壁の方が厚いと感じていた。……感じるようになった、と言うべきか。


「あーっ、ちょっと待ってください!まだいます!」


校門を閉めようとしている事務員さんの姿を見つけ、及川が声を張り上げた。走り始めた彼に続いて、私も嫌々ながら足を速める。しかめっ面の私を見て、及川が吹き出した。「どんだけ運動嫌いなのなまえちゃん!」と笑う彼の息は、当然こんなことでは乱れない。


「時間過ぎてるよ、気をつけなさい」
「はーい、ごめんなさい」
「すみません」


門と門のわずかな隙間を抜けて外に出た。私の息はというと、たったこれだけの距離で上がってしまった。受験期も春休みも運動する機会なんてなかったんだから仕方ない、と言い訳する。


「結構暗くなったねー」
「はい」
「今日はお家まで送るね」
「いえ、いいです。駅までで」
「なんで!」
「だって逆方向じゃないですか。申し訳ないです」
「いいっていいって。歩けば歩くだけトレーニングになるんだから」


私は及川を見上げた。視線を感じたのか、及川も私を見る。え、なんか変なこと言った?と首を傾げる彼に、まったく似ていないはずの飛雄が重なった。


「歩くだけで、トレーニングになるんですか」
「うん。そりゃ、歩かないよりね」
「……そうですね」


目を逸らした私に、及川はぐいぐい突っ込んでくる。


「なんか今、考えたでしょ」
「だから、歩くだけでトレーニングになるのかなって」
「それ以外のこと」
「別に何も……」
「あのねえなまえちゃん、いい加減に気づいた方がいいよ。及川さんは君の嘘を見破れます」
「嘘じゃないですって」
「いーや。それにしてはなまえちゃんの目がきらきらしてた」
「いつも濁ってるみたいな言い方やめてください」
「ホントのことじゃーん」


下唇を突き出してわざとらしくむくれる隣の及川にため息をついた。及川はそんな私に構わず、弾んだ口調で続ける。


「言わないなら家まで送っていくからねっ!」
「先輩、受験生でしょう?」
「うっ……やめてよ勉強の話は」
「回り道なんてしてちゃダメです」
「フン。受験勉強の苦しみもわからない君に説教されてもなーんにもこたえないね」
「そうじゃなくて……」


私は口ごもった。回り道、は純粋に私の帰路のことを言っているわけではない。私と付き合うこと、それ自体が回り道だと思うのだ。

私は及川を利用したい。及川に、私の彼氏でいてもらいたい。だから私としてはこのまま付き合っていたいが、及川からしたら私と付き合っていることにメリットはない。いや、あるからこそ告白してきたんだろうが、絶対にデメリットの方が大きいはずだ。受験の面でも、それからもちろん、バレーの面でも。

月曜の帰路を共にするように、及川はこれからも私に時間を割くだろう。好きでもないくせに、交際の証明のためだけに貴重な時間を割くなんて馬鹿げてる。及川は今年受験生であり、今年は及川がIHに挑める最後の年だ。どんなメリットがあるか知らないが、こんな馬鹿げた回り道はするべきじゃない。

数時間前までの私ならこんなことは考えもしなかっただろうし、ましてやそれを本人に伝えるなんて論外だった。私はあくまで、及川を利用して自分の目的を果たせたらそれでいいんだから。

だけど、今の私は。あの空間で、あの温度に息を止められた私は、もう。

すっと息を吸う。意を決して、口を開いた。


「別れましょう」


14.06.17